「はい、カフェラテ」

 スタバのドライブスルーは意外と空いていた。クリスマスイブだっていうのに。いや、クリスマスイブだからか。
 差し出されたカフェラテを受け取ると、否応なしに車は発進する。
 行く当てのないドライブはまだ続くようだ。陽気な洋楽と煌びやかな街並みが鬱陶しい。

「……どーも」
「落ち着いた?」
「は?」
「さっきは本当に死にそうな顔してたからさ」
「今はどーなんですか」
「ま、今も死にたそうな目はしてるな」

 死にそうな目、と、死にたそうな目。なんだよそれ、何が違うか教えてくれよ。

「今日がクリスマスイブだって知ってます?」
「そりゃあね、これだけ街が色づいてたら嫌でも気づくだろ」
「それを知っててこんな知らない男を車に乗せてドライブなんて、頭のネジ一本飛んでるんじゃねーの」
「おー生意気言うねえ、あとやっと声に張りが出てきたな」

 それはきっと、悴んだ手が、カフェラテの温かさでぬるくなったからだ。そうに決まってる。

「おれ、正直いま正気じゃないと思います。アンタの運転の邪魔して事故を起こせるし、このカフェラテをアンタにぶち撒けることだって出来るし、」
「それがタツキの思いつく”正気じゃない”状態なら、おまえすげえかわいいね」
「……喧嘩売ってますよね」
「売ってねえっつうの」

 何が目的なんだよ、それだけ言えよ。

「ガキだって思ってるんだろ」
「まあそうだな、ガキでしょ、どう見たって」
「成人年齢は18に下がったのにね」
「人間なんていつまでもガキだよ、タツキに関わらずな」
「何も知らないくせによく言う」
「何も知らないから言えるんだろ。他人に対する態度に人間性ってのは全部出るんだよ」
「……ああそうですか、すみませんね」

 暖房とカフェオレのおかげで体温が戻ってくる。息を吐いてももう白く染まらない。ままならない自分のことが急にクリアに見えてきて恥ずかしくなる。
 傷つけたかった。誰でもよかった。痛々しく、酷く、揺るぎなく、誰かを傷つけたくて仕方なかった。
 凍える寒さがなくなると、自然と殺気立っていた感情の鋭角がゆるやかにまるくなっていく。外部要因によって自身のなかのひとつひとつが揺らいでいく、その朧げさに腹が立つ。
 明確な殺意みたいなもの、そんな鋭利なものさえ長期間心に宿すことができないでいる。
 まだどこかで信じている。傷つけたい、だけど同時にどうしようもなく愛されたい。

「……おれって結局よわいですよね」
「何、急に弱気になんだね」

 カーブを描いているんです、自分のなかの、愛とかやさしさとか、そういうものが、曲がって落ちていく。

「結婚したんです、1ヶ月前に別れた元彼が」
「へえ」
「よくある話ですよね、こんなの。運命だと思っていたものが、ただの夢だったなんて、どこにでも転がってる話で」

 突然話し始めるおれに、不思議そうな声ひとつ出さずに、車は進んでいく。
  男のくせに、”元彼”だということには突っ込みもせず、ただゆるやかに車を走らせる。

「相手はノンケで、最初っからおれのこと、お試しぐらいに思ってたのかも、結婚したのだって、結局女が良かったってことだろうし、」

 運命が音を立ててガラガラと崩れていくのを見た。
 運命、だと思っていた。運命の人だなんて、笑ってしまうだろう、けれど本気でそう思っていた。この人ときっと生涯を共にするのだろうと思っていた。出会うべくして出会って、一緒になるべくして一緒になって、この先もずっと続いていくのだと思っていた。こういうものを、こういう関係を、運命と呼ぶのだと思っていた。
 全部自分の勘違いだった。自分だけがずっと運命だなんて馬鹿げたことを思っていた。
 蓋を開けてみれば別れはあっさりとやってきて、おれが相手を忘れられず引き摺っている間に結婚してしまった。まるで当たり前かのように次の恋をして、驚くほど簡単に他の人間と生涯を誓っていた。あの人の運命は自分ではなかったこと、何より自分だけ(・・)がずっと相手のことが好きだったこと、受け入れるには何もかもが足りなかった。
 SNSでウエディングドレスの横に並ぶあの人の”男”の顔を見た時、息をすることができなかった。死にたくなった。同時に殺したかった。
 ─────死んでしまえ、初めてそう思った。
 しねよ、きえろ、絶対幸せになんかなるなよ、なんでおれがこんな思いをして、おまえらは笑ってんだよ、ふざけんな、しね。いますぐダンプカーに轢かれてぐちゃぐちゃになってしね。

「男と別れてすぐに彼女を作って、そのままスピード結婚だって、ふざけんじゃねえよってね、そもそも、もしかしたら付き合ってた期間も被ってたのかもしれないし、だとしたらおれは今まで何の幻想を見てたのかって、」

 ぼろぼろと、溢したくない何かが頬を流れ落ちていく。そうだ、ふざけんなって話で、全部無かったことにできるならそれがいちばん良くて。
 記憶なんて全部消えてしまえばいいし、あの人に出会う前に戻れるのなら今すぐに戻るし、存在ごと消してやりたいし。
 ……だけど忘れられない。ふとした瞬間に落ちてくる。好きだったあの人のこと、あの人を好きだった自分のことが、まだずっと、しこりのように胸の奥に残り続けている。

