しろとあおの―――蝶々が出会って一緒に宙を舞う。ひらひら、ひらりひらり。
可憐でいて力強いその羽ばたきは、しろとあおの美しい飛跡が描く、夢色の世界。
白と青、そして黄色に緑。それから橙橙と桜色も。色たちは次々と現れてゆっくりと自由に流れている……まるでふわふわと空に浮かぶ彩雲のように、または風に乗ってゆらゆらする色煙みたいに……ふわり、ゆらり。
いつどんなときも、私の世界に色彩は溢れていた。
そう、私は夢でも……いろいろな『色』を見ている―――。
部屋の窓から射し込む朝光が、まだ夢の中にいる私の瞼の裏をすうっと照らす。夢色は朝の光を感じると何処か遠くの方へ流れていってしまって……それが目覚めの合図。ゆっくり目を開けると瞬きを何回かして目を覚ます。そうしたらまだベッドから起きずに、真上の白い天井をじいっと眺めて……
一日の始まりにするのは、天井を白いキャンバスに見立てて絵を描く想像をすること。漢字を習うときにする空書きの真似をして、自分であみ出した絵の天描き。
今日は何を描こうかな?
春らしくて……確か夢で見ていた……そうだ!
覚醒した私の脳はもう早く絵を想像したくて仕方がない。毎日毎日はじめの一筆を描く時がとてもわくわくする……
シュゥッ、ひとつ青線が白色の天井に出現した。私が一番好きで落ち着く青色の下絵を、一線一線キャンバスに手描きするのと同じにそこへ写し出す。
サッ、シュッ、ササッ。トン、スーゥッ。
直線と曲線と幾つも繋ぎ合わせれば、白い平面に輪郭が浮き上がってきて、徐々に立体へと形作っていく。
仕上げたのは、「モンシロチョウ」
……パタパタパタ、ふらりふらり。
私の想像した蝶は天を飛び立ち……時々……キラキラと光を放って……白く、そして青く、揺らめく美しい飛跡を描いた。
ふと、頭の奥の方でぽわんと光り燦めくような……何か……予感がした。
しろとあおの―――?
……それは、まだ私が見たことのない世界の始まりだった。
☆☆☆
「真白! 空! 行くぞー」
階段下の玄関から父の声が聞こえると「はーい」と私は自室で返事をして学校の身じたくを急いで整えた。隣の部屋からは弟の「ちょっと待ってぇ」と困った声がする。準備をして1階へ下りると開いたままの玄関ドアから車のエンジン音がした。
早足で階段を下りてきた弟をキッチンから見送りにきた母がただちに注意する。母は介護士の仕事をしていて、今日は夜勤だから弟にあれこれ小言が多い。
「いってらっしゃい!」
母のかけ声に私達は「いってきます!!」と声を揃えて玄関を出た。父の車に乗り込むと家を出発だ。毎朝父は通勤がてら車で弟と私を小学校と駅へ送ってくれる。
私達が暮らしているのは大原山の麓の大井町。家は隣りの田原町に近い。その昔、大原山そばのこの辺りでは林業や農業で生活していたそうだ。ぐるっとどこを見回しても自然が豊かで長閑な田舎。家の名字も地名からついたと教わったし、本家や分家と同じ名字の家がたくさんある。
隣町にある田原小中学校に到着すると、助手席の空が「いってきまぁす!」と元気に飛び出して行った。私は後部座席から校門に向かう空を観察しながら見送る。
小学5年生になった弟は身長154cm、ついに追い付かれてしまったと少し残念な気持ちを抱きつつも、ほろりと笑顔がこぼれた。
そして小学校を後にして父の運転で更に15分かけて田原駅へ。
新緑の暦月へと移りゆく頃。朝の陽射しは増々強くなって、若葉があちらこちらで元気に育っている。景色を眺めていると車窓から入る風がいたずらに髪で遊ぶので、鬱陶しくなった前髪を横に流して鎖骨辺りまで伸びた毛先を押さえた。
美容室に行くには母に車で連れて行って貰わなくてはならない。バス停も駅も遠くて不便だし、友達と遊びに行く所もないし、古くてボロボロした景観の場所がいくつもある。たまに都会がうらやましくなるけれど、ずっとここで17年間育った愛着が離れない。
できればこれからもここで暮らしていたい……家族と友達とこのまま……。
駅前に車が着くと私は「いってきます」を言いながらすぐ降車して、「気をつけて」と運転席から私に声をかけ仕事先へ出発した父を降りた場所で見送る。
父の車のバックライト横には青色のステッカー。白の四葉マークが描かれた身体障害者の標識が付いている。
