五、兇行の様相
明治三十九年八月十六日午前三時過ぎごろ、被疑者はまず自宅で就寝中の養父母を鉈を用い急襲。抵抗を恐れたためか、まずは男である源右衛門の右腕を切り落とし再起不能とする。すぐにトモにも同様の攻撃を加え、両者が瀕死状態となったところで、それぞれ左腕を切断する。まもなく二人は失血死。
十五分ほどのちに使用人部屋に移動し、就寝していた使用人の保坂ミネ(15)を同様の手段にて殺害。隣の部屋には使用人の佐々木キヌ(17)がいるも、被疑者はこれを黙殺。このように、被疑者の兇行には不可解な部分が多い。
次いで被疑者は、かねてより狙いを定めていたと思しき隣家の島木藤三郎(34)宅に侵入。物音に気づいて様子を見に来た藤三郎と数分間にわって格闘した末に、鉈で頭部を殴打して殺害。被害者の死亡後に両腕を切り落としている。なお、同居していた被害者の妻子は長持ちに隠れ、被疑者をやり過ごすことに成功している。

遺体発見現場と被疑者の足取り

養母・トモの殺害現場(遺体画像は墨塗りで処理)

六、被疑者死体発見場所・死体の模様
四ツ谷源右衛門宅より10間(180メートル)ほど先の海岸にて、被疑者は袴姿にゲートルを巻き、地下足袋を履いたまま左腕を切断し自殺を遂げたものを、同日午前八時頃に警察官一行に発見された。仰向けに倒れており、右脚を折った状態で天を仰ぐ。右腕には犯行に使用したと思われる鉈を握りしめており、ほかに刃渡り五寸(15センチ)ほどの短刀、同じく2尺3寸(80センチ)ほどの日本刀を遺存していた。ともに犯行に使用するつもりの凶器であったと推測される。
解剖の結果、胃の中から海毛虫なる3寸(9センチ)ほどの生物を発見。上記の宗教にまつわる儀式として、犯行前に被疑者自身が飲み込んだものと思われる。そのため、胃および食道に潰瘍が確認された。

被疑者が遺存したる短刀と日本刀

七、被疑者の従来の挙動
被疑者は四ツ谷源右衛門方座敷牢に軟禁されていたが、食事を運ぶ役割であった同家使用人の佐々木キヌを口説き落とし、これを開錠させるに至った(佐々木キヌが被害を受けなかったのはこのためか)。なお、被疑者と濃密に接触したためか、佐々木キヌからは生前の被疑者と同様の不可解な言動が確認されている。貴重な事件の証人であるが、尋問を続けることは難しいと判断。
座敷牢を出たあとの被疑者の足取りは掴めていないが、グエンのもとに身を寄せていたものと思われる。
兇行に及ぶ数日前、被害者たる島木藤三郎宅にて、直系2寸(6センチ)ほどののぞき穴を空けていたことが発覚。住人の行動を把握し、襲撃の計画を立てていたものと想像される。その他、遠峰村内の民家複数箇所にて、同様の穴が発見されている。被疑者は更なる犯行を考えていたものの、不可抗力により断念したものと推測される。

八、兇行の原因
K島には、船の漂着を願う因習があると聞く。生産力が低い島において、船の漂着は貴重な現金収入の機会であった。推測の域を出ないが、海難事故によって両親を失った被疑者が、島の因習を疎んじて兇行に及んだ可能性を指摘する意見もある。かかる経緯で芽生えた悪意に正体不明の宗教が結びつき、殺意が生じたるものか。言うまでもないが、K島の因習と海難事故との因果関係は認められるものではない。
唯一の四ツ谷家外の被害者である島木藤三郎は、村会議員を勤める名士であった。氏は早くよりグエンの布教活動を危険視しており、島外へ追放する運動の急先鋒を勤めていた。氏を「そうびえん信仰」に仇なす存在と捉えるのであれば、当該宗教に心酔する被疑者が害意を持つにいたっても不思議ではない。

繰り返すが、これは論理的に被疑者の動機を説明しようとした場合の仮説である。あくまで推測の域を出ない。引き続き、「呪詛の言葉」が存在する可能性を捨ててはならない。

九、参考資料 
遠峰尋常小学校に於て被疑者を担任した訓導の回答表
訓導名 関根かつ子 
同校在任期間 自明治十九年(1886) 至明治四十年(1907)
犯人を担任したる学年 尋常一年
同人ノ性格 従順にして教師の命をよく守り、沈着。模範的な生徒であった。学業に関しても上位に位置し、上級学校に進むことが期待されていた。

遠峰尋常中学校に於て被疑者を担任した訓導の回答表
訓導名 川田 貞二
同校在任期間 自明治二十九年(1896) 至明治四十五年(1912)
犯人を担任したる学年 尋常中学四年
同人ノ性格 尋常小学校訓導の関根氏より、当時の弾左衛門の様子を聞き驚愕せざるを得ない。被疑者は教室の大いなる問題児である。学友に暴力を振るう事は日常茶飯事にして、時折意味不明な言葉を突発的に繰り返すこともあり。不良であるわけではなく、無意識のうちに悪事に手を染めるため、訓戒することもできず、甚だ困り果てたり。

十、放棄書
・鉈 一本
・日本刀 一振
・短刀 一本
・ズック製鞄 一個
・皮帯 一本

上記物件は、被疑者の所有のものであるが、親族遺族に於て不必要に付き、相当の処分をされたし。

追記
被疑者の人格形成に多大なる影響を与えたと考えられるグエンに尋問することを決したが、事件以来廃寺から姿を消しており、消息は不明である。グエンが伝播せしめた「そうびえん」という言葉と犯行の因果関係は依然として不明であるが、これを否定しきれない以上は、その危険性を指摘せざるを得ない。日本全国、グエンによる布教活動に注意されたし。当該宗教は「そうびえん」という言葉を繰り返すことにより判別可能。信者曰く、他人の唱和を耳にすると、不思議と口にしたい欲求に駆られるという。この言葉を決して未来に伝えてはならない。島内において、この言葉が根絶されていることを切に願う。

参考のため、被疑者の生育および健康状態にまつわる資料を証拠として保管し置く。
以上

【四ツ谷弾左衛門不起訴処分記録】

記録号明治三十九年検第二十号 Y県地方裁判所M支部検事局
主任検事 都井 清三郎

件名 殺人
被疑者 四ツ谷 弾左衛門

裁定 被疑者死亡に付き、起訴せず ㊞