その応援は、あなたが呪っている可能性がある。

Mさんは人を励ますことを得意としていた。
落ち込んでいる人の傍に寄り添い、苦しみに共感し、時に叱咤した。

「昔からの癖みたいなものだ。褒められるようなことじゃない」

きっかけは、中学生時代にまで遡る。

「運動が苦手なやつっているよな、それでも、ガッツのあるやつ」

長距離マラソンのとき、最後尾を走るクラスメイトを見て、思わず叫んだそうだ。

「負けるな、最後まで諦めるな、足を止めるな、気づけばそう応援していた」

Mさんの声援の中、クラスメイトは最後まで走りきった。

「これだ、と思ったんだ」

Mさん自身が1位を取った時よりも嬉しさを感じた。
己の声が影響を与えた喜びがあった。

「学生時代は、ずっと応援団をしていた」

それはやりがいのある活動だったが、どこか違うとも思った。

「言葉が届いた確信が、薄かったんだ」

だからMさんは、悩む人を探しては、その背中を押すことにした。
チームや選手ではなく、『人』を応援した。

「最初は、上手くいってたよ」

苦しみを吐き出し、Mさんに励まされ、誰もが前向きになった。

「だんだん上手く行かなくなった、応援した全員がだ」

途中からMさんの応援を断り、自らの力で努力をするものは違った。だが、最後まで応援を続けた相手は、かならず失敗した。

「こっちの応援は届いたはずなのに、誰も彼もあと一歩で失敗するんだ、わけがわからない」

そのたびにMさんは励まし、応援したが、よりひどくなるばかりだった。

「原因は、応援だった。こっち応援のやり方だ」

人間の脳は否定形を認識できない、そんな話を聞いた。
止まるな、と警告しても人は瞬時には判断できず、むしろ立ち止まってしまうことがある。

「そんな馬鹿な、と思ったよ」

だが、Mさんには心当たりがあった。

きっかけとなるクラスメイトへの応援の言葉は、負けるな、最後まで諦めるな、足を止めるな、だった。

「あれは、負けろ、諦めろ、足を止めろと、そう叫んでいたも同然だった」

中学のクラスメイトは、その罵声の中を走り続けた。
Mさんの応援の意味を理解し、闘争心に火をつけた。

「だから、逆をやることにした」

遠回しに届けたからこそ、間違った応援となった。
彼らに必要なのは、呪いのような応援ではなく、反発心を招く言葉だったのではないか、Mさんはそう考えた。

今まで応援を続けていた人々に向けて否定形ではなく、そのままの形で伝えた。

無理だ、諦めろ、お前にはできない、失敗を恐れろ、お前のせいだ。

「……誰も離れなかった。全員、それでも『応援』されることを望んだ」

Mさん以外の誰もが気づいていた、それが自覚のない罵倒であったことを。

「なあ、これで、いいのか? このまま本当に続けていいのか? 何かもっと別のやり方があるんじゃないか?」

いいえ、続けないでください、Mさんにはそう伝えた。