父は左足が麻痺して動かない。私が小学生になってすぐ、仕事中に木材加工の機械に足を挟まれ大怪我を負った。長期入院の後に障害者雇用で今の仕事に就いたのだ。
父はその足を誰にも見せようとはしない。最後に見たのはだいぶ昔のことだ。私の記憶にある父の足はとても痛々しく、人間の肌の色を失っている。忘れられない悲しい色が足に刻印されているんだ。
どうか、お父さんが今日も無事に会社に着きますように……怪我をしないで帰って来れますように……。
父の車が遠くなって見えなくなるまで祈る。それからいつも駅の階段を上がり電車に乗るのだけれど、今日は珍しく電車から降りてきた乗客とすれ違った。可愛いパステルカラーのキャリーを抱えたお姉さん達。
「うわっ、超ど田舎!」
「ええ~!? コンビニないよ!?」
はい、そうなんです。
初めてここを訪れる人は皆ビックリしてます。
お姉さん達の悲鳴のような嘆きに、私は思わず心の中で答えた。これまでにも同じ叫びを何度も聞いた事があるので、笑いを堪えながら上りホームに向かった。
3両編成の大原鉄道で私は東川高校へ通学している。大原鉄道は終点の大原山駅から大井駅、私がいつも利用する田原駅、そして原川と東川の駅を通って東川高校前駅へ。
電車は出発すると原川の橋を渡り、東川も越えて高校駅まで揺られること20分。カタンカタンと自然の中に消えてゆく電車の音色。川が爽々と流れる風景に、どこまでも続く緑の景色。
最近は少しだけ憂鬱な気持ちになって窓の外を眺めている時間が増えた。
田原小中学校同級生10人のうち半分は中学卒業とともに地元を離れた。寮のある高校や都市部に住む兄姉親戚を頼っての進学。居残り組は揃って東川高校に入学したが、卒業後はみんな実家を離れて暮らすはずだ。
今年は3年生。私もここからなるべく近い都市の専門学校を受験して来年から一人暮らしをする予定だ。別れの時がやがて待っていると思うと、電車の窓から見える景色も思い出の風景画になりそうでしんみりしてしまう。
東川高校駅前にはコンビニと小さな定食屋さんがあり、次の西堀駅とその先の北野駅はもっと店が多く町が栄えていると聞く。通学する以外にめったに鉄道を利用しない私は上り方面の土地勘がほとんどない。3駅先は大原鉄道起点のJR駅で、東川高校の生徒大半はそちらから通学してくる。
私はいつも登校が早いから電車でも駅から高校までの道のりでも、他の生徒に会わずひとりぼっちだった。
駅から徒歩15分で校門をくぐると花壇を見渡し観賞してから3年2組の教室へ。そして誰もいないクラスで一番に席について、小中から仲良しの最上若菜と佐伯柚子の登校を待つ。
私の高校生活は平凡で平穏だ。学校は休まないよう心がけて出席しているけれど授業が楽しい訳でもなく、親友といる時間の方が大事で心地良く思っている。
何しろ学校での主な目的は部活動だから―――
放課後になると私はひとりで別校舎の作業棟へ。そこは築50年以上の立派な総檜造りで棟中の一室が美術室になっている。残念ながら一人の部活動で美術の専任もいない。でも趣のある教室で昔からある画材も独占して、静かに絵を描くことに没頭できるこの空間を、私は宝物のように大切にしていた。
いつも通りに美術室の入口まで来たところで違和感に足が急停止。昨日退室する時にはきちんと閉めたはずなのに、扉が開けっ放しになっている。不思議に思いながらゆっくり足を教室に踏み入れた。
入口付近を念入りに確認してから一歩ずつ探り探り……突然視界に動くものが飛び込んでくる。
「ひっ!? ……あぁ」
モンシロチョウ。一匹の白い蝶がひらひらと開いた窓から迷い込んできた。その小さな訪問客の正体に驚いた心音が安堵する。4月の終わりにしては特別暑い今日の強い陽射しから逃げてきたのだろう。窓枠の中は日光がいっぱいだけれど教室の窓際は日陰でコントラストが強く見える。
蝶はアップダウンを繰り返しふらふらしているように飛んでいた。白い羽が明るい光の反射加減によって青白く見えたりもする。窓を背景に飛ぶ蝶の姿をじっくり観察してみると、白いベールに燦めく光を散りばめながら青い影を纏っていて……なんとも儚げな美しさを感じてうっとり見惚れそうになりかけた―――!?
