「子供を連れ帰りたい」
ある日、孤児院に男がやってきた。
屋根裏にいる少年は、天井の隙間から薄っすらと男を見た。「上等」を知らない自分でさえ、その男がいかに上等で高貴な人間であるかが判る。あれが噂に聞き及ぶ「大貴族」という生き物なのだと、その時少年は直感した。
床に伏して階下に耳を欹てれば、院長の声音が喜悦で上擦っている。
(ぷっ! 傲慢ババアのくせに。無理すんな)
少年の口角が上向いた。あの傲慢な中年女が媚び諂う様を、"そうさせている"男をこの目で拝みたい。
そうこうしていると、男達の周りに孤児が群がり始めた。中でも押し出しの強い子供が群れの最前列につく。屋根裏の少年の「赤目」を殊更に中傷する者達だ。
「僕は──」
「あたしは──」
──また始まった。
興醒めした少年はベッド代わりの木箱に寝転ぶ。
この孤児院では、金持ちの里親候補が訪れると"ああやって"早い者勝ちで自己推薦するのだ。
(こんな場末に来るような貴族が俺らみたいな奴をまともに人間扱いするわけないだろ)
人はどこまでも残酷になれる。
孤児院を出れば、ここの誰もが見窄らしい元孤児だ。
自分が差別され迫害される未来を、あの子供達は予想だにしないのだ。
(まあ、どう転んでも俺よりはマシか)
少年は天井窓の陽光に手を翳した。その時だった。
「──此処か?」
扉の向こうで男の声がして少年は飛び起る。
ここへ来るのは、院長と院長お気に入りの虐め番長だけだ。
少年は恐る恐る扉に近づく。すると「離れろ」と男の声がしたのと同時に、扉を突き破って男物の靴が現れた。
男は「思ったより堅いな」と呟き、続けざまに二蹴りする。破れた扉の木屑が立てて落下し、白い粉塵が飛散した。
瞿然とした少年を横目に、男は遠慮なく敷居を跨ぐ。
「ひどい有様だ」
それが男の第一声で。少年は、枝垂れ柳の如き前髪の隙間から男を覗き見る。
先程の所業からは想像もつかない麗顔だ。すらりと高い上背、服の上からでも判る筋肉、少年を見る濃紫色の瞳は眼光炯々としている。
いつにない緊張が、少年の細身を支配した。
院長は手を揉みながら男の背中に語る。
「エリューズ公爵さま。恐れながら、この赤目は魔力持ちの問題児ですので、近々廃棄処分の予定です。公爵さまに何か粗相があっては、わたくし共も責任が取れません。どうかご再考を……」
「いや、いい」
天井窓の陽射しの受けた男の髪は黄金のように輝き、いっそ神々しいほどである。外套からは花のような香りがして、やはり同じ人間とは思えない。
その場に立ち尽くす少年に、男はやおら近づく。
すると黒いレザーの手袋を外し、少年の前髪を分け瞳を見た。
「赤目が欲しいんだ」
少年の赤い瞳が見開かれる。
(赤目が欲しい? なんで……)
瞳がよく見えるよう、男は少年の細面を掴む。
決して丁寧ではないが、乱暴でもない手つき。
これまで自分を痛めつけてきた、どの手つきとも違う触れ方だ。
その男──エリューズ公爵は、院長を含む全てを人払いして部屋を見回した。
少年は公爵の視線を追う。ベッドの代替品の木箱、天井の水漏れ跡、黴が生える壁紙、ボロ切れを着た赤目の自分。
「悲惨だな」
「好きでやってるんじゃありません」
「だろうな。それでも戦場よりはマシだぞ。雨風をしのげて、屍を跨がずに済む」
(一体何を考えているんだ? この男は)
少年は赤い目をこらして公爵を見る。
「ふっ、そう固くなるな。何も取って食おうなどと考えてはおらん。お前、自分の赤い目についてどれくらい知っている?」
