その場所に踏み込めば、ルールに囚われる可能性がある。
Sさんは空を見上げてながら歩くことを日課としていた。
最初は視力悪化を防ぐための対策だったが、もう習慣だった。
「空の色って、けっこう毎日違うんですよ」
だが、今はもう前だけを見て歩くようにしている。
「きっかけは、屋上でした」
空を見上げると、ビルの先端も見える。
「誰かが、屋上にいたんです」
ほんの一瞬、人影が見えた。
Sさんが知っている人物だった。
「友達でもないんですけどね、顔を合わせたら挨拶するくらいの人でした」
立ち止まりしばらく見たが、ふたたび現れることはなかった。
「普段だったら、無視するんでしょうけど」
どうしても気になったのだという。
佐比(さひ)ビルと書かれた文字を横目にエレベーターを使い、階段を昇り、屋上についた。
誰の姿もなく、梯子のついた給水塔や、鉄柵があるばかりだった。
「でも、その……」
屋上中央に、石が並べられていた。
見えるだけで十個以上、後に数えたところ三十四個の小石が整然と置かれていた。
小石は形や大きさも様々だったが、三十四個の下と、その隣にはくぼみがあった。
「小石が入れられる大きさでした」
近くにあった小石を、Sさんは入れた。
意図のない、自然な行動だった。
「その瞬間……ゲームで余計なのを全消ししたような、こう、変な感覚があったんです」
正しい位置に正しいものが入った爽快感、そうSさんは表現した。
「かといって、それで何か起きたわけじゃありません」
帰宅し、翌日、学校へ向かった。
ポケットには園芸用の小石をひとつ入れた。
見かけたクラスメイトに問いただしたが、そんなビルには行っていないの一点張りだった。
再び佐比ビル屋上に赴いたSさんは、三十五個の小石の隣に、三十六個目を待ち受ける穴を発見した。
「誰かに命令されたわけでも、呪いでもなかったと思います」
自ら望んで、持っていた小石をはめ込んだ。
変わらぬ爽快を感じた。
慌てて周囲を見渡したのは、自身の表情を自覚したからだ。
「笑っていたと、思います。あんまり、いい感じの笑顔じゃなかった」
何度目かに撮ったという自撮りには、Sさんの歪んだ笑みが映っていた。目の焦点は合っておらず、口は半ば開いていた。
どこか許しを乞うもののようにも見えた。
「このまんまじゃ駄目だ、って思ったんです」
Sさん自身の意思では、無理だった。
小石を入れることを止められなかった。
我慢に我慢を重ね、成功したと思えたときですら、気づけばパジャマ姿で佐比ビルの屋上にいた。
「だから、見つけてもらうことにしたんです」
並ぶ小石の数はすでに八十を越えていた。
それから、日が落ちるまで屋上から見下ろし続けた。発見してもらうために。
誰も彼も上を見上げない人たちばかりだったが、八十七個目のとき目があった。
帰宅途中の、道を歩いていた子供が見上げていた。
「……たしかに視線が合いました。小石を入れたときのように、あの子に「それ」が入った、と思いました」
「それ」が何かはSさんにも言葉にできない。
だが、子供が佐比ビルに入ったのを確認後、急いで給水塔のはしごをよじ登り、身を潜めた。
階段やエレベーターを使えば鉢合わせになる、そんな確信があった。
「扉を開けたその子は、周囲を見渡し、なんだよ飛び降りじゃないのかよ、みたいな文句を口にして、並んだ石を蹴飛ばしました」
Sさんは叫び声をこらえた。
子供はすぐに出ていったが、日が完全に落ちるまで身を潜めた。
「絶対に、日が出ている内は降りられませんでした」
もし、散らばった小石を一目見れば、全部を戻してしまいたくなる。それに抗うことはできないと確信した。
目を閉じたまま、手探りで移動し、佐比ビルから出た。足に小石が当たらないことを祈りながら。
帰宅途中、誰とも出会うことはなかった。
その後、Sさんは佐比ビルを通らない通学ルートを選び、空を見上げることも止めた。
子供の顔も名前もわからないため、探すことはできなかった。
「抜け出せたのは、ただ運が良かったからだと思います」