何か、ある。
視界に入ったさっきより強い違和感に我に返った。テーブルが3列ずつ9台とそれぞれに椅子が4脚、美術室に並んでいるのだが……2列目の窓際の席。私がいつも絵を描く場所に、見覚えのない茶色の長ソファが置いてある。
モンシロチョウはそのソファの上を暫く舞って窓から出ていった。
……予感。いる、そこに感じる。
私は背負ったリュックの肩掛けを両手で握り締め、恐る恐る足音を立てないように近づく。ソファの背もたれでその奥が見えない。ゆっくり一歩一歩近寄るほどに高鳴る胸の音は、そこに横たわった人影を見つけて全身を震え上がらせた。
「わっ!?」
咄嗟に口を両手で塞いだけれど驚いた声と心音は元に戻らない。同時に見開いた両目は、その人物像の青色に一瞬で釘付けになった。
綺麗な髪色……
青い髪なんて初めて見る……
ソファに仰向けで寝ている男子。その人の頭が私側に向いていたので青髪がすぐ目についた。髪を部分的に青色のメッシュにしている。
青……紺……違う。
……紫っぽい濃い青色。
そう、瑠璃だ。例えるなら瑠璃色。
静かで落ち着いた感じ、それでいて燦びやかな発色で艶もある。
息を潜めてそおっと近付いて見る。
つい物珍しくその美しい青色に魅入ってしまう。塞いだ両手から抑えきれない感嘆の声がもれそうだ。ちょっと惹き込まれすぎた、かもしれない。
その知らない男子の頭に覆い被さるようにじっくり眺めていたら、瞼にかかっていた長めの瑠璃髪の間から突然白眼がパッと開く。
「きゃっ!?」「なっ!?」
瞳も青っ―――ゴチンッ!!
青目にも驚いた次の瞬間には鈍い音がして頭に響き渡った。覗き込んでいた私のおでこと咄嗟に起き上がった男子のおでこがぶつかったのだ。
「ったぁーっ」という男子のうめき声を耳にした時、私のぎゅっとした目の奥では火花が散っていた。急いでおでこを擦ってじんじんする痛みを逃す。
「い"て~。誰? あぁ、美術部……」
私がチカチカした目で男子を見ると、同じようにおでこを擦ってソファに大股開きで座りしかめっ面で見られていた。
「びっくりしたぁ。襲われるのかと思った」
「ち、違っ! か、髪の色が綺麗だなって……」
男子の仰天発言にこっちがびっくりして目が飛び出そうになりながら、慌てて髪色の感想を伝える。
「あ、これ? カラーモデルってやつ。
いつも世話になってる美容師がやってくれたの。ブルーのカラコンも入れてカッコつけて宣伝用の写真撮ってもらった。今、青いのが流行ってるんだって」
「へぇ……」
瑠璃色の髪にブルーの瞳、顔面蒼白気味。白のYシャツの下にはインディコブルーのTシャツが見え、うちの制服紺青色のズボン。
それに、この放っている……
このひと、纏う青色が全て調和している……まるで夏の真っ青な空のような感じ。
「でも、青色ってすぐとれちゃうらしい。
日本人の髪質だと染まり難いんだって。
今日シャンプーしたら色落ちするから、綺麗な青も今だけだってさ」
私は彼の青色の解説に何度も頷いて納得していた。『一瞬の輝き』『儚い美しさ』だからこそ『綺麗』と感動するし強く惹かれるものだ。それはめったにない奇跡かもしれないから。その瞬間を目に焼き付け、描いて残したいと思うし今までもそうしてきた。
今だけと言う彼の瑠璃色をまた私は目を凝らして見つめてしまっていた。
「あのさぁ、
夢中になると周り見えなくなるタイプ?」
「へ?」
彼が少し顔を上げると、またグルンと澄んだ青色の瞳がすぐそこにあった。
「っ……!」
勢いよく体をのけ反ると揺れた私の毛先が彼の頬をかすめる。擽ったそうに両目を閉じて、蒼白だった彼の頬が桜色に染まった。
ドクン。
私の体は大きく波打って足がもたつき後ろに倒れそう―――!?
