もう少しだけ、気楽に生きてみようか。
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未だ染まらぬ青
「次、男子の試合らしいじゃん。応援行こー」
「麻瑶くん出るらしいよ!」
「がち楽しみ! はやめに行って練習風景みよ~」
球技大会は学生にとっての、文化祭に次ぐ一大イベントである。
休憩が終わると、早々に支度を終えた友人がそう言葉を交わした。嫌な予感がする。最近風も空気も冷たくなってきたから、暖房のきいたあたたかい部屋で過ごしたいというのが本音だ。
けれど、トントン、と肩を叩かれてしまえば、振り向かざるを得ない。
「奏和も行くでしょ?」
嫌な予感、的中。内心、マジか、と思いながらも、それが決して相手に伝わらないよう、ほんの少しだけ唇を噛む。
「みんなで応援しよ! 行こ!」
ピ、と音が聞こえてぎょっとする。見れば、友人が暖房を切ったところだった。
教室が無人の時は暖房を切るように、というのが最近の担任の口癖だ。つまるところ、私がこの教室に残るという選択肢はこの瞬間に消えてしまったらしい。
シューズを手にして、彼女たちの後を追う。渡り廊下を吹き抜ける風がひどく冷たかった。
*
会場は寒いけれど、じゅうぶんなほどの熱気に包まれていた。ギャラリーへと上がり、コートを見下ろす。同じクラスの代表選手がアップをしていて、各々がスリーポイントやレイアップ、ゴール下と練習を通して気合いを入れていた。その中で、ひとりだけ体に力が入っていないような動きをしている男を見つける。
ふにゃふにゃしている。やる気がない。だるそうにしている。
どの形容を当てたとしても正解になるような、そんな人物。
試合開始のブザーがなって試合が始まると、友人は「麻瑶くんがんばれー!」と声援を送り出した。ニ、三回の攻防を繰り返し、パスを繋ぎながらその男にボールが渡る。すると彼はまっすぐにゴールを見つめ、次の瞬間、ボールは軌道を描いていた。
シュ、とネットが瑶れる音がする。バンク(バンクシュート:ゴール後ろのボードに当ててシュートを決めること)じゃない。リングに一度も触れない、スウィッシュと呼ばれるそれ。リングとの接触音がするシュートよりも、かっこよく見えてしまうシュートを、澄ました顔でなんなく決めてしまう男。
────渡利麻瑶。
何度も彼にボールが渡り、そのたびに吸い込まれていくボール。その美しさはボールだけじゃない。
フォームだ。
入るであろうボールの軌道を追うのはやめた。代わりに、シュートを放った後も保たれている彼のフォームに視線がくぎ付けになる。自分の武器を最大限に生かすシュートフォーム。長い手足が、ボールをかごに入れる、この動作のためだけに動いている。
相手がブロックに来ても、焦る姿勢をいっさい見せない。
スリー、ツー、ワン。
彼のなかだけにあるカウントが、彼の軸となってたしかに存在していた。ゆったりとした動きで、足、肘が伸びる。手首がくるりと曲がって、きれいな指先から道を辿るように放たれていく。
ふわり、浮いたボールは、素直にゴールへと飛んでいった。
まるで、糸で引き寄せられているかのように。
打てば入る。だから必死に打たせないようにするけれど、手を伸ばした時のリーチと、上に伸びあがる速度が半端じゃないから止められやしない。
完璧なフォーム。まるで、バスケをするために生まれてきたというような体とその使い方、動き。
──それを、彼は「才能」というただそれだけで、やってのけてしまうような男だ。
*
人はみな、隠れたところで努力をしている。そう思っていた。
だから人の栄光は素直に称賛しなければならないし、当人の努力を見ていないくせにその実力を妬むのは間違っている。ずっと、そう思っていた。
けれど、そんな努力家が世にあふれているなか、才能、ただそれだけで生きていける人がいることを知った。
もちろん練習はしているだろう。けれど、やってみたらできちゃった、というもともとに備わっているポテンシャルが、比べ物にならないほど高い人がいる。
渡利麻瑶は、その部類だ。
小中高、バスケ経験は体育の時間のみ。それなのに、恐ろしいほどに高いシュート率。
彼の姿を見るのは嫌いだ。
才能に恵まれた人を見るのも嫌いだ。
そういう人を見るたびに、自分が捧げた九年間が、すべて無駄になってしまうような気がして。あほらしく思えて、全部ぜんぶ、やめてしまいたくなる。くだらないと、吐き捨ててしまいそうになる。
「────より。そーよりっ、奏和!」
突然横から話しかけられて「うぇ?」と間抜けな声が洩れた。
「そろそろうちらも試合なんじゃん? 行こ」
「あー……うん、そだね」
階段を降りる途中から、心臓が苦しくなる。
────ああ、まただ。はじまった。
ぐらぐら、心が揺れている。体の芯が燃えるように熱いのに、腕から肘にかけてはとても寒くて震えが止まらない。唇がカタカタと音を立て、手汗が滲む。
どうしよう、さいあくだ。
大丈夫、落ち着け、いつも通りやればいい。
体育館の木目を見ながら、念じていたその時だった。
「わーっ、そよちゃんじゃない? バスケだよね! まじで楽しみにしてるから!」
ふいに声が飛んできて、視線が動く。他クラスの女子だった。一年生の時、クラスが同じだった子だ。
