誰かをフる度に、あの時の彼の悲しく歪んだ表情が脳裏に浮かぶ。その度に陽翔(はると)の胸は酷く痛む。


 昨日までは日常的に交じり合っていた視線と、背後からするりと腕を絡め取られる他より多めのボディタッチが消えたことを小野陽翔(おのはると)は少し残念に思っていた。
 陽翔の姿がちらりとでも見えれば遠くから駆け付けてくる。そしてその柔らかい身体を必要以上に押し付けてきたり、目のやり場に困るほど制服の胸元を開けて見せたり、友人たちと話す時よりもワントーン高いキーで話しかけてきたりしていた彼女の姿はもうそこにはない。
 まるで陽翔のことなど最初から知らないとでもいうように、彼女は陽翔と視線を合わせることなく隣に並ぶ友人と楽しそうにおしゃべりにふけている。
 陽翔のことを気にしているのは彼女ではなく隣に並ぶ友人の方だ。彼女の友人は何も悪いことをしていないというのに、バツの悪そうな表情を浮かべて陽翔をちらりと見ると控えめに会釈して見せた。
 
 昨日の夕方、他に誰もいない夕日の差し込む教室で陽翔に告白してきた彼女はもう陽翔のことを覚えていない。



 陽翔は昨日、彼女のことをフったばかりだ。



 陽翔のことなどわき目も触れず隣を素通りしていった彼女を見て、陽翔の友人である山田と河野が意地悪な笑みを浮かべて見せる。そして少し雑に陽翔の肩に腕を回した。
「陽翔、お前もしかしてまた魔法科の女子に告られた?」
「それでフったんだ?」
 ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら尋ねて来る二人だが、彼らは陽翔が答えずとも疾うにその答えなど分かっているようだった。それなのにわざわざ尋ねてくるあたり非常に質が悪い。
 陽翔はそれに対抗するようにわざと大きなため息をついて見せると投げやりに答えてやった。
「告られたしフった」
 分かり切っていた答えに二人はまたわざとらしく演技めいた声色で「うわー」と大声を上げる。
「普通の女子には全然モテないのに、お前ほんと魔女にはモテるよな」
 山田の言葉があまりにも的を得ていて陽翔はグッと息を詰める。
「このままだとウチの学校の魔法科の女子全員に告られるんじゃねえの?」
「そんなわけ……」
 ない、と言葉を続けられなかったのは、昨日までに告白してきた魔法科の女子生徒の人数を数えたからだった。


 陽翔の通う高校は一般人の通う普通科と魔法使いが通う魔法科の二つの科に分けられている。
 元々この世界の全人口に対して魔法使いの数はそう多くない。となると自然と魔法科の人数は普通科の十分の一以下、と随分と少なくなる。
 高校二年生にして陽翔はその少ない人数に既に告白され尽くされてしまった。


「……お前、マジで?」
 言葉を止めた陽翔の顔を覗き込んだ河野がその表情を見て状況を察する。さすがに手放しに笑える状況ではなく、河野は苦笑いを浮かべて見せた。
「魔法科女子全員に告白されて、全員フったってこと? あんなに魔法科女子全員にちやほやされてたのに、いつの間にか魔法科全員に存在さえ忘れられた奴になんの?」
 なにそれウケる、と両手を叩きながら盛大に声を上げて笑う山田を陽翔がジトっと睨みつけた。
「全然ウケねえよ」
 普通に友人として仲良くやっていただけだったのに、相手が自分に抱いていた感情は友情ではなく愛情で。
 告白の返事をした途端、彼女たちは陽翔のことをすっかり忘れて友人でもなんでもない赤の他人となってしまった。それは普通に寂しい。


 この世界の魔法使いは好きな人に告白してフラれるとその人に関する記憶を全てなくすようになっている。
 魔法を使うには多大な精神力を要する。精神に迷いや弱みがあると魔法の威力に大きな影響を及ぼす。
 その危険性をなくすために魔法使いは告白してフラれると失恋相手のこと全てを忘れるようになっている――というのはこの世界における周知の事実だ。


「あれ? そういえば」
 とその時、山田がふと思い出す。
「陽翔、お前小学生の時には男にもモテてたよな。男の魔法使い」
 小学生の頃。男の魔法使い。その単語に陽翔の眉がピクッと反応を示す。
 山田の言葉に陽翔も彼を思い出してしまった。
 話が嫌な流れになってきたことに陽翔は不機嫌を隠すことなく露わにして見せる。チッと舌打ちをつき、山田を鋭く睨みつけると山田は一瞬にして口を閉ざした。
 陽翔はとにかく早く話題を変えたい。
「……忘れた」
 そう一言言い放つと陽翔は口を真一文字にして閉ざす。
「あー、そういえばいたな。小野に告白してすぐ引っ越しちゃったんだっけ」
 名前なんだっけ、と話を続ける河野を無視して陽翔は歩き出す。
 いずれにしろもう今日は帰るだけだ。他に何か話題になるようなものが目に入れば、流行に弱い二人の意識は逸れてこの話題も終わるだろうと陽翔は思った。

 その時、廊下の向こう側から大きな段ボールが歩いてくるのが見えた。
 二段に重ねた大きなダンボールの下から二本の細い足が伸びている。
 ダンボールの足が履いているボトムスは学校指定の制服ズボンではない。それは細身の黒のデニムジーンズで、足は来客用の学校名が入った赤いスリッパを履いていた。
 段ボールの上の部分からは染色ではない、アッシュピンクの髪の毛の先がぴょこんと跳ねて見えている。
 染色ではない、生まれもっての派手髪は魔法使いの証だ。
 一目でそれは、在校生ではなく来客の魔法使いだ、と陽翔は分かった。
 目の前に現れた魔法使いは山田と河野の話を逸らすにはもってこいの逸材だ。
 陽翔はこちらに近づいてくる段ボールを待たず、足早に自ら近づくと重ねられた上の段ボールを軽々と持ち上げた。
「これ持ちま……」
 視界を遮っていた段ボールが外れ、その来客の顔を見た陽翔は一瞬にして言葉を失った。
 アッシュピンクの髪色は魔法使いの中でそう珍しくない色だから全く予想だにしていなかった。
 癖毛で跳ねる髪。髪よりも濃い、ルビー色の真ん丸な瞳。左目の目尻に並ぶ二つのほくろ。
 そんな彼の宝石ルビーのようにキラキラと光る瞳と陽翔のチャコールグレーの瞳が交わる。
 彼の顔が見えた直後、陽翔のすぐ後ろで山田と河野が大声を上げた。
「え!? チノじゃん!?」
「チノ! 久しぶりだな!」
 たった今話題に上げていた人物が目の前に現れたことに二人は興奮していた。
 話題をすり替えるために話しかけたつもりが、火に油を注いでしまっていた。そのことに陽翔は顔顰め、誰にも聞こえないようにこっそりため息をついた。
「えっ? えっ?」
 突然広がった視界に軽くなった荷物。声を掛けられたかと思えば大声を上げられ、目の前の少し小柄な魔法使いの彼――チノは酷く驚いているように見えた。
 そして、オレオレ、とまるで詐欺の常套文句のような言葉を繰り返し、自身を指差してアピールを続ける二人をじいっと見つめると、「あっ」と声を上げた。
「山田くんと、河野くん! 久しぶりだね」
 記憶を手繰り寄せ、山田と河野のことを思い出したらしいチノはニコニコと満面の笑みを浮かべた。
 一文字も間違えることなく正確に名前を呼ばれた二人はコクコクと何度も首を縦に振って頷く。
「小五以来だから七年ぶり? 魔法の修行に行ってたんだっけ? いつこっちに帰ってきたんだ?」
「ちょうど昨日帰ってきたんだよ。今日はチヒ……母の手伝いで荷物を届けに来たんだけど……」
 そう言ってチノは両手で持つ段ボールを軽く上げて見せる。
 段ボールの上面に貼られた宛先には“魔法準備室”と書かれていた。それは普通科の校舎を通り抜けた先にある魔法科校舎二階奥にある教室だ。
 普通であれば一般生徒は魔法科の教室の場所など詳しくないが、陽翔はつい昨日まで仲の良かった魔法科の友人がいたお陰でその教室を良く知っていた。
 陽翔はその場に立ち止まっている三人を置いて先に廊下を歩き出す。
「山田、河野、先に帰ってて」
 陽翔のその言葉に山田が唇を尖らせて「カラオケは!?」と叫ぶ。
 不貞腐れる山田の肩に河野がやれやれと腕を回した。
 段ボールを一箱抱えて先に歩いて行ってしまった陽翔と残された山田と河野をチノは困ったように交互に見る。そして二人にぺこりと控えめに頭を下げた。
「山田くん、河野くん、またね」
 二人にそう挨拶をするとチノはぱたぱたとスリッパを鳴らして陽翔を追いかけていった。
「あ、あの」
 魔法器具の詰まったそれなりに重さのある段ボールを持ちながらも陽翔の歩みは軽い。チノは必死になって足を動かして陽翔を追う。
 ふと、階段に差し掛かったところで陽翔がぴたりと足を止めた。そこでようやくチノは陽翔に追いつくことができた。
 そして陽翔はチノに先に階段を上るように促す。そのことを少し不思議に思いながらもチノは先に階段を上り始める。
 重い段ボールを抱えての階段は思った以上に厳しい。両手で荷物を抱えているので手すりを掴むこともできず、踊り場までは段ボールを下ろすこともできない。
 疲れた両腕を叱咤しながら震える足に力を込めてチノは一段一段慎重に上っていく。
 そしてあと一段で踊り場に着き一息つける、というところでチノの身体が後ろに傾いた。
「あっ……!」
「……っやっぱり転ぶと思ってた」
 このまま背中から落ちる、と思った瞬間、チノの背中は陽翔の抱える段ボールの面に支えられていた。
「先に行かせててよかった」
 陽翔はそう言うと段ボールでチノの背を押して踊り場へと上らせた。
 チノは安堵のため息をつくと一度段ボールを床に下ろす。
 陽翔の言葉に、万が一チノが階段を落ちそうになった時のために彼は自分を先に行かせていたのだとチノはようやく気が付いた。
「あの、ありがとうございます! 初めまして。僕、チノっていいます。山田くんと河野くんのお友達さん、ですよね」
 初めまして、の言葉に陽翔の眉がぴくりと震えた。
 そして、お友達さん、というどこか幼稚めいた可愛らしい言い方に陽翔は思わず小さく噴き出して笑う。
「俺、[[rb:小野陽翔 > おのはると]]。山田と河野とは小学校からの友達」
 小野、と言葉を繰り返したチノは陽翔と距離を詰めると鼻をくんくんと鳴らして見せた。突然のことに陽翔は慌てて後ずさる。
「なっ!?」
「小野……ってもしかしてパティスリーオノの息子さん?」
 パティスリーオノ、に陽翔は頷く。
「ああ、それうちの親がやってる店」
「そうなんだ! さっき小野くんから僕の大好きな甘いクッキーの匂いがした気がしたんだ。それにここに来る前に会った店長さんに顔が似てたからもしかしてと思って」
 店長――父親に顔が似ていると言われて陽翔は不満げに眉を顰めて見せた。確かに最近父親に顔が似てきたと母親に言われたばかりだ。
「僕と同い年の息子さんがいるって聞いてたから会えて凄く嬉しいです」
 そう言うとチノは本当に嬉しそうににっこりと笑った。
「パティスリーオノってここから近いよね。ってことは、もしかして小野くんも小学校同じだったのかな? 僕、五年生の時に引っ越しちゃったんだけど」
「知ってる。小学校おんなじ」
「そうなんだ!? 覚えてなくてごめんね」
「……違うクラスだったし」
 覚えてなくても仕方がない、と言うと陽翔は段ボールを抱えなおしてまた歩き出す。それを見てチノも慌てて段ボールを持ち上げると、陽翔に続く。