目の前から伸びてきた手に手首を掴まれ引っ張られる。反動を利用した彼の力に誘導されて、私はソファにお尻からストンと落ちて少しポヨンと弾む。
同時に私の心に星屑が落っこちてきて、キランッと跳ねた感じがした。
……なんだか急に恥ずかしい!
それにドキドキして落ち着かない!
ひとりでオタオタして無理矢理座らされた幼稚さに顔がかぁっとなりそうだったが、隣に座る彼は平然とポケットからスマホを取り出して触りながら喋り出す。
「いいとこ独り占めしてんね。
イイでしょ? このソファ?
隣の物置から引きずってきたの。あーやべ、寝すぎたなぁ。
これから部活? 絵、描くの?」
彼がスマホから目を離して私の方を見るのでただコクンと返事した。
「描いた絵が全部入賞するんだって? 独学で凄いよね」
そう言いながら背もたれに肘をつき片膝を座面に乗せて彼はこちらを向いた。正面で私と向き合い会話をしようとしているのだろう。にこやかな表情で見つめられるが、私はぎごちなくうつむき加減で警戒心が解けない。
さっきから私を知ってる風に話すけれど、誰?
上履きの色からして同学年らしいけど同じ2組じゃない。理系の1組か大学志望のA組?
今更顔と名前が一致しない同級生とか珍しく、段々私の首は横に倒れて眉間が狭まってゆくと、察した彼が回答をくれた。
「純平に聞いたんだよ。
部活紹介で壇上に出たろ? ぼっちの部活ってウケてたら、純平が名字同じで近所って教えてくれた」
私はそれを聞いて純平は幼馴染でお調子者だからベラベラ話したんだろうと推測した。ずっと同中は皆一緒のクラスだったけれど、純平だけ3年時に受験科目の都合で理系に移ったのだ。
ついでにこの彼も理系1組の在席だと回答に含まれていた。素性が判明して少し気が緩み、彼の話に耳を傾ける。
「それで名字が大井タハラじゃなくてタワラだってね。別に大井町と田原町があって大原山もあるんでしょ? この辺の地名も名字もめちゃややこしいな。……で下の名前なんだっけ?」
「……真白」
「大井田原まひろ、な。覚えたっ」
ボソッと名乗った私に対して彼は満足気に頬を上げた。
しっかり目を見て話をする人。私をその青髪の奥から直視で捕まえている。浴びる視線がくすぐったいけれど……負けじと私も観察して彼を脳裏にスケッチしてみる。
二重で睫毛は長く涙袋に薄っすらクマ。鼻筋は通っていて顎のラインは角々しくなくて滑らか。首は細めで華奢だけれど、喉元に鎖骨そして大きな手は骨張って男子らしく……髪もキメているから非常に整ったモデル像だ。
「じゃあ俺行くわ。一応登校したから出席交渉すっかな」
目先の美術モデルは床に置いてあったリュックを掴むとスタスタ去ろうとする。
「え? ちょ、このソファは!?」
「置いといて。いつも応接室で寝てたんだけど校長にバレちゃって。また寝に来るから」
いろいろ問題点が気になるけど、肝心な回答をまだ得ていない。私は急ぎ直球で質問する。
「あの、名前!」
「……3年1組、神崎 葵」
「アオイ!?」
最後に見せた彼の振り向きざまの不敵な笑みは、ちょっぴり眩しくて私は何度も目をパチパチさせる。静かになった美術室に私の心臓の音だけが響いて、弾んだ振動がなかなか静まらない。
いつもと違う、新しい感覚が体中を駆け巡って……ムズムズする手はそのあと絵を描くことができなかった。
可憐でいて力強いその羽ばたきは、しろとあおの美しい飛跡が描く、夢色の世界。
白と青、そして黄色に緑。それから橙橙と桜色も。色たちは次々と現れてゆっくりと自由に流れている……まるでふわふわと空に浮かぶ彩雲のように、または風に乗ってゆらゆらする色煙みたいに……ふわり、ゆらり。
いつどんなときも、私の世界に色彩は溢れていた。
そう、私は夢でも……いろいろな『色』を見ている―――。
部屋の窓から射し込む朝光が、まだ夢の中にいる私の瞼の裏をすうっと照らす。夢色は朝の光を感じると何処か遠くの方へ流れていってしまって……それが目覚めの合図。ゆっくり目を開けると瞬きを何回かして目を覚ます。そうしたらまだベッドから起きずに、真上の白い天井をじいっと眺めて……
一日の始まりにするのは、天井を白いキャンバスに見立てて絵を描く想像をすること。漢字を習うときにする空書きの真似をして、自分であみ出した絵の天描き。
今日は何を描こうかな?
