振り返ると、肩からバッグを下げた白髪のご老人が立っていた。
「はい」
老人は嬉しそうに笑い、「三十年ぶりですなあ」と言った。
「海獣を見たのが、ですか」
「いや、あれを見ることができる人とであったのが、です」
してみると、誰にでも見えるものでもないらしい。「どうしてですか」と曖昧に聞いてみた。
「わかりません。ただ、見えない人には、まったく見えないらしい」
と、老人は少しさびしげに答えた。
海獣が見えるということは、何か特別のことらしい。僕はちょっと得意な気持ちになった。自分は、何か普通の人とは違う者になったような、優越感にも似た感じだった。
「わしは、あの生き物を最初に見たとき、ほかのものとは違う何か特別な思いを抱いた。正直に言うと、嬉しかったのです。それまで、当たり前と思っていたことが全部ひっくり返されたようでした。」
老人の視線の先にいる海獣は、小さな湾に中を悠々と泳いでいた。さっきまでとは違い、誰にも邪魔されず、恐れるものなど何もいなくなったかのようだった。腰を下ろした老人は、その様を嬉しそうに見守っている。
「あなたが、あの海獣を守っているのですか」
「いやいや、めっそうもない。あれは、人となじむことをしません。わしはただ、じっと見守っているだけですよ。それにあいつは、いつでも姿を見せるわけではない。まったく気まぐれですから」
老人は、バッグからタッパを取り出すと、蓋を開けた。中には、サンドイッチがぎっしりと詰まっていた。
「どうですかな」と、そのサンドイッチを勧めてくれる。食べ物を見ると、急におなかがすいてきた。
「ありがとうございます。」
老人の脇に座って、勧められるままにサンドイッチを頬張った。
老人は、お茶まで用意してくれた。必ずここで朝食をとることにしているのだろうか、用意がいい。手慣れた感じだった。
「あれは、不思議なやつです。わしになど目もくれないし、現れてほしいと思っていても、知らぬ顔です。ところが、出てきたときには、愛嬌良く海面を跳びまわる。言うに言われぬかわいげがありましてな。」
とてもうれしそうに話す。僕には経験はないが、孫の相手をするおじいちゃんというものは、こういうものなのかもしれないという気がした。
「おじいさんはずっとここにいて、もう三十年もあの海獣を見続けているのですか」
すると、老人はちょっと照れたように、頭をなでた。
「いやあ、そうでもないですな。わしも、他所で仕事をしていた時期もあったから、ずっとここにいたわけじゃあないです。定年になって、故郷に戻ってきてからはずっとここにおりますがね。」
そう言われて、僕は改めて老人の顔をじっと見た。七十は過ぎている。三十年前は四十代だから、この地に住んでいたわけではないことになる。
であれば、三十年ぶりにあの海獣が見える人に出会ったというという言葉は何を意味しているのだろう。
「失礼ですが、おいくつになられましたか」
老人は笑って、「もう八十です。」
「お若く見えますね。」
「毎日暇ですから、歩き回ってばかりおります。そのせいでしょう。それに、今は一人身ですから何でもせにゃあなりません。」
あまりプライベートなことを尋ねるのも気が引けたので、三十年前のことを聞いてみた。
「さっき、三十年ぶりと言われてましたが、そのとき出会った人はどんな人だったのですか」
老人はちょっと驚いたような顔をした。そして、何か思い出すように遠くを見つめた。
「たまたま、里帰りしてきてここに散歩に来たときでした。あの林の向こうから、そう、ちょうどあなたが歩いてきたように一人で来られた。」
老人は、ひとつ一つ思い出すのに時間をかけていた。僕は、ただ黙って聞くことにした。
「その人は当時のわしから見て、かなり年を取っていたように思う。足元もおぼつかなかったのではなかったかな」
「僕のように、あの林から歩いてきたのですか」
老人は、ちょっと微笑んで、「いや、歩いてきたのは、わしの方だった。わしは、あの林の向こうで初めてあやつを見たとき」
といって、海を見た。
