ガルムが公爵家へ来て間もなくの頃、義姉が熱を出した。毎朝ダイニングで紅茶風味のジャム……もといジャムたっぷりの紅茶を必ず摂取する彼女が顔を見せなかったのだ。
 不審に思ったガルムがメイドに問えば、ノックをしても返事がないと言う。
(ああ、新入りは知らないか)
 ガルムはそのメイドを引き連れ、義姉の部屋を訪れた。メイドは先程と同じく扉をノックしてみるが、やはりピフラの返事はない。

「もう小1時間この調子でして……」
「相手は姉上だ。そんなヤワなノックで起きるわけがない」
 メイドの所作を流し見たガルムは溜め息をつき、大きな音を立てて拳で遠慮なく扉を叩く。メイドは慄いて両手で顔を覆う。
 他家のメイドであれば、上品なノックで主人を目覚めさせ、窓を開けて小鳥の囀りを聴かせるかもしれない。
 しかし、相手が義姉とあらば話は別。
 
「これくらいしなきゃ」
 メイドに涼しい顔で告げ、ガルムは堂々と入室する。
 部屋はカーテンを閉め切ったまま薄暗く、空気が籠ったままだ。
 ツカツカとベッドの方へ歩いていき、ガルムは布団からはみ出た姉の顔を見る。
(ははっ可愛い。でも、いつもより顔が赤いよな?)
 起こさないよう細心の注意を払いつつ、姉の額に手を当てる。すると、ガルムの冷え性の手がチリッと熱を感じ取った。
 メイドは小走りでガルムの背後に近寄ってくる。

「公子さまっ助けていただきありが……」
「ねえ君、俺の言う通りにしてくれる?」
 軋むベッドにガルムは腰掛け、メイド相手に艶然と微笑う。メイドは面映くして首を縦に振った。
 
「はっはい! 公子さまのお望みならあたし何でも!」
「じゃあ、まずは朝食はパン粥に変えてアップルティーにジャムを4杯入れてきて。薬湯の口直しにチョコレートもよろしく。ミルク味で、ガナッシュが入ったやつを料理長に頼むんだ。氷嚢の中に潰したミントも忘れないで。姉上は気管が弱いから、よろしく。……いつまで突っ立ってるつもりだよ。早くやってくんない?」
 この情報は全て、先日亡くなったマルタに師事した事だ。ピフラの「糖分健康法」に驚嘆したところ、彼女が密かに教えてくれたものだった。
 
「あっ……」
 ガルムに夢中になり仕事が疎放なメイドだったが、彼ににべもなく言われ部屋を去っていった。
(公爵さまに言ってあいつも処分するか)
 公爵家の養子になって数日間、ガルムは使用人達から白眼視された。それは全く問題ない。
 公爵が突然連れて来た子供が隣国の孤児で、しかも赤目とあらば、不信感や嫌悪感を抱いて当然だ。むしろ賢明だとも思う。
 しかし近頃は屋敷の者は皆ガルムに好意的になり、同時に一部のメイドがピフラへの嫌がらせを始めた。犯人は決まって、ガルムに秋波を送る女だった。
 愚かな女達だ。何を言おうが何を差し出そうが、ガルムの愛は得られないとも知らずに。
 彼の想いは、すでにある女性に捧げられている。
 「赤色が好き」と熱弁してくれた女(ひと)だ。

「……ん……ガルム?」
「おはようございます。姉上」
 ガルムの義姉、ピフラ・エリューズ。対面早々、赤色が好きだと豪語した人間。
 嘘だとは気づいていた。ピフラの白基調の部屋に赤色の物は1つもなかったから。赤目を嫌悪するガルムについた優しい嘘だったのだ。
 それでも寄り添ってくれるピフラの存在は、ガルムにとって幸福そのもので──。
 
「やだっわたし寝坊ね……ケホケホッ」
「今日は寝ててください。俺が見てますから」
 ピフラの頬に手を当て眩暈を覚える。
 熱で目を潤ませた彼女の表情に、ガルムもまた熱に浮かされるような気分だった。

 ◇◇◇

 夜風が冷たくなり、ガルムはそっと窓を閉じた。
 手ずから運んだティーセットと水差し、薬をナイトテーブルに置きピフラの上体をそっと抱き寄せる。

「はい。夜のお薬です」
「ねえ、新しいメイドの子を知らない? 今日はあの子が世話係のはずだけど見てないのよ。何かあったのかしら」
「ああ、今朝のメイドですか? その人なら解雇されたみたいですよ。宝石に手をつけようとしたとか何とかで」
「何かの誤解じゃないかしら……真面目で良い子なのに」
(この人ほんっっっと見る目ないよな……)
 ガルムは長嘆息した。本当に善良な人間なら、病床の主人を口実にして身の程知らずに公子に秋波を送るはずがない。
 ピフラは他人の悪意に鈍く甘く、それがもどかしくてガルムは腹立たしいのだ。そうして苛立ちながら、ガルムはオブラートに包んだ粉薬をピフラの口へ運ぶ。
 しかし口中でオブラートが破れ、水を流し込むピフラの表情が激しく歪んだ。コップの水を全て飲み切り、眉間にシワを寄せて悶えている。
(「良薬は口に苦し」か。昔の人間はよく言ったもんだ)
 ピフラの大好物、ラズベリーのガナッシュが入ったチョコレート。ガルムはそれを摘んで微笑う。

「はい姉上。"あーん"してください」
「もうっ……ガルム。わたしは大人よ」
「粥を食べさせてもらっといて今更ですか?」
「ふふっそれもそうね」
 丹花の唇が指先を掠め、ガルムの心臓が跳ねた。
 なんて危なっかしく──愛らしい女だろう。眼前の義弟が"どんな男"かも知らず無防備なことだ。

「俺も"良い子"ですか?」
「もちろんよ。ガルムより良い子なんていないわ」
 やはり義姉はピフラは見る目がない。愚かしいほど男の燻りに気づかない。
 ガルムはチョコレートを嚥下した彼女の頬を撫ぜ、体温を確かめる。熱で燃えていた柔肌も今は穏やかな温もりに落ち着いていた。
 
 横になり寝返りしたピフラは、ナイトテーブルの上を熟視する。
「その本は? ふふっ読み聞かせしてくれるの?」
「はい。良さそうな物を見つけたので」
「ガルムは本当にすごいわ。読み書きを教えたらすぐ覚えるんだもの」
 その言葉通り、ガルムは博覧強記だった。
 ピフラに薫陶を受けたお陰で得た識字能力は全て習得済み、実のところすでに彼女の知識を上回っている。
 けれど、その事実をピフラに打ち明ける気はない。
 彼女の横顔をすぐ側で拝める良き口実だから。
 ガルムは牛皮に宝石が散りばめられた装丁の本を手に取る。
 題名も、著者名も、本文もない本。
 静謐な部屋の中、ガルムは真っ白なページを捲った。

「これは、捨て犬がある美しい娘に恋をする話です──」
 そして、ガルム・エリューズの物語が始まったのだ。