現在、佐比ビルは厳重に封鎖されている。
Sさんは空を見上げてながら歩くことを日課としていた。
最初は視力悪化を防ぐための対策だったが、もう習慣だった。
「空の色って、けっこう毎日違うんですよ」
だが、今はもう前だけを見て歩くようにしている。
「きっかけは、屋上でした」
空を見上げると、ビルの先端も見える。
「誰かが、屋上にいたんです」
ほんの一瞬、人影が見えた。
Sさんが知っている人物だった。
「友達でもないんですけどね、顔を合わせたら挨拶するくらいの人でした」
立ち止まりしばらく見たが、ふたたび現れることはなかった。
「普段だったら、無視するんでしょうけど」
どうしても気になったのだという。
佐比(さひ)ビルと書かれた文字を横目にエレベーターを使い、階段を昇り、屋上についた。
誰の姿もなく、梯子のついた給水塔や、鉄柵があるばかりだった。
「でも、その……」
屋上中央に、石が並べられていた。
見えるだけで十個以上、後に数えたところ三十四個の小石が整然と置かれていた。
小石は形や大きさも様々だったが、三十四個の下と、その隣にはくぼみがあった。
「小石が入れられる大きさでした」
近くにあった小石を、Sさんは入れた。
意図のない、自然な行動だった。
「その瞬間……ゲームで余計なのを全消ししたような、こう、変な感覚があったんです」
正しい位置に正しいものが入った爽快感、そうSさんは表現した。
「かといって、それで何か起きたわけじゃありません」
帰宅し、翌日、学校へ向かった。
ポケットには園芸用の小石をひとつ入れた。
見かけたクラスメイトに問いただしたが、そんなビルには行っていないの一点張りだった。
再び佐比ビル屋上に赴いたSさんは、三十五個の小石の隣に、三十六個目を待ち受ける穴を発見した。
「誰かに命令されたわけでも、呪いでもなかったと思います」
自ら望んで、持っていた小石をはめ込んだ。
変わらぬ爽快を感じた。
慌てて周囲を見渡したのは、自身の表情を自覚したからだ。
「笑っていたと、思います。あんまり、いい感じの笑顔じゃなかった」
何度目かに撮ったという自撮りには、Sさんの歪んだ笑みが映っていた。目の焦点は合っておらず、口は半ば開いていた。
どこか許しを乞うもののようにも見えた。
「このまんまじゃ駄目だ、って思ったんです」
Sさん自身の意思では、無理だった。
小石を入れることを止められなかった。
我慢に我慢を重ね、成功したと思えたときですら、気づけばパジャマ姿で佐比ビルの屋上にいた。
「だから、見つけてもらうことにしたんです」
並ぶ小石の数はすでに八十を越えていた。
それから、日が落ちるまで屋上から見下ろし続けた。発見してもらうために。
誰も彼も上を見上げない人たちばかりだったが、八十七個目のとき目があった。
帰宅途中の、道を歩いていた子供が見上げていた。
「……たしかに視線が合いました。小石を入れたときのように、あの子に「それ」が入った、と思いました」
「それ」が何かはSさんにも言葉にできない。
だが、子供が佐比ビルに入ったのを確認後、急いで給水塔のはしごをよじ登り、身を潜めた。
階段やエレベーターを使えば鉢合わせになる、そんな確信があった。
「扉を開けたその子は、周囲を見渡し、なんだよ飛び降りじゃないのかよ、みたいな文句を口にして、並んだ石を蹴飛ばしました」
Sさんは叫び声をこらえた。
子供はすぐに出ていったが、日が完全に落ちるまで身を潜めた。
「絶対に、日が出ている内は降りられませんでした」
もし、散らばった小石を一目見れば、全部を戻してしまいたくなる。それに抗うことはできないと確信した。
目を閉じたまま、手探りで移動し、佐比ビルから出た。足に小石が当たらないことを祈りながら。
帰宅途中、誰とも出会うことはなかった。
その後、Sさんは佐比ビルを通らない通学ルートを選び、空を見上げることも止めた。
子供の顔も名前もわからないため、探すことはできなかった。
「抜け出せたのは、ただ運が良かったからだと思います」
現在、佐比ビルは厳重に封鎖されている。