春らしくて……確か夢で見ていた……そうだ!
覚醒した私の脳はもう早く絵を想像したくて仕方がない。毎日毎日はじめの一筆を描く時がとてもわくわくする……
シュゥッ、ひとつ青線が白色の天井に出現した。私が一番好きで落ち着く青色の下絵を、一線一線キャンバスに手描きするのと同じにそこへ写し出す。
サッ、シュッ、ササッ。トン、スーゥッ。
直線と曲線と幾つも繋ぎ合わせれば、白い平面に輪郭が浮き上がってきて、徐々に立体へと形作っていく。
仕上げたのは、「モンシロチョウ」
……パタパタパタ、ふらりふらり。
私の想像した蝶は天を飛び立ち……時々……キラキラと光を放って……白く、そして青く、揺らめく美しい飛跡を描いた。
ふと、頭の奥の方でぽわんと光り燦めくような……何か……予感がした。
しろとあおの―――?
……それは、まだ私が見たことのない世界の始まりだった。
☆☆☆
「真白! 空! 行くぞー」
階段下の玄関から父の声が聞こえると「はーい」と私は自室で返事をして学校の身じたくを急いで整えた。隣の部屋からは弟の「ちょっと待ってぇ」と困った声がする。準備をして1階へ下りると開いたままの玄関ドアから車のエンジン音がした。
早足で階段を下りてきた弟をキッチンから見送りにきた母がただちに注意する。母は介護士の仕事をしていて、今日は夜勤だから弟にあれこれ小言が多い。
「いってらっしゃい!」
母のかけ声に私達は「いってきます!!」と声を揃えて玄関を出た。父の車に乗り込むと家を出発だ。毎朝父は通勤がてら車で弟と私を小学校と駅へ送ってくれる。
私達が暮らしているのは大原山の麓の大井町。家は隣りの田原町に近い。その昔、大原山そばのこの辺りでは林業や農業で生活していたそうだ。ぐるっとどこを見回しても自然が豊かで長閑な田舎。家の名字も地名からついたと教わったし、本家や分家と同じ名字の家がたくさんある。
隣町にある田原小中学校に到着すると、助手席の空が「いってきまぁす!」と元気に飛び出して行った。私は後部座席から校門に向かう空を観察しながら見送る。
小学5年生になった弟は身長154cm、ついに追い付かれてしまったと少し残念な気持ちを抱きつつも、ほろりと笑顔がこぼれた。
そして小学校を後にして父の運転で更に15分かけて田原駅へ。
新緑の暦月へと移りゆく頃。朝の陽射しは増々強くなって、若葉があちらこちらで元気に育っている。景色を眺めていると車窓から入る風がいたずらに髪で遊ぶので、鬱陶しくなった前髪を横に流して鎖骨辺りまで伸びた毛先を押さえた。
美容室に行くには母に車で連れて行って貰わなくてはならない。バス停も駅も遠くて不便だし、友達と遊びに行く所もないし、古くてボロボロした景観の場所がいくつもある。たまに都会がうらやましくなるけれど、ずっとここで17年間育った愛着が離れない。
できればこれからもここで暮らしていたい……家族と友達とこのまま……。
駅前に車が着くと私は「いってきます」を言いながらすぐ降車して、「気をつけて」と運転席から私に声をかけ仕事先へ出発した父を降りた場所で見送る。
父の車のバックライト横には青色のステッカー。白の四葉マークが描かれた身体障害者の標識が付いている。
父は左足が麻痺して動かない。私が小学生になってすぐ、仕事中に木材加工の機械に足を挟まれ大怪我を負った。長期入院の後に障害者雇用で今の仕事に就いたのだ。
父はその足を誰にも見せようとはしない。最後に見たのはだいぶ昔のことだ。私の記憶にある父の足はとても痛々しく、人間の肌の色を失っている。忘れられない悲しい色が足に刻印されているんだ。
どうか、お父さんが今日も無事に会社に着きますように……怪我をしないで帰って来れますように……。
