翌朝。
「おい、起きろ。朝だぞ」
規則正しく7時きっかりに碧大に起こされ、茜はウチガワでの初めての朝を迎えた。
「……ん。おはよ、アオ」
「おはよう。早く目を覚ませ」
碧大は無慈悲にも部屋のカーテンを全開にして、朝日で茜を覚醒させようとする。茜はそれに抵抗するようにブランケットの中に潜り込んだ。
「おい寝るな。起きろ」
「まだ7時じゃん……今日休みだろ……? もうちょっと寝ててもいーんじゃねーの……」
今日は確か、土曜日のはずだ。
学校がない日は10時ごろまで寝ている茜には、この時間の起床は地獄のように辛い。
「洗濯と掃除、それと朝のランニング。休みといえどやることは山ほどある。午後は予定通り魔法学校へ行くからな、寝ている場合じゃないぞ」
「マジかよ……やべーな、ストイックすぎだろ……」
とはいえ、茜は厚意で泊まらせてもらった身。家主の生活を邪魔するのは本意ではない。開け切らない目で、しぶしぶ起き上がった。
それからふたり並んで洗面所の前で歯磨きをして、碧大が用意してくれたトーストをご馳走になった。
朝日を浴びながら、誰かと向かい合って食事をするのは気持ちがいい。好きな相手なら尚更だ。
「なあ、アオっていくつなの?」
トーストを頬張りながら尋ねる。
「なんだ、いきなり」
「あたしは15。中三だよ。もうすぐ卒業するけど」
そう言うと、碧大は驚いた顔で茜を見た。
「……同い年だ」
「えっ、マジ?」
「驚きだな。絶対歳下だと思っていた」
「……あたしは絶対歳上だと思ってたけどな」
茜の身長は149センチ。自分でも小柄な自覚はあったから、実年齢より若く見られるのには慣れている。
それに対し、碧大はおそらく180センチくらいある。大人っぽいし、茜が知る同級生の男子とは落ち着き具合が雲泥の差なので、絶対高校二年生くらいだと思っていたのに。
「中三なら、もう少し落ち着いたらどうなんだ」
「お前は落ち着きすぎだろ……」
そんな他愛無い会話をしつつ、朝食を済ませた。
碧大が洗濯機のスイッチを入れ、朝のランニングに行っている間、茜は自ら買って出て部屋の掃除を行なった。
これまで5つもの家で厄介になってきた居候のプロである茜は、掃除のスキルだけは自信があった。
「……確かに、豪語していただけあって掃除は得意らしいな」
自宅に戻ってきた碧大は、ピカピカになった風呂場とリビングを見て心底意外そうにそう言った。
「なんだよ、疑ってたのかよ」
「素直に感心してるんだ。じゃあ、俺はシャワーを浴びてくるから、台所の掃除も頼んでいいか?」
「任せろ。ぴっかぴかにしてやるよ」
胸にどんと拳をあてて言う茜に、碧大は小さく笑って「期待してる」と言いながら、脱衣所へと消えていった。
茜はその場からしばらく動けなかった。すぐに見えなくなってしまった碧大の笑みを反芻し、心の中で悶える。
しかし、少しして「いつまでそこにいるつもりだ。まさか覗く気か?」という声が扉越しに投げつけられ、茜は赤い顔で「覗かねーよ!」と叫んだ。
「てか、なんであたしがまだここにいるってわかんだよ。こえーんだけど!」
「君が垂れ流している魔力で、だいたいの位置はわかるぞ」
「うっっそだろ! プライバシーの侵害じゃねーか。扉越しに勝手に魔力見んじゃねー!」
茜は憤慨しながら台所を掃除した。宣言通り曇りひとつないシンクにしたところで、学ラン姿の碧大が脱衣所から出てくる。
「ホラ見ろ。ピッカピカにしてやったぞ」
「ああ。ご苦労だったな」
「上司か!」
その後、茜も制服に着替えて外出の準備をする。習慣でせっせと頭にツインテールを作る茜に、碧大が「ひとつ相談があるんだが」と話しかけた。
「なんだよ、改まって」
「費用は出すから、髪の染め直しを検討しないか?」
「……はぁ?」
あまりに突拍子のない話題に、茜は口をあんぐり開けて眉を寄せた。
碧大はなぜか気まずそうな顔をしている。
「その赤髪は……その、なんというか、君に似合っているとは思うが、少々派手じゃないか?」
「派手で何が悪いんだよ。あたしの勝手だろーが」
「だが、学生らしくないだろう」
茜はうんざりした顔で「センセーみてーなこと言うんじゃねーよ」と言った。茜の体感的には、これまで100万回くらい言われているセリフだ。
「わりーけど、そういう理由ならお断りだ。これは地毛だからな」
「地毛!?」
珍しく大きな声をあげた碧大に、今度は茜がびっくりする。
「そ、そーだよ。地毛で文句あるかよ」
「ほ……本当なのか? 海外の血でも入ってるのか? それにしたって、色があまりにも……」
「うるせーな、珍しいのは知ってるよ。父さんは知らねーけど、母さんは黒髪だったし、親戚にも外国人はいねー。なんであたしだけこうなのか、あたしが知りてーくらいだ」
「そう、なのか……」
碧大は困惑した顔で茜を見ている。彼がそんな顔をする理由がわからないが、茜としてもあまりいい気分ではない。
なぜなら、きっと茜の母親はこの髪色を見て『茜』と名付けてくれたのだろうから。
「なんだよ。なにがそんなに気に入らねーんだ。言ってみろよ」