「……っ冷やかしですか。見た目が気持ち悪いって言いたいなら、はっきり言ってください」
「そうではない。少し昔話をしてやろう──」
それから公爵が語った事は、途方もなく非現実的で、衝撃的なものだった。
「赤目は黒魔法士の子孫……?」
かつて、このイヴィテュール帝国には生贄を捧げ、悪魔契約をする黒魔法士なる者達がいた。
魔王討伐後、黒魔法士はなりを潜めたが、大罪人の証として血脈者に赤目が遺伝するという。
(つまり、俺が魔力持ちなのは……俺が黒魔法士だからって事かよ)
にわかには信じがたい。しかし、それなら自分の赤目と魔力が過剰なほど忌避されてきた事に説明がつく。
空いた口が塞がらない少年に、公爵は言った。
「黒魔法士に対抗出来るのは黒魔法士だけだ。わたしは軍人だが、魔力保持者ではない。奴等から《《あの子》》を守るために命を削り形代を作ってはいるが、やはり限界がある」
「誰を守っているんですか?」
全てを手にしていそうな男が、命を削る事を厭わない人物。少年は純粋に興味が湧いた。
公爵は木箱に腰掛け、懐から何かを取り出した。日光を弾いてきらりと輝くそれは、チクタクと静かに時を刻んでいる。
黄金色の懐中時計、本物を見るのは初めてだ。
「ピフラだよ」
懐中時計の内側には精巧な姿絵が嵌め込まれており、公爵は眉を垂らしてため息をつく。
「わたしの娘だ。この子のためなら命も惜しくない」
ぐいっと時計を押し付けられ、少年は姿絵を見た。
公爵より白んだ金髪と宝石のような薄紫色の瞳、本で見るヒロインのような美少女が、そこにいた。
(綺麗だな……こんな女、実在するのか)
「ピフラは特別な子だ。そう遠くない未来、あの子は黒魔法士の手によって命の危険に晒されるだろう」
「……どうして、そんな事を俺に話すんですか」
「言っただろう? 《《黒魔法士には黒魔法士しか対抗出来ない》》」
少年は時計を握りしめ、頭を擡げた。
長い脚を組み替えた公爵は顎杖をつく。
そして濃紫色の瞳を細め、少年に美しく微笑んだ。
「お前、名前は?」
「ありません。赤目だから赤目って呼ばれてます」
「なんて安直なんだ。もっとエリューズに相応しい名前にしなければ。そうだな、お前はエリューズ公爵家の番犬だから……ガルム。今日からお前はガルム・エリューズだ」
◇
地下牢を出たガルムは、ギリッと奥噛みした。
「使役魔法か……クソッ……」
ピフラの首筋に微かに浮いていた、円状の黒い紋様。あれは過去、マルタが使役された時と同じものだ。
紋様の色は薄く判然としなかった。ゆえに現段階で使役化された気配はなかったが、しかしそれも時間の問題だ。
主人にあたる黒魔法士を殺すまで、使役魔法は解除はできない。
今はただ、ピフラの体を閉じ込め、外敵に奪われないよう閉じ込めるしかないのだ。
犯人は十中八九、ピフラが昼間に会ったという赤目だろう。
このヘルハイム王国で表立つ赤目はガルムだけだ。少なくとも、この貴族社会では。
社交界のネットワークはバカに出来ない、噂はすぐに回ってくる。
昼間の男はシルクハットを被っていた。その男にはそれだけ財政に余裕があるという事だ。
しかし、富裕層の集まる社交界にそんな者がいれば噂がすぐに回るはずだ。
けれど、そんな噂を耳にした事は微塵もない。
もしかすると、この国の人間ではないのかもしれない。
考えられるのは、黒魔法士が……赤目が生まれし地、隣国のイヴィテュール帝国の人間──?