父の車が遠くなって見えなくなるまで祈る。それからいつも駅の階段を上がり電車に乗るのだけれど、今日は珍しく電車から降りてきた乗客とすれ違った。可愛いパステルカラーのキャリーを抱えたお姉さん達。
「うわっ、超ど田舎!」
「ええ~!? コンビニないよ!?」
はい、そうなんです。
初めてここを訪れる人は皆ビックリしてます。
お姉さん達の悲鳴のような嘆きに、私は思わず心の中で答えた。これまでにも同じ叫びを何度も聞いた事があるので、笑いを堪えながら上りホームに向かった。
3両編成の大原鉄道で私は東川高校へ通学している。大原鉄道は終点の大原山駅から大井駅、私がいつも利用する田原駅、そして原川と東川の駅を通って東川高校前駅へ。
電車は出発すると原川の橋を渡り、東川も越えて高校駅まで揺られること20分。カタンカタンと自然の中に消えてゆく電車の音色。川が爽々と流れる風景に、どこまでも続く緑の景色。
最近は少しだけ憂鬱な気持ちになって窓の外を眺めている時間が増えた。
田原小中学校同級生10人のうち半分は中学卒業とともに地元を離れた。寮のある高校や都市部に住む兄姉親戚を頼っての進学。居残り組は揃って東川高校に入学したが、卒業後はみんな実家を離れて暮らすはずだ。
今年は3年生。私もここからなるべく近い都市の専門学校を受験して来年から一人暮らしをする予定だ。別れの時がやがて待っていると思うと、電車の窓から見える景色も思い出の風景画になりそうでしんみりしてしまう。
東川高校駅前にはコンビニと小さな定食屋さんがあり、次の西堀駅とその先の北野駅はもっと店が多く町が栄えていると聞く。通学する以外にめったに鉄道を利用しない私は上り方面の土地勘がほとんどない。3駅先は大原鉄道起点のJR駅で、東川高校の生徒大半はそちらから通学してくる。
私はいつも登校が早いから電車でも駅から高校までの道のりでも、他の生徒に会わずひとりぼっちだった。
駅から徒歩15分で校門をくぐると花壇を見渡し観賞してから3年2組の教室へ。そして誰もいないクラスで一番に席について、小中から仲良しの最上若菜と佐伯柚子の登校を待つ。
私の高校生活は平凡で平穏だ。学校は休まないよう心がけて出席しているけれど授業が楽しい訳でもなく、親友といる時間の方が大事で心地良く思っている。
何しろ学校での主な目的は部活動だから―――
放課後になると私はひとりで別校舎の作業棟へ。そこは築50年以上の立派な総檜造りで棟中の一室が美術室になっている。残念ながら一人の部活動で美術の専任もいない。でも趣のある教室で昔からある画材も独占して、静かに絵を描くことに没頭できるこの空間を、私は宝物のように大切にしていた。
いつも通りに美術室の入口まで来たところで違和感に足が急停止。昨日退室する時にはきちんと閉めたはずなのに、扉が開けっ放しになっている。不思議に思いながらゆっくり足を教室に踏み入れた。
入口付近を念入りに確認してから一歩ずつ探り探り……突然視界に動くものが飛び込んでくる。
「ひっ!? ……あぁ」
モンシロチョウ。一匹の白い蝶がひらひらと開いた窓から迷い込んできた。その小さな訪問客の正体に驚いた心音が安堵する。4月の終わりにしては特別暑い今日の強い陽射しから逃げてきたのだろう。窓枠の中は日光がいっぱいだけれど教室の窓際は日陰でコントラストが強く見える。
蝶はアップダウンを繰り返しふらふらしているように飛んでいた。白い羽が明るい光の反射加減によって青白く見えたりもする。窓を背景に飛ぶ蝶の姿をじっくり観察してみると、白いベールに燦めく光を散りばめながら青い影を纏っていて……なんとも儚げな美しさを感じてうっとり見惚れそうになりかけた―――!?
