「とても、興味惹かれて、ひとりであの林の中を通り抜けて、この砂浜に来たんだ」
「ぼくのように?」
「そう、同じだ」
「その人は、ちょうどここにいた。わしがいるこの場所だ」
 老人は、ひとつ一つ噛みしめるように言葉を選び話し始めた。
「わしは、この地を離れて、東京で仕事をしていた。結婚はしとらんかったし、子供もいなかった。あそこでは、そんな一人もんは男も女もたくさんおった。都会というのは、ひとりでも退屈せんところだよ。
 ここには、まだお袋がいたから、年に何回かはお袋のいた実家に帰ってきていた。墓参りもあったしな。お袋はもう年で、墓の掃除もできんようだったから、たまにはわしが掃除する必要があったのじゃよ。
 実家は、お前さんが歩いてきたあの松林の向こうにあった。帰ってきたときは、毎朝のようにこの砂浜を散歩した。日課のようになっていたのう。
 お袋を墓に連れて行って、墓の清掃をして手を合わせる。お袋は、墓の前で長いこと手を合わせていたことを覚えておる。先に死んだ親父の名前や兄弟親戚の名前を思いつく限り並べておった。
 みんなもうこの世におらん人ばかりじゃった。
 そのお袋もなくなって、葬式と四十九日を一緒に終わらせた後、ここに来たら、その人がここに腰かけて海を眺めていた。
 わしは、海獣を見た興奮で、その人に話しかけた。その人は、白くなったあごひげをなでながら、わしの話を聞いておった。にこにこと笑っていたような気がするよ。何か嬉しそうでもあった」
「その人にとっても、海獣が見える人に出会ったのは何十年ぶりだったんですか」
「そうかもしれん。だが、その人は何も言わんかった。にこにこと笑いながら、興奮したわしの話を聞いておった。しかし、今のわしのように、あの海獣にはとても愛着をもっているのを感じたよ。
 まるで、自分の愛する子や孫を見るかのような目で、あの海獣を見ていた」
と言って、フッと笑った。
「どうしました」
「いや、わしには子も孫もいないので、わしの錯覚だったかもしれんがね」
「今はご家族やご親戚はいらっしゃらないのですか」
「だれもいなくなった。それだけ、わしが長生きしすぎたということかもしれん」
 そして、「少しはお主の話も聞かせてくれんか」と訊いてきた。
 僕には、人に話せることなどない。平凡に、平均点で、小中高校を卒業し、地方の国立大学を出て、今はフリーで仕事をしている。順調な人生といえばそうだが、特に人に話して面白いような事件や経験があるわけではない。
「ぼくには、何もないですよ」
「この海岸から、お主の家は近いのか」
「車で三十分くらいです」
「車で来たのか」
「ええ」
「それはいいのう」
「どうしてですか」
「楽じゃからの」
「運転できるんですか」
「もう何十年もやっとらんから、どうじゃろうねえ」
と言って、老人はちょっと考えてから、
「お主の車を見せてくれんか」と言い出した。
ちょうど、帰りたいと思ってきたところだったので、渡りに船で、「いいですよ」と、僕は立ち上がった。
 老人を先導して、来た方角に広がる松林を目指して歩き出した。
「このあたりは、わしの方が詳しいだろうから、わしが先に行こう」と言って、老人は僕の前に出た。
「あの松林の中だったのじゃろう」
「そうです」
 老人は心なしか少し早歩きになった。
「大丈夫ですか。そんなに急ぐと息が切れませんか」
と僕が言うと、老人はハッとしたようになって、「そうじゃった、そうじゃった」と一人頷いて、にっこりした。「急ぐ必要はない」
 それでも、松林が近づいてくると、何故か老人の足は速くなった。僕はやっとの思いで後について行った。
 松林に入る直前で、老人は立ち止まると、振り返った。
「お主の車は、何かな」
「四輪駆動のヴィーグルです」
「鍵は持っておるか」
「ここに」と、ポケットから鍵束を出したところ、老人は意外なほどの素早さで、その鍵束を盗った。
「何をするんですか」
という間もなく、老人は松林の中に駆け出した。
 十数メートル走って、ちょっと振り返ると「すまんな」と僕に声をかけ、また走っていった。