 一応入室前にドアをノックしてみたが、放課後の魔法準備室には誰もいないようだった。
 二人は部屋の中に段ボールを運び入れる。
 チノは早速段ボールの封を開け、中身に損傷がないか確認する。
 中身を確認しているチノが何も言わないということはどうやら箱の中身に特に問題はなかったらしい。
「これで仕事は終わりだろ。俺、帰るな」
 チノは手に持っていた魔法具を一度段ボールの中に戻すと陽翔の方に身体を向けて律義に頭を下げた。
「小野くん、ありがとう。本当に助かった! 僕の家、ここから十五分ぐらいのところで魔法商店をやってるからもしよかったら遊びに来てね」
 そう言うとチノはズボンのポケットから無造作に一枚の名刺を取り出して陽翔に手渡した。
 それは店の地図と電話番号だけが書かれている非常に簡素なものだった。
「……ありがと」
 陽翔は名刺を制服のジャケットのポケットに突っ込むとひらひらと手を振って魔法準備室を後にした。


 陽翔はその店のことをよく知っている。
 地図など見なくとも迷うことなくたどり着くことが出来るし、電話番号も見ずとも空で掛けることができる。

 それでも陽翔はもう一度ポケットから名刺を取り出すと地図と電話番号を目で追った。

 思わずスキップしたくなる足を押さえたが少しの鼻歌は良しとしよう。



 チノが帰ってきた。







 陽翔は店の外からガラス張りの店内を覗き込む。
 綺麗に並べられた焼き菓子の数々。ガラスケースの中に並んでいる色とりどりの凝ったケーキの数は残り少ない。
 店内に客がいないことを確認してから陽翔は店のドアを開けた。
「ただいま」
 来客を知らせるカランカランと鳴るベルの音に続いて聞こえてきた息子の声に、店の奥にいた陽翔の母親が顔を出す。
「おかえり。チノくんに会った?」
「会った。父さんにも会った、って言ってた」
 父親に似ていると言われたことを陽翔が零すと母は、あはは、と声を上げて笑った。そしてすぐに笑い声をぴたりと止めると少し言いづらそうに尋ねる。
「……もしかしてなんだけど……チノくん、陽翔のこと忘れてる?」
 その問いかけに陽翔は言葉を詰まらせる。そして自身も言葉を澱ませて答えた。
「……忘れてる」
「そっか……」
 そっか、と母は言葉を繰り返す。彼女はどうやら次に言う言葉を悩んでいるようだった。
「チノくんのお宅も大変だね。チノくんのお母さんもご主人のことを忘れてるみたいだし」
「それで昔思いっきり地雷踏んだ」
 陽翔はまだ中学生だった頃のことを思い出して顔を顰める。あの頃は本当に何も知らなかったのだ。
「あの時の陽翔はまだ魔法使いのことを何も知らなかったから仕方ないけど、魔法使いに忘れた人のことを思い出させるようなことは言っちゃだめだからね」
 その言葉に陽翔は昔、何も知らずにチノの母親にチノの父親のことを尋ねてしまったことを思い出して改めて後悔した。
 幼い頃からチノの母親とはよく交流していたが、いつもは温厚な彼女があそこまで酷く取り乱す様を見たのはあれが最初で最後のことだ。
 酷く暴れ回り、部屋中が魔法でめちゃくちゃになっていくのを陽翔は部屋の隅に縮こまって見ていた。異変に気付いた陽翔の母が慌てて室内に入り、身を挺して陽翔を守ってくれたのだ。
 忘れていた人を思い出しかけてしまった彼女の心が落ち着くまで随分と時間を要したことを陽翔はしっかり覚えている。
 あの時のことを思い出して黙り込む陽翔に母が話を続ける。
「陽翔、もうチノくんにはあまり関わらないほうがいいんじゃない?」
 その言葉を聞いた瞬間、陽翔は無意識のうちに母を睨みつけていた。それでも母は陽翔から目を離すことなく、真剣な表情で陽翔を見つめ返す。
「陽翔もチノくんに知らない人扱いをされて嫌だったでしょう? チノくんとまた仲良くなって、何かのはずみにチノくんが昔のことを思い出しそうになったりしたら? 陽翔もまたチノくんに好きになられても困るでしょう?」

”困る“

 母の言ったその言葉に陽翔は口から出かけた言葉をグッと飲み込んだ。
「……別に」
 陽翔はたった一言、それだけを言うと母に背を向けた。
 するとレジ前に置かれている焼き菓子やキャンディー細工が目に入った。
 チノが言っていた好きなクッキーとはプレーンとチョコのボックスクッキーのことだろう。その隣に並んでいる色鮮やかでまるでガラス玉のようなキャンディーの詰め合わせもチノは大好きだったはずだ。
「……これ、貰ってく」
 陽翔はボックスクッキーとキャンディーを手に取ると代金分の小銭をトレーに置いた。
 そして階段を上って自室へと向かっていった。







「ただいま」
 学校での用事を済ませたチノが自宅に帰宅すると母が持つ魔法薬の入った試験管が煙を上げている所だった。
チノとお揃いのピンクアッシュの前髪が少し焼け焦げているように見えてチノは小さく微笑む。
「チノ、おかえり。大丈夫だった?」
「うん。パティスリーオノの息子さんにちょうど会って手伝ってもらった」
「そう」
 彼女は一言そう返事をすると試験管の中身をフラスコに移していく。試験管の青とフラスコの赤が混ざり、液体は綺麗な紫色に色を変えていった。
「やっぱり学校に通いたくなった?」
「うーん、どうかな」
 今日初めて入った校舎の風景と制服姿の学生たちの様子をチノは思い出す。
 両親ともに魔法使いの子どもである自分は学校というものに通っていたのは小学五年生までだった。記憶の中にある小学校と今日行った高校は建物の構造も随分と異なっていた。
 校庭で部活動に勤しむ学生たちは眩しく、皆が揃って身に纏う制服というものもチノにとっては新鮮に見えた。
 でもそこに自分が通っている姿はどうにも想像がつかない。
 白いシャツにグレーチェックのネクタイを締め、ネイビーのジャケットとネクタイと揃いのチェックのズボン。
 制服というものに身を包んだ自分の姿を想像してみるがそれはあまりにも滑稽でチノはプッと噴き出して笑った。
「あんまりピンとこないかも」
 チノは正直に答えると引き出しから薬草の入った小瓶を取り出すとそれを彼女に手渡した。
 瑞々しく青々とした薬草をフラスコの中に浸せばその魔法薬は完成だ。
「でも小野くんにはまた会いたいと思う」
 チノの手から軽々と荷物を奪い取り、校内の道案内をしてくれた彼の姿をチノは思い出す。
 どこか嬉しそうに見えるチノの表情を見て母も小さく微笑む。そして、
「そう」
 と先ほどよりも優しい響きで言った。










 今から七年前――小学五年生のある日。
 その日は一日、陽翔とチノはぎくしゃくしていた。理由は朝、陽翔が下駄箱で見つけた一通の手紙だ。
 いつもならば毎朝一緒に登校しているのに、今日のチノは陽翔に黙って先に小学校に行ってしまった。
 いくら待ってもいつもの待ち合わせ場所に現れないチノを心配して陽翔はチノの家へと向かう。するとチノの母親からチノはむしろいつもよりも早く家を出て行ったと聞かされたのだ。
「陽翔くん、時間大丈夫?」
 そう尋ねられ時計を見た陽翔は慌ててチノの家を飛び出した。
 既に時間は遅刻ギリギリだ。
 自分を置いて黙って先に学校へと行ってしまったチノに少し腹を立てながら陽翔は遅れて登校する。そして下駄箱に入っている上履きの上に一通の手紙が置かれているのを見つけた。
 下駄箱に置かれた一通の手紙。その光景で陽翔が知っている手紙の意味は二つ、果たし状か告白しかない。
 瞬時にそれを回収し、周りに誰もいないことを確認してから陽翔はその手紙を性急に開いた。
 小野陽翔さま、から始まった手紙は文字の尻尾が右肩上がりになる癖を持った見慣れた文字で書かれていた。
 差出人の名前が書かれてあるだろう手紙の最後まで読まなくても陽翔は疾うに手紙の差出人が分かっていた。
 それなのに、結局最後まで読んでも差出人の名前はどこにも書かれていなかった。
 手紙には、今日の放課後校舎裏に来てください、と書かれていた。
 登下校の約束も、放課後の遊びの約束もいつも口でしているのだから校舎裏に呼び出すのも口ですればいいのに、と陽翔は思った。
 思いつつ、その手紙がただの世間話をするための呼び出しではないと陽翔もさすがに気付いていた。
 手紙をポケットに捻じ込むと駆け足で教室へと向かう。教室に入ると騒がしい教室の真ん中の席に座ってチノは静かに本をしていた。その本は古くて分厚くて陽翔は読むことができない文字で書かれた本だった。
 大きな足音を立てて教室に入ってきた陽翔にチノがちらりと視線を送る。そしていつもと違ってぎこちなく小さな声で、おはよう、と言った。
「……はよ」
 チノの後ろの席に陽翔が着いたところでちょうど教師が教室へと入ってきた。どうやら陽翔はなんとか遅刻を免れたらしい。
 小野。出欠確認のあいうえお順で一番に名前を呼ばれ、返事をしながら陽翔はチノの後頭部を見つめる。くるんと跳ねたピンク色の髪が今日はいつも以上に愛おしく見えた。
 にやける顔を隠すために机に顔を突っ伏した直後、教師に名前を呼ばれて注意を受ける。陽翔は渋々顔を上げるとまたチノの後頭部を見つめた。