そう思い立ったガルムは、ピフラの部屋をもう1度訪れた。
明かりのない、夜闇に染まった義姉の部屋。
ガルムは部屋に踏み入れた──その時だ。
業風が彼に吹きつけ、背後の部屋の扉がバンッ!と音を立てて閉ざされた。
「満月とは……古今問わず美しいものですね」
部屋の中央に、月影を背負う男がいた。
その男はシルクハットを脱ぎ、恭しく礼をする。
まとめ上げた金髪、血色を廃した白肌、そして──動脈から流れ出るような赤黒い瞳。
臭いがした。ピフラの悪魔紋様と同じ臭いだ。
男に舐めるように見られ、ガルムは鼻根を寄せた。
「お前は……!?」
「ガブリエラ・ウォラクと申します。同胞にお会い出来て光栄です。公爵様」
ある日、孤児院に男がやってきた。
屋根裏にいる少年は、天井の隙間から薄っすらと男を見た。「上等」を知らない自分でさえ、その男がいかに上等で高貴な人間であるかが判る。あれが噂に聞き及ぶ「大貴族」という生き物なのだと、その時少年は直感した。
床に伏して階下に耳を欹てれば、院長の声音が喜悦で上擦っている。
(ぷっ! 傲慢ババアのくせに。無理すんな)
少年の口角が上向いた。あの傲慢な中年女が媚び諂う様を、"そうさせている"男をこの目で拝みたい。
そうこうしていると、男達の周りに孤児が群がり始めた。中でも押し出しの強い子供が群れの最前列につく。屋根裏の少年の「赤目」を殊更に中傷する者達だ。
「僕は──」
「あたしは──」
──また始まった。
興醒めした少年はベッド代わりの木箱に寝転ぶ。
この孤児院では、金持ちの里親候補が訪れると"ああやって"早い者勝ちで自己推薦するのだ。
(こんな場末に来るような貴族が俺らみたいな奴をまともに人間扱いするわけないだろ)
人はどこまでも残酷になれる。
孤児院を出れば、ここの誰もが見窄らしい元孤児だ。
自分が差別され迫害される未来を、あの子供達は予想だにしないのだ。
(まあ、どう転んでも俺よりはマシか)
少年は天井窓の陽光に手を翳した。その時だった。
「──此処か?」
扉の向こうで男の声がして少年は飛び起る。
ここへ来るのは、院長と院長お気に入りの虐め番長だけだ。
少年は恐る恐る扉に近づく。すると「離れろ」と男の声がしたのと同時に、扉を突き破って男物の靴が現れた。
男は「思ったより堅いな」と呟き、続けざまに二蹴りする。破れた扉の木屑が立てて落下し、白い粉塵が飛散した。
瞿然とした少年を横目に、男は遠慮なく敷居を跨ぐ。
「ひどい有様だ」
それが男の第一声で。少年は、枝垂れ柳の如き前髪の隙間から男を覗き見る。
先程の所業からは想像もつかない麗顔だ。すらりと高い上背、服の上からでも判る筋肉、少年を見る濃紫色の瞳は眼光炯々としている。
いつにない緊張が、少年の細身を支配した。
院長は手を揉みながら男の背中に語る。
「エリューズ公爵さま。恐れながら、この赤目は魔力持ちの問題児ですので、近々廃棄処分の予定です。公爵さまに何か粗相があっては、わたくし共も責任が取れません。どうかご再考を……」
「いや、いい」
天井窓の陽射しの受けた男の髪は黄金のように輝き、いっそ神々しいほどである。外套からは花のような香りがして、やはり同じ人間とは思えない。
その場に立ち尽くす少年に、男はやおら近づく。
すると黒いレザーの手袋を外し、少年の前髪を分け瞳を見た。
「赤目が欲しいんだ」
少年の赤い瞳が見開かれる。
(赤目が欲しい? なんで……)
瞳がよく見えるよう、男は少年の細面を掴む。
決して丁寧ではないが、乱暴でもない手つき。
これまで自分を痛めつけてきた、どの手つきとも違う触れ方だ。
その男──エリューズ公爵は、院長を含む全てを人払いして部屋を見回した。
少年は公爵の視線を追う。ベッドの代替品の木箱、天井の水漏れ跡、黴が生える壁紙、ボロ切れを着た赤目の自分。
「悲惨だな」
「好きでやってるんじゃありません」
「だろうな。それでも戦場よりはマシだぞ。雨風をしのげて、屍を跨がずに済む」
(一体何を考えているんだ? この男は)
少年は赤い目をこらして公爵を見る。
「ふっ、そう固くなるな。何も取って食おうなどと考えてはおらん。お前、自分の赤い目についてどれくらい知っている?」