海獣はどこに行ったのか、海面は静かだった。
「はい」
老人は嬉しそうに笑い、「三十年ぶりですなあ」と言った。
「海獣を見たのが、ですか」
「いや、あれを見ることができる人とであったのが、です」
してみると、誰にでも見えるものでもないらしい。「どうしてですか」と曖昧に聞いてみた。
「わかりません。ただ、見えない人には、まったく見えないらしい」
と、老人は少しさびしげに答えた。
海獣が見えるということは、何か特別のことらしい。僕はちょっと得意な気持ちになった。自分は、何か普通の人とは違う者になったような、優越感にも似た感じだった。
「わしは、あの生き物を最初に見たとき、ほかのものとは違う何か特別な思いを抱いた。正直に言うと、嬉しかったのです。それまで、当たり前と思っていたことが全部ひっくり返されたようでした。」
老人の視線の先にいる海獣は、小さな湾に中を悠々と泳いでいた。さっきまでとは違い、誰にも邪魔されず、恐れるものなど何もいなくなったかのようだった。腰を下ろした老人は、その様を嬉しそうに見守っている。
「あなたが、あの海獣を守っているのですか」
「いやいや、めっそうもない。あれは、人となじむことをしません。わしはただ、じっと見守っているだけですよ。それにあいつは、いつでも姿を見せるわけではない。まったく気まぐれですから」
老人は、バッグからタッパを取り出すと、蓋を開けた。中には、サンドイッチがぎっしりと詰まっていた。
「どうですかな」と、そのサンドイッチを勧めてくれる。食べ物を見ると、急におなかがすいてきた。
「ありがとうございます。」
老人の脇に座って、勧められるままにサンドイッチを頬張った。
老人は、お茶まで用意してくれた。必ずここで朝食をとることにしているのだろうか、用意がいい。手慣れた感じだった。
「あれは、不思議なやつです。わしになど目もくれないし、現れてほしいと思っていても、知らぬ顔です。ところが、出てきたときには、愛嬌良く海面を跳びまわる。言うに言われぬかわいげがありましてな。」
とてもうれしそうに話す。僕には経験はないが、孫の相手をするおじいちゃんというものは、こういうものなのかもしれないという気がした。
「おじいさんはずっとここにいて、もう三十年もあの海獣を見続けているのですか」
すると、老人はちょっと照れたように、頭をなでた。
「いやあ、そうでもないですな。わしも、他所で仕事をしていた時期もあったから、ずっとここにいたわけじゃあないです。定年になって、故郷に戻ってきてからはずっとここにおりますがね。」
そう言われて、僕は改めて老人の顔をじっと見た。七十は過ぎている。三十年前は四十代だから、この地に住んでいたわけではないことになる。
であれば、三十年ぶりにあの海獣が見える人に出会ったというという言葉は何を意味しているのだろう。
「失礼ですが、おいくつになられましたか」
老人は笑って、「もう八十です。」
「お若く見えますね。」
「毎日暇ですから、歩き回ってばかりおります。そのせいでしょう。それに、今は一人身ですから何でもせにゃあなりません。」
あまりプライベートなことを尋ねるのも気が引けたので、三十年前のことを聞いてみた。
「さっき、三十年ぶりと言われてましたが、そのとき出会った人はどんな人だったのですか」
老人はちょっと驚いたような顔をした。そして、何か思い出すように遠くを見つめた。
「たまたま、里帰りしてきてここに散歩に来たときでした。あの林の向こうから、そう、ちょうどあなたが歩いてきたように一人で来られた。」
老人は、ひとつ一つ思い出すのに時間をかけていた。僕は、ただ黙って聞くことにした。
「その人は当時のわしから見て、かなり年を取っていたように思う。足元もおぼつかなかったのではなかったかな」
「僕のように、あの林から歩いてきたのですか」
老人は、ちょっと微笑んで、「いや、歩いてきたのは、わしの方だった。わしは、あの林の向こうで初めてあやつを見たとき」
といって、海を見た。
海獣はどこに行ったのか、海面は静かだった。