 あの手紙を受け取って、いつも通りに過ごせるわけがない。







 結論から言うと陽翔はチノをフった。









「ムリ。魔法とか、気持ち悪いんだよ!」
 陽翔が強い口調で言い放つ。その言葉にチノは酷くショックを受けた。
 右往左往し、決して交わらない視線。眉間に寄せられた皺と困ったように下げられた眉。
 その表情も、その言葉も、チノは今までに何度も見たことがあるし、聞いたことがある。
 だって二人は幼馴染で、そして陽翔は昔からはっきりとノーが言える人間だった。
 陽翔のその表情と言葉は明確な否定と嫌悪を表していた。
 チノは目の前が真っ暗になった。たぶんどうにかその場を繕って陽翔から離れたのだろうと思う。その後どうやって学校から自宅まで帰ってきたのかチノは覚えていなかった。
 自宅に帰り、玄関のドアを閉めた瞬間涙が止まらなかった。
「チノ?」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにしたチノを見て母親は一瞬驚いた表情を見せ、そしてすぐに優しい笑みを浮かべていつものようにチノを迎え入れてくれた。
 いつもは丁寧に揃える靴をぐちゃぐちゃに脱ぎ捨て、玄関に鞄を乱暴に投げても彼女は怒らなかった。
 促されるままソファに腰掛けると母親の温かい手のひらがチノの背中を優しく撫でた。そして母親が淹れてくれた温かいミルクをチノは口に含む。
 陽翔に告白してフラれてしまったということ。魔法が本当は怖くて気持ち悪かったと言われたこと。
 陽翔が怪我をした時に魔法を使って怪我を治してあげたことも、喜ぶと思って魔法で火花を出してあげたことも陽翔は本当は怖くて、気持ち悪かったのかと思うとチノは悲しかった。
 ぽろぽろと涙を零しながら訴えるチノの背中を母は優しく撫で続けた。
「大丈夫よ、チノ。明日にはすっかり忘れているから」
 大丈夫よ、と母親はチノに繰り返し言い聞かせる。
「だって魔法使いはフラれたら相手のことをすっかり忘れてしまうでしょう?」
 つらいのは今だけ、と言われてチノはこくんと頷く。
 チノはミルクを全て飲み干すとふかふかのソファに身体を横たえた。そして幼い頃によくやってくれたように母が優しく胸元をポンポンとリズムよく叩いてくれた。
「おやすみなさい」
 目元を手のひらで優しく覆われて、そのままチノはすとんと眠りに落ちていった。
 静かに眠るチノの目元に残る涙を母親の指先が優しく拭う。

「おやすみなさい」



 母親の言う通り、朝起きるとチノは陽翔のことをすっかり忘れてしまっていた。
 陽翔にフラれた翌日――チノの十歳の誕生日の日。魔法使いは十歳の誕生日を迎えたら家を出るという習わしに従い、チノは旅立っていった。





 垣根に隠れて友人たちが校舎裏を覗いていたのは、うっかり陽翔のポケットから落ちた手紙が原因だ。
 好きです、とチノに言われた直後、彼らが自分たちを盗み見ていることに陽翔は気付いた。
 まだまだ幼稚なクラスメイト達――特に男子は恋愛に疎く、女子たちのように恋愛に憧れや祝福を持つというよりは揶揄いのネタになる。
 それは陽翔も例外ではなく、友人に告白現場を見られているということに嬉しさよりも羞恥心が勝ってしまったのだ。

「ムリ」

 それは思わず出てしまった、心にもない言葉だった。
 チノのことをそんな気持ちで見たことがないだとか、本当は魔法が怖かっただとか、魔法使いは気持ち悪いだとか。一度口を開くと思ってもいない言葉が言い訳のように次から次へと零れ出る。
 思いつく限りの暴言を吐き終わると、必死になって足元を見つめていた目線を上げてようやく目の前の彼を見た。
 その時に見えた彼の悲しく歪んだ表情を陽翔は一生忘れることができないだろう。
 逃げるように去って行ってしまったチノを陽翔は追いかけることができなかった。
 茶化してくる友人たちを適当に躱し、明日謝ろう、と陽翔はもやもやとした気持ちを抱いたまま眠りにつく。
 そして翌日、陽翔はいつもよりも三十分も早く家を出る。いつもの待ち合わせ場所を通り過ぎ、チノの家のチャイムを鳴らした。
「はーい。おはよう、陽翔くん」
「チヒさん、おはようございます」
 いつものように優しい笑みを浮かべるチノの母親――チヒに陽翔は少しどもりながらも、あの、と言葉を続けた。
「あの俺、昨日チノに好きだって言われて。嬉しかったのに、恥ずかしくて心にもないこと言ってチノのことをフっちゃって」
「……うん、全部チノから聞いてるわ」
 チヒの言葉に陽翔の心臓はバクバクと大きな音を立てる。
 チヒの瞳はルビー色のチノの瞳とはまた違い、濃くて深い青色をしていた。幼い頃から陽翔はその瞳に見つめられると全てを見透かされているような気持ちになる。
「俺、本当に酷い事言っちゃったんです。だから、俺、チノに謝りたくて……!」
 そう言うとチヒは困ったような表情を浮かべたことに陽翔は直ぐに気付いた。
 彼女の背後に見える玄関に、いつもはきちんと並んでいるチノの青色のスニーカーが見当たらない。
「……あの」
「陽翔くん、ごめんね」
 チノの靴を探していた目線をチヒに移すと彼女は一層寂しそうに見えた。
「我が家に伝わる習わしでね、チノは十歳になったから家を出ていったの」
「いつ」
 なんで、どうして。困惑からくるようなそんな曖昧な質問は出てこなかった。陽翔の口から出るのは明確な答えを求める質問だ。
「チノはいつ帰ってきますか」
「最低五年とは言われているけど……」
 五年、と繰り返しながら陽翔は現在の十歳に五を足して十五歳という答えを導き出す。
「五年、待てます」
 決意を固めた強い口調に彼女はやんわりと微笑んで見せる。しかしその笑みは決して優しいものではなかった。
「陽翔くんは魔法使いの決まりを知っているかしら?」
「決まり……?」
「チノからも聞いたことない?」
 生まれてからずっとチノと兄弟のように過ごしてきた陽翔だったが魔法使いの決まり事など聞いたこともなかった。
 陽翔は首を大きく横に振って答える。
「魔法使いはね、好きな人に告白してフラれると、その人のことを全て忘れてしまうようになっているの」
「え……?」
「だから、チノはもう陽翔くんのことをすっかり忘れてしまっているの」
「俺のことを忘れ……?」
「それでも陽翔くんはチノのことを待てる?」
 生まれた時からチノと陽翔はずっと一緒だった。
 母親が中学から続く親友同士で、近所で生まれ、誕生日も三日しか違わない。それこそ兄弟のように育ってきたのだ。
 アルバムを見返せばいつも二人は並んで写真に納まっているはずだ。そうだったはずなのに、今見るとチノのアルバムではチノの隣には人一人分がぽっかりと空いているという。
 小学一年生の頃、魔法の練習に付き合って火傷をした痕が陽翔の右腕に未だ残っているというのにチノはもう覚えていないそうだ。
 毎日一緒に通っていた陸橋を三つも通る通学路は寄り道の宝庫であまりにも登下校に時間がかかるので二人揃ってよく親に怒られたものだ。そんな小学校の登下校はずっと一人だったらしい。
 特別仲の良い友達は陽翔だけだったチノから陽翔が消えてしまえばチノは一人ぼっちだ。


 チノの記憶の中にはもう小野陽翔は残っていない。


 恥ずかしいだとか、揶揄われるだとか、たったそれだけの子供じみた陽翔の考えと行動のせいでチノは陽翔の全てを失ってしまった。
「チノ……チノ……ごめん…………」
 ごめん、と言葉を繰り返し大声を上げて泣き始めた陽翔の背中を、チヒは優しく撫でてくれた。


 それでも陽翔はチノのことが好きだ。
 だって陽翔は本当の気持ちをチノに伝えられないままでいる。







 チノは陽翔のことを全て忘れてしまっている。陽翔のことを他人行儀に「小野さん」と呼び、まるで初めて会ったかのようによそよそしいチノ。
 陽翔はあの頃からずっと忘れることなくチノに恋をしている。
 そして陽翔は再びチノに好きになってもらいたい。
 陽翔のことを全て忘れているチノに、陽翔のことを好きで告白してくれた昔のことを思い出させる気はない。
 チノには今の陽翔を見てまた好きになってもらいたい。
 魔法使いにモテる陽翔だが、チノをフってから陽翔は一度も彼女たちを好きになったことも好きになろうと思ったこともなかった。
 どうすれば好きな人に好きになってもらえるのか、恋愛初心者の陽翔には全くわからない。
 それでも陽翔は頑張りたい。
「よし!」
 両手で両頬を叩くと、ぱちん、と思ったよりも大きな音が部屋に響いた。
 そして陽翔は先ほど店で自ら購入したパティスリーオノのクッキーとキャンディーを鞄に詰め込んだ。