「……っ冷やかしですか。見た目が気持ち悪いって言いたいなら、はっきり言ってください」
「そうではない。少し昔話をしてやろう──」
それから公爵が語った事は、途方もなく非現実的で、衝撃的なものだった。
「赤目は黒魔法士の子孫……?」
かつて、このイヴィテュール帝国には生贄を捧げ、悪魔契約をする黒魔法士なる者達がいた。
魔王討伐後、黒魔法士はなりを潜めたが、大罪人の証として血脈者に赤目が遺伝するという。
(つまり、俺が魔力持ちなのは……俺が黒魔法士だからって事かよ)
にわかには信じがたい。しかし、それなら自分の赤目と魔力が過剰なほど忌避されてきた事に説明がつく。
空いた口が塞がらない少年に、公爵は言った。
「黒魔法士に対抗出来るのは黒魔法士だけだ。わたしは軍人だが、魔力保持者ではない。奴等から《《あの子》》を守るために命を削り形代を作ってはいるが、やはり限界がある」
「誰を守っているんですか?」
全てを手にしていそうな男が、命を削る事を厭わない人物。少年は純粋に興味が湧いた。
公爵は木箱に腰掛け、懐から何かを取り出した。日光を弾いてきらりと輝くそれは、チクタクと静かに時を刻んでいる。
黄金色の懐中時計、本物を見るのは初めてだ。
「ピフラだよ」
懐中時計の内側には精巧な姿絵が嵌め込まれており、公爵は眉を垂らしてため息をつく。
「わたしの娘だ。この子のためなら命も惜しくない」
ぐいっと時計を押し付けられ、少年は姿絵を見た。
公爵より白んだ金髪と宝石のような薄紫色の瞳、本で見るヒロインのような美少女が、そこにいた。
(綺麗だな……こんな女、実在するのか)
「ピフラは特別な子だ。そう遠くない未来、あの子は黒魔法士の手によって命の危険に晒されるだろう」
「……どうして、そんな事を俺に話すんですか」
「言っただろう? 《《黒魔法士には黒魔法士しか対抗出来ない》》」
少年は時計を握りしめ、頭を擡げた。
長い脚を組み替えた公爵は顎杖をつく。
そして濃紫色の瞳を細め、少年に美しく微笑んだ。
「お前、名前は?」
「ありません。赤目だから赤目って呼ばれてます」
「なんて安直なんだ。もっとエリューズに相応しい名前にしなければ。そうだな、お前はエリューズ公爵家の番犬だから……ガルム。今日からお前はガルム・エリューズだ」
◇
地下牢を出たガルムは、ギリッと奥噛みした。
「使役魔法か……クソッ……」
ピフラの首筋に微かに浮いていた、円状の黒い紋様。あれは過去、マルタが使役された時と同じものだ。
紋様の色は薄く判然としなかった。ゆえに現段階で使役化された気配はなかったが、しかしそれも時間の問題だ。
主人にあたる黒魔法士を殺すまで、使役魔法は解除はできない。
今はただ、ピフラの体を閉じ込め、外敵に奪われないよう閉じ込めるしかないのだ。
犯人は十中八九、ピフラが昼間に会ったという赤目だろう。
このヘルハイム王国で表立つ赤目はガルムだけだ。少なくとも、この貴族社会では。
社交界のネットワークはバカに出来ない、噂はすぐに回ってくる。
昼間の男はシルクハットを被っていた。その男にはそれだけ財政に余裕があるという事だ。
しかし、富裕層の集まる社交界にそんな者がいれば噂がすぐに回るはずだ。
けれど、そんな噂を耳にした事は微塵もない。
もしかすると、この国の人間ではないのかもしれない。
考えられるのは、黒魔法士が……赤目が生まれし地、隣国のイヴィテュール帝国の人間──?
そう思い立ったガルムは、ピフラの部屋をもう1度訪れた。
明かりのない、夜闇に染まった義姉の部屋。
ガルムは部屋に踏み入れた──その時だ。
業風が彼に吹きつけ、背後の部屋の扉がバンッ!と音を立てて閉ざされた。
「満月とは……古今問わず美しいものですね」
部屋の中央に、月影を背負う男がいた。
その男はシルクハットを脱ぎ、恭しく礼をする。
まとめ上げた金髪、血色を廃した白肌、そして──動脈から流れ出るような赤黒い瞳。
臭いがした。ピフラの悪魔紋様と同じ臭いだ。
男に舐めるように見られ、ガルムは鼻根を寄せた。
「お前は……!?」
「ガブリエラ・ウォラクと申します。同胞にお会い出来て光栄です。公爵様」