何か、ある。
視界に入ったさっきより強い違和感に我に返った。テーブルが3列ずつ9台とそれぞれに椅子が4脚、美術室に並んでいるのだが……2列目の窓際の席。私がいつも絵を描く場所に、見覚えのない茶色の長ソファが置いてある。
モンシロチョウはそのソファの上を暫く舞って窓から出ていった。
……予感。いる、そこに感じる。
私は背負ったリュックの肩掛けを両手で握り締め、恐る恐る足音を立てないように近づく。ソファの背もたれでその奥が見えない。ゆっくり一歩一歩近寄るほどに高鳴る胸の音は、そこに横たわった人影を見つけて全身を震え上がらせた。
「わっ!?」
咄嗟に口を両手で塞いだけれど驚いた声と心音は元に戻らない。同時に見開いた両目は、その人物像の青色に一瞬で釘付けになった。
綺麗な髪色……
青い髪なんて初めて見る……
ソファに仰向けで寝ている男子。その人の頭が私側に向いていたので青髪がすぐ目についた。髪を部分的に青色のメッシュにしている。
青……紺……違う。
……紫っぽい濃い青色。
そう、瑠璃だ。例えるなら瑠璃色。
静かで落ち着いた感じ、それでいて燦びやかな発色で艶もある。
息を潜めてそおっと近付いて見る。
つい物珍しくその美しい青色に魅入ってしまう。塞いだ両手から抑えきれない感嘆の声がもれそうだ。ちょっと惹き込まれすぎた、かもしれない。
その知らない男子の頭に覆い被さるようにじっくり眺めていたら、瞼にかかっていた長めの瑠璃髪の間から突然白眼がパッと開く。
「きゃっ!?」「なっ!?」
瞳も青っ―――ゴチンッ!!
青目にも驚いた次の瞬間には鈍い音がして頭に響き渡った。覗き込んでいた私のおでこと咄嗟に起き上がった男子のおでこがぶつかったのだ。
「ったぁーっ」という男子のうめき声を耳にした時、私のぎゅっとした目の奥では火花が散っていた。急いでおでこを擦ってじんじんする痛みを逃す。
「い"て~。誰? あぁ、美術部……」
私がチカチカした目で男子を見ると、同じようにおでこを擦ってソファに大股開きで座りしかめっ面で見られていた。
「びっくりしたぁ。襲われるのかと思った」
「ち、違っ! か、髪の色が綺麗だなって……」
男子の仰天発言にこっちがびっくりして目が飛び出そうになりながら、慌てて髪色の感想を伝える。
「あ、これ? カラーモデルってやつ。
いつも世話になってる美容師がやってくれたの。ブルーのカラコンも入れてカッコつけて宣伝用の写真撮ってもらった。今、青いのが流行ってるんだって」
「へぇ……」
瑠璃色の髪にブルーの瞳、顔面蒼白気味。白のYシャツの下にはインディコブルーのTシャツが見え、うちの制服紺青色のズボン。
それに、この放っている……
このひと、纏う青色が全て調和している……まるで夏の真っ青な空のような感じ。
「でも、青色ってすぐとれちゃうらしい。
日本人の髪質だと染まり難いんだって。
今日シャンプーしたら色落ちするから、綺麗な青も今だけだってさ」
私は彼の青色の解説に何度も頷いて納得していた。『一瞬の輝き』『儚い美しさ』だからこそ『綺麗』と感動するし強く惹かれるものだ。それはめったにない奇跡かもしれないから。その瞬間を目に焼き付け、描いて残したいと思うし今までもそうしてきた。
今だけと言う彼の瑠璃色をまた私は目を凝らして見つめてしまっていた。
「あのさぁ、
夢中になると周り見えなくなるタイプ?」
「へ?」
彼が少し顔を上げると、またグルンと澄んだ青色の瞳がすぐそこにあった。
「っ……!」
勢いよく体をのけ反ると揺れた私の毛先が彼の頬をかすめる。擽ったそうに両目を閉じて、蒼白だった彼の頬が桜色に染まった。
ドクン。
私の体は大きく波打って足がもたつき後ろに倒れそう―――!?