 翌日、山田と河野からの放課後の誘いを断ると陽翔は自宅ではなくチノの家へと向かっていた。
 チノから受け取った名刺は制服のポケットで静かに眠っている。
 七年前にチノが出て行ってしまった日から陽翔はいつ帰ってくるかわからないチノに会うためにチノの家に足繁く通っていた。だから名刺の地図など見る必要はない。

 カラン、と来客を知らせるベルが心地よく店内に響いた。
 店内の掃除をしていた手を止め、いらっしゃいませ、と言ってチノが顔を上げる。そして来訪者を見ると一瞬驚いた表情を見せ、すぐに笑みを浮かべた。
「小野くん、いらっしゃいませ」
 自宅兼魔法商店を商っている店内はチノが帰ってくる前とほとんど変わらない。
 色鮮やかな魔法道具が白色から順に並び段々と色濃くなっていくディスプレイは見ているだけで気持ちが良い。透明度の高い鉱石が窓際に置かれ、太陽の光を浴びてきらきらと光り壁にプリズムを描く。ふわりと香る魔法の匂いは陽翔には少し甘くすぎてクラクラする。天井近くにパチパチと散る火花は不思議と熱くないことを陽翔は知っている。
 チノがいない時とそう変わらない店内のはずなのに、そこにチノがいるというだけで陽翔の目には全く違う店に映って見えた。
「陽翔くん、いらっしゃい」
 ぼうっと店内を見つめていた陽翔はチヒに声を掛けられてようやく我に返ることができた。
 チヒは陽翔にひらひらと手を振るとスッと陽翔の耳元に唇を寄せた。
 よかったわね、と本当に小さな声で囁かれ、彼女が離れたと同時に陽翔は何度も首を縦に振って見せる。
 何度も上下に動く首の動きが余程面白かったのか彼女は、うふふ、と思わず声に出して笑った。
「え? チヒ、いつの間に小野くんとそんなに仲良く?」
 自分の母親と妙に仲の良さそうな陽翔の姿にチノは疑問を抱く。
 チヒは面白がって陽翔の腕に自分の腕を絡めるとにっこりと微笑んだ。
「ちょ、チヒさん……!」
「陽翔くんはこのお店の常連さんなの」
「そうだったんだ」
 チノもにっこりと微笑むと手に持っていた掃除用具を棚の奥へとしまう。そして陽翔の方へと向き直った。
「それで、小野くん。今日は何をお探しですか?」
「あ、えっと……」
 今日は特に魔法道具を探しに来たわけではない陽翔は言葉を詰まらせる。
 陽翔にとっては七年ぶりに好きな人に会いに来ただけなのだ。しかしチノにとっては昨日初めて会った人がお店に来てくれた、という認識だけなのだろう。
 悲しいような寂しいような気持ちを抱きながら陽翔は通学鞄のチャックを開けた。
「昨日、うちのクッキーが好きだって聞いたからもしよかったらと思って。……あとこれも」
 そう言って鞄の中から昨日買ったクッキーとキャンディーを取り出してチノの前に出す。すると彼の目がキラキラと輝いたのが分かった。
「これ、僕が大好きなやつ……! キャンディーも……!」
 チノはキャンディーの入った袋を上に掲げ、店の照明に当てた。それは店に置かれている鉱石に負けず劣らず美しい。
「あらあら、ありがとう。よかったらお茶していって? 今お茶を準備するからお庭にどうぞ。チノ、陽翔くんをお庭にご案内よろしくね」
 チヒはチノの背中と陽翔の背中をそれぞれ押して二人の距離を縮めると店の奥へと引っ込んでいってしまった。
 不自然なほどに近い二人の距離に陽翔は思わず顔を赤らめる。
「小野くん、お庭こっち」
 店の出入口とは逆側にあるドアをチノは指差す。そして陽翔の先を歩き出した。
 七年間店に通っていた陽翔も開けたことのない木製の古いドアが軋む音を立てて開く。
 ドアを開けた瞬間、店内の薄暗さから一変して眩しい太陽の光が差し込んできた。そのあまりの眩しさに陽翔は目を細め、手のひらで光を遮る。
 普通の外とも違う、あまりにも眩しすぎるオレンジ色の光。足元は青い芝生で覆われ、心地よい風でそよそよと揺れていた。
 季節に限らずたくさんの花が咲き誇り、青い空と地面の緑に彩を与える。
「小野くん、こちらにどうぞ」
 庭の真ん中に置かれたテーブルセットを示され、見ると椅子は二脚しか置かれていない。
 迷う間もなく、陽翔は促されるまま目の前の椅子に腰掛けた。
 テーブルを挟んだ向かい側の椅子にチノも腰掛ける。
 それからチノはテーブルに身を乗り出すとまるで内緒話をするかのように陽翔に顔を近づけてきた。
「小野くんは魔法は怖くない?」
「え? うん」
 陽翔の返事を聞いてチノが微笑む。そしてテーブルの上でグッと強く両手を握りしめるとゆっくりと開いていく。
「すごい……」
 チノが手のひらを開くと、手の内から赤と紫とオレンジの三色が入り混じった炎がゆらゆらと揺れていた。それは花火のようにパチパチと小さな火花を散らしている。
 店内で見た天井近くの火花と同様にその炎も火花も不思議と熱くない。
 完全に手のひらを開くと炎は親指大のいくつもの小さな犬に形を変え、テーブルの上をちょこちょこと可愛らしく走り回る。陽翔が走る犬たちの前に指を走らせると彼らは一斉になって陽翔の指を追いかける。それが面白かったのか陽翔は声を上げて笑った。
 最後に子犬が集まって大きな犬を作り上げるとそれは陽翔の脇にきちんとおすわりをして陽翔の頬をべろりと舐めた。
 チノの魔法の炎を見つめる陽翔の目はキラキラと輝いて見えた。そんな陽翔の瞳を見てチノは目を細めて笑う。
「楽しんでもらえた?」
「めっちゃくちゃ楽しかった。俺、犬が好きなんだ」
 ありがとう、と言って笑う陽翔につられてチノは一層笑みを深める。
 陽翔があまりに嬉しそうに笑うのでチノは犬を作り出して本当によかったと思った。
「中には魔法を怖がる人や魔法が嫌いな人もいるから初めて会う人の前で魔法を使う時は必ず聞いてるんだ」
 その瞬間、陽翔は犬の頭をわしわしと撫でていた手をぴたりと止めた。
 チノのその気遣いの裏に陽翔が昔言ってしまった言葉がちらついて見えた気がした。
 陽翔は昔からチノの魔法を嫌いだと思ったことはなかったし、魔法自体を怖いとも思ったことはない。
「……俺、魔法が好きだよ」
 チノの前でその言葉を言ったことはなかった気がする。
 好き、という言葉にチノは一瞬驚いたような表情を浮かべると直ぐに再び笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 改めて言葉にすると気恥ずかしさを感じ、陽翔は未だ傍らに鎮座する犬の毛並みを少し乱暴に撫でてやった。それでも犬は嫌がることなくむしろ頭を陽翔に擦り付けてきた。
「……チノは学校に通わないのか?」
「うん。うちは代々魔法使いの家系で母が色々教えてくれるから。学校は行かなくても大丈夫」
 尋ねる前から分かっていた答えだったが改めてチノの口から聞いて陽翔は少しがっかりした。
 小学校に制服はなかったので単純にチノの制服姿に陽翔は興味がある。魔法科の学生も普通科の学生と同じ制服を着ているので、生まれ持っての派手髪が制服に合わないということは決してないはずだ。
 あからさまに落ち込んで見える陽翔にチノが慌てて口を開く。
「でも、母の代わりに学校に資材を運びに行ったり、授業の手伝いに行ったりする予定だからきっとまた学校で会えるよ」
 学校でまた会える。それだけで陽翔の表情が明るく変わる。
 面白いくらいコロコロと変わる陽翔の表情が楽しくて、チノは魔法でテーブルの真ん中にピンク色の可愛らしいチューリップの花を生やした。

 それからチヒが運んできてくれたハーブティーを飲み、陽翔が持ってきたクッキーとキャンディーを食べながら二人は話に花を咲かせた。
 学校を良く知らないチノは陽翔に学校の話を強請る。リクエストに応えて学園祭や体育祭など楽しい催し物の話をしてやるとチノは胸を躍らせ、一方で勉強やテストなど難しい話をしてやると頭の上にクエスチョンマークを浮かべて眉間に皺を寄せた。
それでもチノは終始、楽しそう、と感想を述べる。
 二人の唯一の共通点が山田と河野だということに陽翔は難色を示していたがチノが喜ぶので陽翔は二人の話をたくさん聞かせてやった。
 小中高と腐れ縁のように一緒に過ごしている彼らは一見いい加減に見えて実はいい奴なのだ。
 陽翔の話へのお返しにとチノは七年間生活をしていた南の街の話をしてくれた。
 南の街であった面白い出来事や派手に魔法を使った思い出話。南の街の人たちは皆いい人ばかりだということ。十一歳になったばかりの小さな弟子がいるということ。
 チノは本当に楽しそうに南の街の話をするので話を聞く陽翔の方も楽しい気分になっていった。