「…………」
碧大は険しい顔で言い淀む。しかし茜の強い視線に耐えかね、やがて重い口を開いた。
「……すまない。派手だなんだと言ったのは謝る。さっきも言ったが、その髪は君にとても似合っている。他人に変えろと言われて変えるべきものではない」
「……おー。ありがとな」
「だが、ことウチガワにおいては、その髪色は非常に厄介なんだ」
「厄介?」
碧大は悩ましい顔で頭を抱えつつ、「また今度詳しく説明するが」と前置いた。
「赤髪は、魔人の特徴なんだ」
「……マジン?」
また知らない単語が出てきた、という顔をする茜に、碧大は押し入れのタンスから出した厚手のパーカーを手渡した。
「ウチガワの人間にとって、魔人は敵だ。君の髪を見て誤解される可能性がある。なるべく隠しておいた方がいい」
「……そーいうことかよ」
染め直しだのなんだの回りくどいことを言っていたのは、茜を守るためだったのだと理解する。
その気持ちまで汲み取れないほど、茜も子供ではないつもりだ。
素直にパーカーを制服の上に着て、フードを被った。
「これでいーか?」
「ああ。だが、くれぐれも目立つ行動は避けるようにな」
「わーってるよ。魔人とやらはよくわかんねーけど、あたしを連れて歩くアオに迷惑かかんのはヤダしな」
身支度を整え、二人は部屋を出ようとした。と、そこで茜の腹が盛大に空腹を訴えたため、少し早めの昼食をとってから外出することとなった。
「君の腹の虫は、君に似て主張が強いな」
「し、しかたねーだろ! なんか昔から腹が空きやすいんだよ。母さんが生きてた頃は、1日5食食ってたし……」
「俺は5食も作らないぞ」
「だから我慢してるっつってんだろ!」
急ごしらえのため、昼食はシンプルに卵かけご飯をいただいた。本音を言えばおかわりしたかったが、さすがの茜も一文無しの身でそこまで図々しくはなれなかった。
茜の腹が五分目くらい満たされて、二人は今度こそ家を出た。
ドアを開けて見えた光景に、茜は目を見開いた。
「飛んでる……」
人が、空を飛んでいる。
昨日の夜は全くと言っていいほど人が出歩いていなかったが、昼間はソトガワと同じくらい人が行き交っていた。
ソトガワと違うのは、車がほとんど通っておらず、人々は飛ぶか歩くかで移動していることだ。
「すっげー……人が飛んでる! なあアオ、あれも魔法? 魔法だよな!?」
瞳を輝かせた茜はアパートの階段を降りながら、前を歩く碧大の肩をバシバシと叩いて尋ねた。
碧大は「叩くな」と言って茜の手を払いのけてから答える。
「あれは風魔法の一種だ。ソトガワで魔法を使うのは禁じられているが、ウチガワでの使用は自由だからな。もちろん、常識の範囲内で、だが」
「じゃあ、みんな普通に魔法使って生活してんだ? すげー、すげーよ!」
アパートの階段の下では、子供たちが魔法で動かした人形でごっこ遊びをしていた。
隣の一軒家では老婦人が自らの手の中で水を生み出し、庭の植物に一斉に水遣りをしている。
ウチガワの人々は、その日常に小さな魔法を取り入れて生活しているのだ。
茜は周囲をキョロキョロと見回しながら、碧大のうしろをついて歩いた。
「みんなすげー、けど……」
「けど?」
「なんか、言っちゃわりーけど、飛ぶ以外は使いどころが地味だな。魔法といえばもっとこう、魔女とか怪しげな道具とか、いっぱい出てくるモンじゃねーの?」
人が飛んでいる時点で十分非日常ではあるのだが、一見するとそれだけだ。一般的に想像するようなフィクションの魔法世界と比べると、いささか地味であると言わざるを得ない。
少女漫画はもちろん、少年漫画もファンタジーも、ワクワクする漫画はなんでも大好きな茜には、少しばかり物足りないというのが本音だった。
「ウチガワは、基本的にソトガワでの生活に倣うことが推奨されているからな。電気も水道も通っているし、魔法がなくとも生きていけるようになっている」
「せっかく魔法があんのに? なんで?」
「ウチガワは閉じられた狭い世界だからだ。魔法に依存すれば鎖国状態になる。そうならないよう、外の世界の文化と科学を積極的に取り入れ、より豊かに暮らそうというのが基本方針なんだ」
「フーン……。ずいぶん寛容なんだな。ソトの奴らは、こっちの人間を受け入れてくれねーのに」
「…………」
茜がこぼした皮肉に、碧大は何も言わなかった。
それから二人は20分ほど歩き続け、目的の魔法学校へたどり着いた。
昨晩、遠くから見ても異彩を放っていた建物だが、近くで見るとよりその異質さが際立っていた。
白を基調としたレンガ造りで、尖塔がそびえたつその面構えは西洋の古い城のようだ。校門をくぐった先にある巨大な時計台は、見上げる首が痛くなるほど高い。
校舎の中がどれほど広いのかわからないが、敷地も普通の中学校の数倍はありそうだ。
呆気に取られ、口を開けたまま校門のそばで立ち尽くす茜に碧大が声をかける。
「いつまでもアホ面してないで行くぞ」
「こんなんアホ面にならねーほうが無理だろ……」
そう文句を垂れつつ、茜は第六魔法学校へ足を踏み入れた。