目の前から伸びてきた手に手首を掴まれ引っ張られる。反動を利用した彼の力に誘導されて、私はソファにお尻からストンと落ちて少しポヨンと弾む。
同時に私の心に星屑が落っこちてきて、キランッと跳ねた感じがした。
……なんだか急に恥ずかしい!
それにドキドキして落ち着かない!
ひとりでオタオタして無理矢理座らされた幼稚さに顔がかぁっとなりそうだったが、隣に座る彼は平然とポケットからスマホを取り出して触りながら喋り出す。
「いいとこ独り占めしてんね。
イイでしょ? このソファ?
隣の物置から引きずってきたの。あーやべ、寝すぎたなぁ。
これから部活? 絵、描くの?」
彼がスマホから目を離して私の方を見るのでただコクンと返事した。
「描いた絵が全部入賞するんだって? 独学で凄いよね」
そう言いながら背もたれに肘をつき片膝を座面に乗せて彼はこちらを向いた。正面で私と向き合い会話をしようとしているのだろう。にこやかな表情で見つめられるが、私はぎごちなくうつむき加減で警戒心が解けない。
さっきから私を知ってる風に話すけれど、誰?
上履きの色からして同学年らしいけど同じ2組じゃない。理系の1組か大学志望のA組?
今更顔と名前が一致しない同級生とか珍しく、段々私の首は横に倒れて眉間が狭まってゆくと、察した彼が回答をくれた。
「純平に聞いたんだよ。
部活紹介で壇上に出たろ? ぼっちの部活ってウケてたら、純平が名字同じで近所って教えてくれた」
私はそれを聞いて純平は幼馴染でお調子者だからベラベラ話したんだろうと推測した。ずっと同中は皆一緒のクラスだったけれど、純平だけ3年時に受験科目の都合で理系に移ったのだ。
ついでにこの彼も理系1組の在席だと回答に含まれていた。素性が判明して少し気が緩み、彼の話に耳を傾ける。
「それで名字が大井タハラじゃなくてタワラだってね。別に大井町と田原町があって大原山もあるんでしょ? この辺の地名も名字もめちゃややこしいな。……で下の名前なんだっけ?」
「……真白」
「大井田原まひろ、な。覚えたっ」
ボソッと名乗った私に対して彼は満足気に頬を上げた。
しっかり目を見て話をする人。私をその青髪の奥から直視で捕まえている。浴びる視線がくすぐったいけれど……負けじと私も観察して彼を脳裏にスケッチしてみる。
二重で睫毛は長く涙袋に薄っすらクマ。鼻筋は通っていて顎のラインは角々しくなくて滑らか。首は細めで華奢だけれど、喉元に鎖骨そして大きな手は骨張って男子らしく……髪もキメているから非常に整ったモデル像だ。
「じゃあ俺行くわ。一応登校したから出席交渉すっかな」
目先の美術モデルは床に置いてあったリュックを掴むとスタスタ去ろうとする。
「え? ちょ、このソファは!?」
「置いといて。いつも応接室で寝てたんだけど校長にバレちゃって。また寝に来るから」
いろいろ問題点が気になるけど、肝心な回答をまだ得ていない。私は急ぎ直球で質問する。
「あの、名前!」
「……3年1組、神崎 葵」
「アオイ!?」
最後に見せた彼の振り向きざまの不敵な笑みは、ちょっぴり眩しくて私は何度も目をパチパチさせる。静かになった美術室に私の心臓の音だけが響いて、弾んだ振動がなかなか静まらない。
いつもと違う、新しい感覚が体中を駆け巡って……ムズムズする手はそのあと絵を描くことができなかった。