 それから度々陽翔はチノを尋ねて学校の帰りにチノの家を訪れるようになった。
 陽翔が学校での出来事を話すとそれに答えるようにチノも今日一日の出来事を報告する。
 魔法を見せて欲しいと陽翔がせがめばチノは魔法を見せてくれた。お礼にと荷物の運搬や店内の掃除を手伝う陽翔はまるでアルバイト店員のようだった。
 どこに何がしまってあるのか、魔法道具の使い方、触ってはいけない小瓶の存在もよく理解していて安心して店番を頼むことができる。
 チノが不在だった七年間、ずっと店に通っていたという陽翔はチノよりも店のことに詳しかった。
「チノ、ごめん後ろの棚」
「えっ?」
 後ろ、棚。
 部分的に聞こえてきた言葉にチノが反応する前に陽翔がチノとの距離を詰める。
 チノに覆いかぶさるように身体を傾けチノの腰を抱き寄せた。
「お。小野くん!」
 突然のことに顔を真っ赤にさせたチノが陽翔の胸に顔を押し付けられながら声を上げる。一方の陽翔は男にしては細いチノの腰を抱く手とは逆の手でチノの背後にあった引き出しを引いた。
「え?」
 スッと引き出しが開く音がして中から陽翔が平たい薬草を一枚取り出す。そしてまた引き出しを元に戻すとチノの腰を開放してやった。
「サンキュー」
 そう言って陽翔は薬草の葉をフリフリと振って見せるとチノに背を向けてチヒの元へと去っていった。
 ただ身体を抱き寄せられただけなのにチノの心臓はドキドキしてしまった。未だ鳴り止まない心臓にチノは服の胸元をぎゅっと握りしめる。しかしただ上から押さえるだけではドキドキは静まりそうにない。
「そうだ、チノ」
「な、なに!?」
 先ほどまで背を向けていた陽翔が突然振り向き、チノはまた心臓を高鳴らせる。
「今日も魔法見せてくれよな。俺、お前の魔法好きだから」
 そう言って真っ白な歯を見せて笑う陽翔の顔からチノは目が離せない。



 陽翔の通う高校での魔法授業の補助講師の仕事は、母親のチヒから完全にチノに引き継がれたようだった。昨年度までは学校で頻繁に会っていたチヒの姿をもう学校では見ない。代わりによく見るようになったのは癖毛を跳ねさせたチノの姿だ。

 移動教室のために廊下を歩いていた陽翔はたまたまチノを見かけた。どうやら今日も彼は荷物運びをしているらしい。
 後ろから見るチノの髪の毛は自由に跳ねていた。陽翔はチノに手を伸ばすと跳ねている髪の毛をそっと押さえてやつた。
「ひ!?」
 突然後頭部に感じた手の感触にチノは慌てて振り返る。そしてその手の相手が陽翔だと知るとほっと胸を撫でおろした。
「小野くん! びっくりした……」
「ごめんごめん。髪の毛、跳ねてる」
 陽翔は今度はチノに許可を得てからチノの髪に触れる。整髪剤を付ければ間違いないのだろうが、残念ながら移動教室の途中である陽翔は教科書とノートと筆記用具しか持っていない。
 それでも手のひらで撫でつけるだけでもチノの髪は随分と大人しくすることができた。
「ありがとう、小野くん」
 にっこりと笑ってお礼を言うチノに陽翔も笑みを返す。
「俺、持ってるよ!」
「わっ!」
 直後、どこに隠し持っていたのか両掌にワックスを馴染ませた山田がチノの髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜ、無造作ヘアーを作り上げる。そのあまりにも前衛的な髪型を見て四人は笑った。



 陽翔たち三人が中庭に集まって昼食を取っていると、弁当袋を抱えて歩くチノの姿を見つけた。
 今日のチノは一人ではなかった。魔法科の生徒を三名引き連れて歩くチノは彼女たちと楽しそうに話している。
 学校にもだいぶ慣れ、魔法科の生徒たちとも随分打ち解けてきたらしい。それは陽翔にとっても嬉しいことだ。
 このまま生徒たちと一緒に昼食を食べに行くのかと思って見守っていると陽翔とチノの目が合う。中庭のベンチに腰掛けて昼食を取っている三人に気付いたチノがこちらに向かって手を振る。陽翔も思わず手を振り返してやった。
 チノは生徒たちと一言二言言葉を交わすと彼女たちと別れる。そして陽翔たちの元へと小走りでやってきた。
「小野くん、山田くん、河野くん。一緒にお昼ご飯食べてもいい?」
「おっけ~!」
 そう軽く返事をしたのは山田だ。快諾に喜ぶチノはちょうど一人分空いていた陽翔の隣に腰掛けた。
「あの子たちはいいのかよ」
「魔法科の子たち? うん。授業の質問に答えてただけだから」
 大丈夫、と言ってチノは弁当箱を開く。そして四人で楽しく会話をしながら食事を進める。
「そういえばチノも戻ってきたし、久しぶりに秘密基地行っちゃう?」
 山田の言葉でチノはずっと忘れていた“秘密基地”の存在を思い出した。
 確かあの秘密基地は小学校の近くにある竹藪の中に放置されていた大きな土管の中に作っていたはずだ。
 あれを作ったのは山田と河野とチノの三人で、そこに陽翔が含まれていた記憶はない。
「えっ、でも小野くんは……」
「ああ、あれな。さすがにもう撤去されてんだろ」
 秘密基地のことを陽翔に説明しなくては、と口を開いたチノに陽翔の言葉が重なってしまった。
 チノはふと陽翔を見る。
「あっ、ごめん。チノ何か言いかけた?」
「ううん、大丈夫」
 そして、もしかしたら二人が陽翔に話したのかもしれない、と考えるとおにぎりを頬張った。
 四人で囲む昼食はおしゃべりが絶えなかった。四人はまるで七年前のあの頃に戻ったクラスメイトのようで、チノは笑みを浮かべた。



「小野くん!」
「チノ」
 階段を降りたところで廊下の先にちょうど陽翔を見かけたチノが声を上げた。
 チノの大声に気付いた陽翔がその場で立ち止まっていると、陽翔の元へと駆け足で向かってくるのが見える。
 陽翔の元へとたどり着く前にすれ違った教師に「廊下は走らない」と注意をされ、駆け足から競歩に変わる様を見て陽翔は笑う。
「チノ、声でかすぎ。先生に注意されるのも面白すぎだろ」
 そう言って笑いながらチノの頭を優しく叩く陽翔にチノは仄かに頬を赤く染めた。
 その少し恥ずかしそうにむくれる表情が陽翔はとても愛おしいと感じた。
 以前は陽翔の方から声を掛けることが多かったが、最近ではチノの方から声を掛けてくれるようになった。
 もう学校に通うつもりはないという言葉に陽翔は多少なりとも落胆していたが、生徒という形ではなくともこうして学校でも会えることがとても嬉しい。
「今日も手伝い? 何か手伝うか?」
「うん。今日は魔法実習室に教材の回収」
 と言っても回収する物の量はそう多くなく、チノ一人でも十分に運べる量だ。チノがそう言う前に陽翔が背後で待つ山田と河野に声を掛ける。
「チノのこと手伝ってから行くから先教室戻って昼飯食ってて」
「えっ! 陽翔、魔法科校舎行くの? また魔法科の子たちが寄ってこない? 大丈夫?」
「次、体育で着替えだから早めに戻ってこいよ」
 二人はそう口々に言うと結局チノと陽翔に手を振って去っていってしまった。
「小野くん、今日はそんなに重くないから僕のこと手伝わなくても大丈夫だよ。僕のこと手伝ってたら昼ご飯食べる時間なくなっちゃうし……」
 心配そうに陽翔の顔を覗き込むチノに陽翔は笑みを浮かべるとまたチノの頭を優しく叩く。
「……俺が手伝いたいだけだから気にすんな」
「あ、ありがとう……」
 魔法実習室へと向かって二人は並んで廊下を歩き始める。
 昼休みの校舎は二人が初めて会った放課後の校舎と違い随分と騒がしい。
 通り過ぎた教室の中をガラス窓越しにちらりと見ると、昼食を取りながら楽しく談笑する生徒たちの姿が見えた。楽しそうな彼らの様子にチノは少し彼らを羨ましく思う。
 その時突然教室のドアが開いた。
 中から出てきた女子生徒は友人との会話に夢中になっていて通り過ぎようとしていたチノに全く気付いていないようだった。
「わっ」
 慌てて立ち止まったチノの小さな背中がビクッと跳ねる。危うくそのまま後ろに転びそうになった背中を陽翔の大きな手が支えた。
「大丈夫か?」
「うん、ありがとう」
「あ、陽翔じゃん」
 たった今チノとぶつかりかけた女子生徒が甘ったるい声で陽翔の名前を呼んだ。
 チノの背中を支えていた陽翔の手がチノから離れていく。
「お前、今ぶつかりそうだったじゃねーか。あぶねーぞ」
 どうやら彼女は陽翔の知り合いらしい。よく見るとチノも彼女に見覚えがある。
 たった今彼女が出てきた教室を見るとそこには”魔法科二年“の札が掛けてあった。
 陽翔の抗議を彼女は軽く受け流すと陽翔の肩を馴れ馴れしく触れてから友人たちと去っていった。
 陽翔の支える手を外されても尚、チノの背中の熱が引くことはなかった。
 もう触れていないのに隣に並ぶだけでドキドキと大きな音を立てる心臓の音が黙っていると陽翔に聞こえてしまうような気がしてチノが慌てて口を開く。
「そういえば、さっき山田くんが言ってた魔法科が寄ってくるって……?」
「……ああ」
 はぁ、とため息をついて見せる陽翔に聞いてはいけないことを聞いてしまったかとチノは目を右往左往させる。そして話題を変えようと必死に考えているところで陽翔が口を開いた。
「俺、魔法科にだけすっごいモテるんだよな」
「魔法科に……だけ?」
「そう、魔法科にだけ。普通科には悲しいくらいに全く。だからなるべく魔法科には近づかないようにしてたんだけど」
 ああ、でも。と陽翔が後頭部をガシガシと掻く。そんな陽翔の顔がほんの少し赤らんでいるように見えた気がした。
「チノと一緒にいる時間が欲しいから」
 そう言うと陽翔は白い歯を見せてニカッと笑って見せた。