「……椿さん、おれね、どうしようもない奴なんですよ。相手のことが好きだったのに、いつも素直になれなくて、別れる時も、別れたあとも、結局自分の気持ちをなにひとつ言えなかった」
「好きだったんじゃん、そいつのこと、かなり」
「そりゃあね、じゃなきゃ誰かのことこんなに傷つけたいとか、いっそのこと死のうかなとか、そんなこと思いませんよ」
「ああそう、そんなこと思ってたの。じゃあやっぱり今日、おまえは俺に拾われてよかったね」
「でもきっと、自分は弱いから、あのままあそこにいても、何かできたわけじゃない」

 クリスマスイブの夜。
 イルミネーションとツリーが光るナイトマーケットで賑わう街中。わざわざそんな日に外へ繰り出して、あの人にメッセージを1通送った。
 『誰かを傷つけたくて仕方ない』
 我ながら気持ち悪い。結婚した元恋人に送った最初の言葉がそれなんて、最悪で最低で、後から思い返せばきっと黒歴史の何物でもない。
 でも、必死だった。
 死にたくて、殺したくて、無性に人を傷つけたいと願ってしまうこの夜をひとりで越すには、そうするしかなかった。
 案の定やさしいあの人は何度も電話をくれたしメッセージまで送ってくる始末。ふざけんじゃねえって話。最後まで完璧に突き放せよ。おまえのそれはやさしさなんかじゃねえんだよ。

「そんで、なんでわざわざクリスマスイブなわけ」
「あの人と付き合ったのが、2年前の今日だったからです」

 片時も忘れたことのない付き合った日の記憶。
 本当に嬉しそうに、それでも少し緊張しながら、すきです、付き合ってください、いい歳の大人が背筋を伸ばしてそう言ってきたこと、今でも鮮明に覚えている。イルミネーションの片隅で、凍える寒さの中何時間も他愛もない話をしたことも。
 好きだった、はじめて自分の存在も、自分のセクシャリティも受け入れてくれた人だった。
 彼は異性愛者だったけれど、おれが同性が好きだということを打ち明けても同様に接してくれた。当たり前のように受け入れて、ひどくやさしく触れてくれた。おれでいいの、と聞くたびに、タツキだからいいよ、と言ってくれた。
 すきだった。すきで仕方なかった。あの人と共に生きていけるのなら他に何だっていらないとさえ思っていた。

「ま、忘れられないのはわかるけどな。大失恋ってことだろ」
「そんなやわなものじゃないんですよ」
「時が過ぎればわかるよ、タツキにも。次の恋をすれば自然と過去になる」
「もう恋愛なんてしたくないです」
「そういうところがガキなんだろ」
「違いますよ、悟ったんです、誰かを頼りに生きている自分がひどく滑稽で惨めだってことに」
「へえ、興味深いこと言うね」

 嘘つけよ。どうでもいいだろ。見ず知らずの男、しかもゲイの失恋話なんて。
 真剣に聞くもんじゃねえよ。

「……人なんてね、結局ひとりなんですよ」
「ふうん?」
「誰かと付き合ったり身体を重ねたり、そういう形だけのことをして、誰かに認められたと勘違いしたり、目に見えない存在意義を確かめてるだけ」

 椿さんは何も言わない。

「ばかばかしいんですよ、何にもわかっちゃいない奴らが、恋だの愛だの騒いで、上辺の付き合いにのめり込んで。金銭的にも精神的にもひとりで生きていけない人間が、大人の顔して誰かと分かり合えたふりをして一生を終えていく、きもちわりいんですよ、心底、気持ち悪い」

 そう、全部、気持ちが悪い。この世の中が、この日に溢れている恋とか愛とかそういうやすっぽいものが、今はどうしても気持ちが悪くて仕方ない。

「でもさあ、タツキくんよ」
「……はい」
「ひとりで生きていけないから、ひとは恋愛するんじゃねーの。何もわかんないのも、ひとりで生きていけないのも、分かり合えたふりするのだって、何がわりーんだよ。孤独を孤独で埋めてんの、ひとはね、そんな強くできてねーのよ」

反吐が出る。どこかの寒い漫画や小説で出てきそうな綺麗事並べて、ふざけんじゃねえって話。

「……なんてな」
「は、?」
「おまえの言う通り、この世の中そんな綺麗なことばっかじゃねえよな。恋愛するには思考も経済力も足りなさすぎるガキみてえな大人が一人前の顔して外を歩いて結婚してたりする。子供まで産んでな。ガキがガキを育ててんじゃねえよって俺も思うよ。未熟な大人たちの巣窟なんだよこの世界ってのは」

 ひとりで何もできないくせに、あの人のやさしさを愛情と履き違えた。恋愛するには思考も経済力も足らないガキは、本当は、自分のことなのにな。

「……昔の自分に聞かせてやりたい、何もわかんないお前が恋愛なんてするから痛い目見るんだって」
「そうやって人は痛みを覚えていくモンだけどな」
「ひとりで生きていけないから、誰かの愛情に頼ろうとするんです、そういうのはもうやめたい」
「だからもう恋愛したくねえって話?」
「そうなのかもしれないですね、恋愛って、何かが欠けてる人間がするものだから」
「曲がった解釈すんのね」
「いいんですよ、自論だから」
「だけどさ、ひとりで生きていけるのを美徳とするなら、それでも尚一緒にいたいってのは、愛かもな」

 だから、どこぞの漫画や小説に出てくるような綺麗事を抜かすなよ。
 街のネオンが遠ざかる。洋楽は気分だけでもとクリスマスソングがメドレーで流れている。
 ツリーは見えない。光は降らない。ここに天使はやってこない。
 けれどスポーツカーは進んでいく。否応なしに、真っ直ぐ、揺れながら、真冬の夜を駆け抜ける。