 きゅうっと心臓が締め付けられて痛くなる。
 優しくされて、距離を詰められて、そんな笑顔を見せられて、好きにならないわけがない。

 チノ、と陽翔が呼ぶ。
「チノ。明後日の土曜日、暇?」
 頭の中のスケジュール帳を開くと日付と曜日を確認する。今日は木曜日、そして明後日が土曜日だ。
 予定を確認すると明後日の土曜日は特にこれといって特別な用事は入っていなかった。その日はいつも通り母と一緒に店を開け、店内でゆっくりと過ごすだけだ。
「明日はお店にチヒもいるから仕事の方は大丈夫だと思うけど……」
「……もしチノがよかったら、一緒に出かけない?」
「えっ!?」
 また心臓がドキドキと大きな音を立てる。チノの心臓は陽翔と一緒にいるとまるで今までこんなに動いたことがない分を取り戻そうとするかのように忙しくなる。
「えっと……う、うん」
 こくんと首を縦に振って頷くチノを見て、緊張で強張っていた陽翔の表情が一瞬にして晴れた。
「やった。チノとデートだ」
 デート、というあからさまな言葉にチノはあまりの恥ずかしさに歩みを速める。
 突然スピードを上げたチノについていくように、陽翔も歩幅を広げた。
 二人が話しているうちにいつの間にか目的地へとたどり着いていたらしい。
 チノに続いて陽翔も教室に入ると教師が待っていた。
 教師は手伝いに来た陽翔を褒めると、机の上の荷物を指差す。それはチノが言っていた通り、一人でも十分に持てる量だった。









 デートを明日に控えた昼休み。陽翔はまた魔法科の女子生徒に呼び出されていた。
 教室の前で出待ちをされ、購買部に向かおうとした所で彼女に急に手を掴まれた陽翔は今日の昼食を食べ逃すかもしれない。
 彼女に無理やり連れてこられたのは普通科と魔法科のちょうど真ん中にある中庭だ。
 いつもならば昼食を取る生徒たちで割と賑わっている場所のはずが、今日は妙に閑散としている。それが彼女の魔法による効果だと陽翔はとっくに気付いていた。
「私、陽翔くんのことが……」
 こうならないようにと陽翔はなるべく魔法科と距離を置いていたのだ。
 しかし最近はチノに会うために魔法科校舎に足を踏み入れることも多く、彼女たちと接点を持つことが増えてしまった。

 結果がこれだ。
 
 彼女の口から紡がれた「好きです」の言葉に陽翔はため息をつく。



 チノが足を止めた。
 今日も魔法科の手伝いで学校を訪れ、昼食を取る場所を探して中庭を訪れた時だった。
 まだまだ未熟な魔法科の生徒たちの魔法は、疾うに一人前の魔法使いであるチノには効いていなかった。
 チノは慌てて柱の陰に身を隠すとこっそりと中庭を覗き込む。
 好き、という彼女の言葉はチノの耳にもしっかり届いていた。
 顔を真っ赤に染めながらも必死な彼女の姿とその言葉に、これは陽翔が告白されている場面なのだとチノはすぐに理解した。


 心臓がバクバクと嫌な音を立てて鳴る。
 陽翔が告白される、嫌な場面に立ち会ってしまった。
 チノは魔法使いの掟を思い出す。

 魔法使いはフラれると相手のことを全て忘れる。

 もし陽翔が彼女の告白を受け入れたら。



 チノは陽翔のことを忘れてしまうのだろうか。





「ごめん、付き合えない」
 陽翔の声がはっきりと聞こえた。チノは俯いていた顔をゆっくりと上げると二人を見る。
 そして、直ぐに彼女の異変に気が付いた。
 つい先ほどまで顔を真っ赤にして愛おしそうに陽翔を見つめていた彼女の表情が消えていた。一切の感情を無くした、まるで能面のような顔で彼女はぼうっと突っ立っているだけだ。そんな彼女を陽翔は真っすぐ見つめている。
 数分後、彼女の瞳に光が戻ってきたと同時に突然ふっと彼女の魔法の効力が切れた。
 先ほどまで誰もいなかった中庭にいつも通り生徒たちが集まり始める。しんと静まり返っていた中庭が一気に賑やかになり、何も知らない生徒たちが二人の横を何も気にすることなく通り過ぎて行った。
 それにつられるように彼女も陽翔の横をスッと去っていく。
 彼女にはたった今の出来事の記憶がもうないのだろう。
 目の前に立っている小野陽翔という男のことなど元々知らなかったかのように、彼女は魔法科の校舎の方へと去って行ってしまった。
 つい数分前まであんなにも熱烈に陽翔に告白をしていたというのに彼女は陽翔のことをちらりとも見ることなく、ただの通行人として扱っていた。
 そのあまりの変わりようにチノは恐怖さえ覚え、顔を青白くさせると柱にしがみ付いたままその場を動くことができなかった。
「あいつまたフったのかよ」
 背後から掛けられた言葉は明らかにチノに聞かせているようで、チノは急いで後ろを振り返る。
 すると背後には山田と河野が立っていた。
「また、って……やっぱりよくあることなの?」
「チノもあいつに聞いた? あいつ、面白いくらい魔法使いにモテるんだよ」
 そう言って山田は笑う。その隣で河野がチノに教えてくれた。
「うちの魔法科の女子はみんな小野に告白してフラれてる。今の子も確か二回目だよ」
「二回目……?」
「ほら、魔法使いってフラれると相手のことを忘れるんだろ? 今の子は一回陽翔にフラれてるんだけど、一回フラれてることさえ忘れてまた好きになって二回目の告白したんだよ」
「そう……なんだ」
 フラれて相手のことを忘れても尚、また好きになることもあるんだ、とチノは少し驚いていた。


 だって自分は今、”一回目”の恋をしているのだから想像がつかないのだ。


「なあ、なんで小野はあんなに魔法科にモテるの?」
 普通科の女子にモテているところを一度も見たことがない、と河野が言うと、その言葉ひでぇ、と山田がケラケラと笑った。
「えっと……多分、小野くんも少し魔法使いの血が混じってるんじゃないかな? 魔法使いは魔力に惹かれる傾向がある、から……」
 そこまで言ってチノは言葉を止めた。


 もしかしたら自分も彼の魔力に惹かれているだけなのではないか。
 だって自分は彼と出会ってから間もない。
 自分は彼の何を知っているのだろうか。

 魔法使いは失恋すると、失恋相手のことを全て忘れてしまう。
 先ほど陽翔にフラれた彼女のように、チノも陽翔にフラれてしまえば陽翔のことをすっかり忘れてしまうのだろう。
 そうしたらもう友達でもなんでもなくなってしまう。


 彼女が校舎の中に消えていく姿を見守っていた陽翔が視線を彼女から移した瞬間、柱からを顔を出していたチノと目が合った。そしてチノと一緒にいる山田と河野にも気が付くと大股でこちらへと向かってきた。
「もしかして、お前ら今の見てた?」
「ばっちり」
 にかっと白い歯を見せながらピースをする山田の頭を陽翔が軽く小突く。それから陽翔は山田の隣にいるチノをちらりと見る。
 陽翔から目を反らしているチノは明らかに居心地が悪そうに見えた。一方の陽翔もチノに嫌な場面を見せてしまったと心臓をドキドキさせていた。
 そして二人は結局言葉を交わすことなく陽翔は普通科の校舎へ、チノは魔法科の校舎へと戻っていってしまった。
「元カレに告白現場を見られて気まずかった?」
 ここにいる三人以外誰にも聞こえない声の大きさで言う河野に陽翔が呆れたようにため息をつく。
「元カレじゃねえよ。俺とチノは付き合ったことなんてないし」
 陽翔の言葉は段々と尻すぼみになっていく。
「……そもそも俺は一回チノのことフってるし」
「……ごめん。それ、覗き見してた俺たちのせいだよな」
 謝り、最初に頭を下げたのは山田だった。続いて頭を下げる河野に陽翔がまたため息をつく。
「別に、あの時は俺もガキだったからお前らのせいじゃねえよ」
 あの時の陽翔は本当は人の目など気にせずチノに対して誠実であるべきだったのだ。

「小野は今でもチノのことが好きなんだろ」

 その言葉に陽翔は今度こそ首を縦に振って答えた。



 昼食を取る気にもなれず、チノは仕事を先にこなすと学校を出る。箒に跨ればすぐ家に着くというのに、今のチノは箒を使う集中力さえ残っていなかった。
 先ほどの陽翔の告白現場を見てチノは気付いてしまった。
 陽翔にフラれ、陽翔のことを忘れてしまうことが怖い、と。
 怖いのは陽翔にフラれることではない。陽翔にフラれて、自分が彼のことを忘れてしまうことが怖いのだ。
 もしも彼にこの恋心を悟られてしまえば、いつフラれるかわからない。いつ自分が彼のことを忘れてしまうかわからない。
 早く離れなければならない、とチノは思った。


 そして、手っ取り早く陽翔から距離を置くことをチノは決めた。








 翌日。チノは待ち合わせの時間になっても一向に現れなかった。
「チノ……」
 それは七年前のあの時のことを彷彿させる。チノが陽翔に告白をしたあの日もチノは陽翔に黙って先に行ってしまった。
 陽翔はもう一度時計を確認するとチノの自宅へと向かった。
 店の入り口にはオープンの立て札が立っている。どうやら店はいつも通り開いているようだ。
 陽翔はゆっくりと店のドアを開けた。
「あら、陽翔くん? ごめんなさい、今日はチノはいないの」
「チノ、いないんですか?」
 待ち合わせ場所にも、店にもいない。
 七年前と重なる出来事に陽翔はぞっとした。
 陽翔はチヒの元へと駆け寄ると彼女の細い肩を掴んで揺さぶる。
「チノはどこにいるんですか!?」
 チノの居場所を必死に尋ねる今の陽翔の姿はチヒにも七年前のあの時と重なって見えていた。
「この前までいた南の街にしばらくの間戻るって聞いているけれど……」
 チヒの言葉に陽翔はチノが陽翔に黙って南の街に戻ったと知る。それはまるであの時と同じだ。
「……なんで」
 チヒからようやく手を離し、踵を返す陽翔にチヒが声を掛ける。
「南の街に行く道の途中で土砂崩れがあったって聞いているわ。人の足では向かえない」
 今チノのいる南の街は遠い。間にある険しい山を越えるには電車をいくつも乗り継ぎ、車に乗る必要がある。
 陽翔は頭をフル回転させて必死に南の街へのルートを考えるが、どう足掻いても土砂崩れの道を通らなければたどり着くことはできない。
 頭を左右に振り、一度大きく深呼吸をすると陽翔はようやく振り返った。
「チノはなんで急に南の街に戻ったんですか」
 陽翔とチノは今日一緒に出掛ける約束をしていた。チヒは二人の約束を知らなかったが、チノが南に急に戻ると言い出したことを不自然に感じていたらしい。
「陽翔くん、昔チノをフったことをチノに知られた?」
 陽翔は激しく首を横に振る。そんな話はチノの前ではおろか、友人たちとの話題にも上がっていない。
 ただし昨日チノの様子がおかしいと思ったことはあった。
「ただ……昨日、魔法科に奴に告白されるところをチノに見られはしたけど」
「その魔法科の子のことはどうしたの?」
「もちろん断りました」
 だって俺はチノのことが好きだから。
 昨日の学校での出来事を聞いたチヒは何やら考えこんでしまった。その表情からはいつもの優しい笑みは消え、しばらく思案に耽るとようやく口を開いた。
「陽翔くんがその子の告白を断ったってことは、その子は陽翔くんのことを忘れた、ってことよね」
「はい」
 陽翔の返事を聞いてチヒはまた黙る。そして深く息を吐くとまるで意を決したように口を開けた。
「好きな人のことを忘れる瞬間を見るのはつらいことよ」
 その時、チヒは七年前にチノが陽翔のことを忘れた瞬間のことを思い出していた。
 愛する息子の酷く苦しむ様はもう見たくない。目の前にいる、息子の幼馴染である彼は息子のことをもう苦しめることはないとチヒは分かっている。
「魔法使いはね、魔力に惹かれるの。魔法使いにばかりモテる陽翔くんにはきっと魔法使いの血が混じってる。……チノが陽翔くんを好きになったのは、陽翔くんに魔法使いの血が混じっているからだったら? なんでチノが陽翔くんを好きになったか聞いたことはある?」
 チヒの深い青色の瞳が陽翔の瞳を真っすぐ見つめていた。その瞳に見つめられると陽翔は昔から全てを見透かされているような気持ちになる。
 陽翔はグッと拳を強く握りしめた。
「たとえきっかけはそうであっても、俺はチノに好きになってもらえて嬉しかった、です」
 小学生の頃の自分を思い出してみても、他人にモテる要素は一つもなかったように思える。
 ただ、生まれた時からずっとチノは隣にいる存在で、特別大切な存在だと思っていた。だからチノには特別優しくしていたし、いつも一緒にいたのだ。
「……ありがとう、陽翔くん」
 チヒが陽翔から目線を反らし頭を下げた瞬間、彼女の背後に飾られている飛行用の箒が陽翔の目に入ってきた。
「チヒさん」
 陽翔に声を掛けられ、チヒは下げかけた頭を上げて再び陽翔を見る。


「俺に少しでも魔法使いの血があるって言うのなら、俺も箒で空を飛べますか」













 陸路では待機時間や乗り換え時間を含めて数日かかる距離も箒を使えばまさにひとっ飛びだった。
 つい数か月前に通った空の道をチノは戻って行く。
 途中、眼下に大規模な土砂崩れが見えた。南の街へと続く線路と道路を同時に土砂が覆い隠しているのが確認できる。あの量の土砂を除去して道を通すには随分と時間がかかるだろう。
 その上を通り過ぎるとチノは南の街へと降り立った。
 南の街に住んでいたころの家がほんの数か月の間で変わる事はなかった。年季の入った木製のドアにはチノがここに来た当時に付けた魔法の焦げ跡がしっかり残っている。
 入口にあるベルを鳴らしてしばらく待つ。そして少し待っていると目の前のドアがゆっくりと開いた。
 扉の向こう側から顔を出したのは丸いおでこが見えるほど銀色の前髪を短く切り揃えた、紫色の大きな目をしたまだ幼い少年だ。彼は玄関前に立つチノの姿を見ると元々大きな目を更に零れ落ちるほど開き、あわあわと唇をわななかせた。
 玄関で不自然な彼を心配してか、少年の背後から茶髪の長髪をした青年も顔を出す。彼もまたチノを見ると驚いた表情を浮かべていた。
「チノさん!? どうしたんですか!?」
 大声を上げたのは十一歳の少年、チノの弟子であるヒューだ。
 直後、勢いよくチノの胸に飛び込んできたヒューを抱きとめながらチノは青年を見る。
「ただいま。ヒュー、陸人(りくひと)
 陸人、と呼ばれた青年は目を細めて微笑むとチノを家の中へと招き入れた。
 家の中は外観とは違い、住む人が変わると様子をがらりと変えていた。
 家具類はすべて十一歳のヒューの手が届くように背の低い物で揃え直され、配色に原色が多く使っているところと流行のロボットの玩具が置いてあるところから幼さが滲み出ていた。
 今のこの家の住人はヒューだ。そしてこの南の街に住み、街を守っている魔法使いもまた、チノではなくヒューなのだ。
「ドアを開けたらチノさんがいて、僕すごくびっくりしました!」
 チノの前にお茶を出しながらヒューは嬉しそうにそう言った。照れると頭を掻く癖は変わらないようだ。
 十歳になったばかりの彼がチノの元へと弟子にしてほしいと申し出てきたことがつい先日のことのように思い出される。
 チノの元で一年間修行をし、つい数か月前、チノは彼にこの街を譲った。
 チノが故郷に戻ってからは南の街の一人の魔法使いとして頑張っているようだ。それは家の中に以前と比べて随分と増えた魔法具や魔法に関する書物の数から明白だ。
 弱冠十一歳の彼だが、最後に見た時よりも背も伸び、大人っぽくなったように見える。
 チノはヒューの頭を優しく撫でてやった。
 ヒューの頭を撫でていると不意にヒューの隣にもう一つ、茶色の頭が並ぶ。
「もう、陸人」
「俺も頑張ってるんだけどな~」
 そう言いながら差し出してくる頭をチノは笑いながらもう片方の手でわしゃわしゃと撫でてやる。
 茶髪の長髪をハーフアップにしている長身の青年、南陸人はこの街を治める長の次男坊だ。
 チノがこの街に降り立った時から何かとチノを気遣ってくれ、今ヒューが住んでいる元・チノの家を用意してくれたのも陸人だった。
「でも本当に急にどうしたんですか、チノさん」
「ううん、なんでもない。あっちの仕事もだいぶ慣れて落ちついてきたからヒューのことが心配でちょっと戻ってきたんだよ」
 チノがそう言うとヒューはまた嬉しそうにチノに身体を寄せて甘える。甘える態度はまだ幼い少年らしくてチノはたくさんヒューの頭を撫でてやった。
 その一方でチノの言葉の切れの悪さに陸人は直ぐに気付いていた。
「何があった」
「別に何もないよ」
 チノは陸人の頭からパッと手を離すと問いに答えた。
「いつまでいられるんですか? チノさんが使ってた部屋、今は誰も使っていないんで泊まっていってください!」
「ありがとう、ヒュー。少しの間、お世話になるね」
 チノがまたヒューの頭を撫でてやるとヒューはずっと幸せそうに見える。
「お世話になるなんてそんな。ここは元々チノさんのお家なんですからいつでも帰ってきていいですし、ずっといてください」
 チノは頷くと言葉に甘えて自室へと入っていった。
 室内には簡素な机とベッドが一つ。私物は全て実家へと持っていってしまったし、魔法関連で使えそうなものは全てヒューに譲ってしまった。室内は酷く閑散としており、寂しい空気が漂っていた。
 チノはベッドに勢いよく倒れ込む。
 どうやらヒューはきちんと掃除をしてくれているらしく、ベッドにダイブしても大きく埃が舞うことはなかった。
「……勝手に戻ってきちゃった」
 枕に顔を押し付けるとその言葉が部屋の外に漏れることはない。
 口に出して言葉にすると、思ったよりも重大なことをしてしまったということにチノはようやく気付いた。そして大きなため息をつく。そのため息もまた枕に吸い込まれて消えていった。
 一緒に出掛ける約束をすっぽかしてしまった。彼はきっと怒っているだろう。
 本来ならば連絡を取らなければならなかった。しかしチノは陽翔が持つ”すまーとふぉん”などという現代の利器を持っていなかったし、勝手にいなくなる以外の選択肢をあの時は持っていなかった。
 あの時のチノはとにかく早く陽翔の前から消え去りたかったのだ。



 朝になり、チノの南の街での生活が始まった。やることは数か月前と変わらない。街の人たちからの依頼をこなしたり、街中を飛び回っている時に次の仕事を見つけたりもする。
 チノは自分の仕事をこなしつつヒューの仕事ぶりをちらりと盗み見る。まだ慣れない所がありつつも彼はしっかりとこの街の魔法使いとしての仕事をこなしているようだった。弟子の成長にチノの表情に自然と笑みが浮かぶ。
 しかしそれ以外のことにチノの感情が特別揺らぐことはなかった。
 毎日いろいろな仕事が魔法使いの元には舞い込んでくる。
 ただただ目の前の仕事を淡々とこなしていく。そういえばこの街にいた時はそうだった、とチノは当時を思い出していた。



 南の街に戻ってきて数週間が経った頃。今日の仕事は新しく赤子が生まれた家の魔除けの魔法掛けだ。チノはヒューと一緒に依頼主の家を訪れていた。
 家の中から赤子の元気な泣き声が聞こえてくる中、呪文を唱えて魔除けのベールを家に振りかければ不思議と泣き声もぴたりと止む。
 また一つ仕事を終え、次の仕事へと向かおうとしていた所に陸人が通りかかる。そしてチノに声を掛けた。
「まるで七年前に戻ったみたいだな」
「え?」
 陸人は七年前、チノがこの街にたどり着いた時のことを思い出していた。
 チノが南の街の魔法使いになったのはたまたまだった。

 純血の魔法使いは十歳の誕生日を迎えたら生まれた町を出なくてはならない。

 その言いつけ通りチノは親元を離れ、箒で宛もなく飛んでいたところ、なんとなく降り立ったのがこの街だったのだ。
 偶然街を守る魔法使いを亡くした直後だったこの街は、チノを新しい街の魔法使いとして受け入れてくれた。
 十歳になったばかりのチノはまだ背も低く、身体も小さかった。そんな子どもが一人でこの街で魔法使いとしてやっていけるはずがないと当時十六歳だった陸人は思っていた。
「この街に来たばかりのチノはなぜか気持ちが沈んでいて、凄く楽しくなさそうだった。……で、今のお前もすっごく楽しくなさそう」
「ちょっと、陸人!」
 ヒューの制止も空しく、陸人の長い指がチノの顎に掛かり上を向かせる。無理やり顔を上げさせられたチノは陸人を睨みつけた。
 直後、陸人の背中越しに向こう側から勢いよく飛んでくる箒が見えた。
「チノ!」
 爆走する箒に跨っている人物が大声でチノの名前を呼んだ。
 あまりのスピードに髪をぼさぼさに乱し、身体の至る所に葉っぱを付けているため彼の顔ははっきりとは見えない。しかしその声にチノは聞き覚えがあった。


 彼はチノが約束をすっぽかした相手だ。


「小野くん!?」
 彼がなぜか箒に跨ってこちらに勢いよく突っ込んでくる。
「は!? 何!?」
 こちらに向かって飛んでくる箒に陸人も声を上げるとチノの肩を押して身体を離す。
「これどうやって降りるんだ!?」
 最後にそう叫ぶとうまく箒を止めることができなかった彼はチノと陸人の間を抜け、たった今チノが魔除けの魔法をかけたばかりの壁にぶつかって地面に落ちてきた。
「いたたた……」
 壁に思い切りぶつけた額と地面に落ちた尻を涙目で摩る陽翔にチノが慌てて駆け寄る。
「小野くん! 大丈夫!?」
「チノ!」
 陽翔はチノに向かって手を伸ばすとその身体を思い切り抱きしめた。
 約束を破ったことを怒られると思っていたチノはぎゅっと目を閉じて陽翔からの言葉を待っていた。しかし待てども陽翔から怒りの言葉が降ってくることはなく、チノを抱きしめる力が強まっていくだけだ。
「帰ろう、チノ」
 陽翔はそう言った。
「帰ってこい、チノ」
 陽翔はチノが約束を破って待ち合わせに来なかったことを怒らなかった。
「……なんで僕がここにいるって知って……?」
「チヒさんから聞いた」
「……箒、どうしたの……?」
「俺に少し魔法の力があると聞いて、それなら飛んでチノのところに行けると思ってチヒさんに教えてもらった」
「学校は……?」
「体調不良って嘘ついて休んだ」
 陽翔の言葉がチノはどれも嬉しい。
 チノは陽翔の背中に腕を回すと強く抱きしめ返す。一方の陽翔はまるで子供をあやすようにチノの背中をポンポンと優しく叩いてやった。
 二人は抱きしめ合っていた身体をゆっくりと離していく。そして目を合わせると陽翔が苦笑いを浮かべた。
「帰ろう、って言っておきながら悪いんだけど、俺今の飛行でもうくったくたで飛べないと思う」
 その言葉にチノはぷっと噴き出して笑う。
「いいよ。僕の後ろに乗って」
 地面に落ちていた箒を手に取るとチノは箒に跨る。何度もぎゅっぎゅと柄を握り締め、箒の具合を確かめてからチノは陽翔に後ろに乗るように合図を送った。その合図に頷き、チノの後ろに陽翔がゆっくりと跨った。
「ヒュー、陸人。急にごめん、僕帰るね」
「チノさん! いつでも帰ってきてくださいね!」
「じゃあな、チノ」
 突然飛んできた陽翔について言及することなく、二人は快く手を振ってチノに別れを告げた。チノは満面の笑みを持って二人に答える。
「小野くん、しっかり掴まってて」
 チノの手が後ろに伸び、チノに触れることを躊躇していた陽翔の腕を掴む。陽翔の腕を自身の腰にしっかりと巻き付かせるとチノは地面を両足で蹴った。
 二人の身体は箒と共に一気に青空へと浮上し、陽翔が辿ってきた道を戻って行った。











 背中にぴったりと感じる陽翔の体温にチノは心臓をドキドキと鳴らしながら、いつもよりも慎重に箒を操っていた。
 いくら箒といえども南の街から故郷の家まで数時間はかかる。それまで二人は身体を密着させたまま進むことになる。その数時間を無言で過ごすわけにもいかない。
 それに二人はお互いに言いたいことがたくさんある。
 最初に口を開いたのは陽翔だ。
「……あの二人は?」
「えっと……小さい魔法使いの子は僕の弟子。もう一人は、ずっと僕に良くしてくれてる友達」
 チノの説明に、そっか、と陽翔が頷く。
 今度はチノが話す番だ。
「……黙って、約束を破ってごめんなさい」
「……別にいい。こうやってまたチノに会えたし、チノが無事ならそれでいい」
 陽翔はやはり怒ってはいなかった。そのことにチノは安堵しつつ、それでも黙って出て行ってしまったことについてどうしても陽翔に話しておきたいことがあった。
「魔法科のあの子が小野くんにフラれて、小野くんのことを忘れる所を見て、僕、凄く怖かった」
「……怖い所を見せてごめん」
 チノの腰に巻き付く陽翔の腕にぎゅっと力が籠る。それはまるでチノを安心させようとしているようだった。
 陽翔の言葉にチノは首を横に振る。
 確かに怖い場面ではあったが、陽翔が彼女をフってくれないとチノは困る。
「……僕はあの子みたいに小野くんのことを忘れたくないよ」
 だから、とチノが言葉を続ける。
「僕は小野くんに告白しない。だから、小野くんは僕のことをフラないでね」
 前を向いているチノの表情を後ろにいる陽翔が見ることはできない。それでもきっと彼は懸命な表情をしているのだろうと陽翔にはわかっていた。
 陽翔は更に強くチノを抱きしめると小さな背中に顔を埋めた。
「チノにはもう俺のことを忘れさせない」

 だから安心して、俺のことを好きになって。

 その言葉を聞いて、チノは箒の柄を強く握りしめた。





 陽翔がチノを迎えに行ったというのに、結局陽翔はチノに家まで送り届けられてしまった。
 チノを迎えに行く前に一応母親には一言連絡を入れてはある。しかし許可を得ることなく一方的な連絡だったことと学校の無断欠席が重なり、この後どれくらい怒られるか定かではない。
「チノ、また明日。学校は、来るか?」
 別れ際、尋ねられた質問にチノは首を縦に振って答える。チノの答えを聞いて陽翔は小さく安堵のため息をつくと重い足取りで玄関へと向かっていく。
 少しずつ離れていく陽翔の背中を目で追い、チノは大きく息を吸う。
 そして震える声で言った。

「明日の放課後、校舎裏で待ってるね」

 その言葉に陽翔が目を見開く。それは差出人の名前が書かれていなかったあの手紙と同じ言葉だった。


















 放課後の校舎裏。元々あまり生徒が寄り付くような場所でもなく、いたとしても人避けの魔法など今日は必要ない。
 ギャラリーは山田と河野の二人。二人は校舎裏が見える三階の窓からひっそりと陽翔とチノを見守っている。
 ギャラリーがいようともいまいとも、今の陽翔には関係のないことだ。
 陽翔が先に待っていると、少し遅れてチノが姿を現した。
「呼び出したのは僕なのに遅くなってごめんね」
「いや、俺も今来たところだから」
 ありきたりな問答をした後、陽翔は大きく息を吸い込む。そして口を開けて言葉を発しようとした瞬間、それはチノによって物理的に止められてしまった。
「待って!」
「むぐっ!?」
 チノの両掌が重なって陽翔の口を塞いだ。これでは告白することができない。
 陽翔がチノを見ると彼の目は真剣だった。必死な表情を浮かべ、チノは真っすぐ陽翔を見つめていた。
「僕、小野くんのことを忘れたくない」
 チノの声は微かに震えていた。
 その言葉は箒の上で疾うに聞いている。そして陽翔もチノに自分のことを忘れさせる気はない。
 形の良い眉をハの字にして、可愛らしい眉間に皺を寄せる。整った顔をくしゃくしゃに歪めて必死になって陽翔に訴えるチノがあまりにも健気で、可愛くて、可哀想で。
 陽翔の手が自身の唇を覆い隠しているチノの手を取るとゆっくりとチノの手を剥がしていった。
 チノの手を掴んでいた陽翔の手はチノの頬へと移り、優しく包み引き寄せる。


 そして陽翔はゆっくりとチノにキスをした。


 ただ唇が軽く合わさっているだけの簡単なキス。そんなキス、今時小学生でもしないほど拙いキスだ。
 二人の唇がくっついていた時間はそう長くはない。それでも二人にとって唇が重なっている時間は永遠のように感じられた。
 ゆっくりと唇を離していくと、名残惜しそうに二人の唇の皮が最後の一瞬までくっついていて、そしてようやく剥がれた。
 唇が離れても尚、鼻先がくっつくほど近い距離で二人は見つめ合う。二人とも顔を真っ赤に染めていた。


「チノのことが好きだ」
「……え?」


 キスをされても、陽翔の言葉を聞いても、なかなか理解が追い付かないチノは目を丸くしていた。
 再びキスをすることさえ容易なくらい近い距離で見るチノの真ん丸で大きなルビー色の瞳の中には陽翔だけが映って見える。その瞳はとても綺麗だ。
 数秒考え、チノはようやく陽翔の言葉を理解することができた。理解したチノはキスよりももっと顔を真っ赤にさせた。


「ずっとチノのことが好きだった。俺と付き合ってください」

「僕、は……」
 
「チノ」

 チノ、と陽翔が優しく呼ぶ。
 目の前の陽翔は優しい瞳でチノの瞳をまっすぐ見つめている。




「チノ。俺のこと、好きになって」





 何度も好きを繰り返す陽翔がチノの目にはあまりにも必死に見えた。
 まるで甘えるように鼻先をすりすりと擦り付けていると、チノの瞳からぽろっと涙の粒が零れ落ちる。





「もう好きになってる……!」





 お返しだとチノが鼻先をツンと合わせると、そのままチノから陽翔へと唇を重ねた。
 突然のことに驚いた陽翔の目が真ん丸の形になっているのが見えて、チノは幸せそうに笑った。





「チノがずっと大好き」
「小野くんのことが大好き」









 チノはもう絶対に小野陽翔のことを忘れたりしない。





(おわり)