「バスケ部の実力、楽しみにしてるからね!」
大声で放たれた言葉は、当然の如く周りにも丸聞こえだ。
「ち、違うよ。元だから。それに全然上手くないから、ほんと」
期待値をあげる発言をするのはどうしてだろう。これから情けない実力が晒しめられるというのに、なんて残酷なのだろうか。
「応援行くからね! シュート期待してる!」
「……ありがとう」
上手く笑えていたかはわからない。もしかすると引き攣ってたかも。
促されるままコートに入ってアップを始める。
悴んだ手に触れるボールは、心なしかいつもより硬いような気がした。
私は小学一年生から地域のバスケチームに所属していた。小中続いたのは、飽きのきやすい私にとっては奇跡だったと思う。
ゴールを見据えて、シュートを打つと、スパッと決まった。安堵する。
試合を終えたらしい男子たちが、わやわやとギャラリーに集まってくる。「がんばれよぉ」「期待してるからな」という言葉が何度も投げかけられた。
クラス仲がよい、という言葉の定義はよくわからないけれど、男女の壁が他クラスに比べると少ない私たちは、こうして応援にかけつけて声を出しながら励ますあたり、おそらく仲がよいと言っても差し支えないだろう。
ギャラリーを見上げる。渡利麻瑶の姿はなかった。
そりゃそうか、自分のことにすらたいして興味がなさそうだ。女子の試合なんて見に来るわけないか。
タイマーが練習時間の終了を知らせる。パッと映した視線の先に、その男の姿を見つけて思わずぎょっとした。
なぜか、タイマー席に腰をおろしている。バスケ部でもないから、役員なんてする必要ないはずなのに。意味が分からない。
混乱したまま、並んで礼をして、ジャンプボールのポジションに並ぶ。何度もちらちらとタイマーを見たけれど、やはり見間違いなのではなくそこに座っているのは渡利麻瑶だった。
初心者、経験者、得意な人、苦手な人。
運動音痴な人、当たり障りなくプレーできる人。シュートが上手い人、ドリブルが上手い人。
いろんな人がこのコートの上にいる。
「そより!」
ボールが渡る。手が震えて、息が止まりそうになる。
放ったボールは、ガコン、とリングに嫌われて相手の手へと渡った。
「惜しいぞ」「次は入る!」とクラスメイトの声が聞こえる。申し訳ない。恥ずかしい。あたたかい言葉をかける裏で、内心、こんなものかと落胆されているに決まっている。
何度もボールが手に渡る。そのたびに放つシュートは、遠くても近くとも、たとえレイアップだったとしても、ドフリーのゴール下だったとしても。
ことごとく、容赦なく、音を立てては外れていった。
*
「うちらサッカー見に行くけど、奏和もくる?」
「……ううん、私教室にタオル忘れちゃったから、一回戻るね」
「そっかぁ。じゃあ気が向いたらおいでね」
「うん、ありがと」
くるりと方向を変えて歩き出す。体育館から離れると、球技大会の騒音はぐっと遠くなって、ひどく冷たくて静かな廊下だけが続いている。そのことに安堵した。
タオルを忘れたなんて、そんなの嘘だ。サッカーなんて、見に行く気力がない。はやくひとりになりたい。
教室にはきっと誰もいない。わざわざ、球技大会を抜け出すようにここで過ごす人なんて、どこにも。
勢いよく戸を開けて、はぁぁぁとため息を吐き出す。膝に視線を落として体を丸めるようにしながら、「なんでうまくいかないんだろう」と言葉が溢れた。
「……下手くそだったら、意味ないじゃん」
何度もシュートを外した光景がよみがえり、涙が出そうになる。ぐいと浮かんだ水滴をぬぐって、ようやく体を起こしたときだった。
「……いや、なんか、聞くつもりじゃなかったけど、」
思わず、一歩後ずさった。目の前に、口に手を当てて気まずそうにこちらを見ている男がいた。暖房の前で熱風を直に浴びている。暗い教室の隅にいたから、全然気が付かなかった。
「なん、で、明かり……」
電気がついていなかったら、誰もいないって思うでしょ、フツウ。私の問いに、彼は────渡利麻瑶は、「めんどいから」と言った。
わざわざ明かりをつけに歩くのが面倒らしい。暗いと面倒くさいを天秤にかけた時に、面倒くさいのほうが重くなるのはわけがわからない。労力差の比重がどう考えてもおかしい。変わった価値観だ、と思った。
渡利麻瑶がいるのなら、私はここにはいられない。二人きりなんて耐えられやしないだろう、お互い。
そう思って、身を翻した時だった。
「……やってたの、バスケ」
ぴた、と足が止まる。バスケ、という響きに怯えるようになったのはいつからだろう。
「……なん、で」
「ドリブルの感じとか、周りがよく見えてるとか、だいたいわかんじゃん、そーゆーの」
熱風で髪を揺らしながら、渡利麻瑶はほんの少し笑う。ふにゃ、と崩されたそれが普段見ているものとはどこか違って、心の奥がむず痒くなる。
「渡利君、役員してたから見てたんだね」
「そーだよ」
「もともとバスケやってたわけじゃないんでしょ?」
「でも、タイマーは一回だけやったことあるから。要領は、わかる」
ふぅん、と可愛くない相槌が飛び出す。フツウ、小中で繰り返し練習するものだ。バスケは若干ルールが複雑な部分があるし、タイマーを止め忘れていた時やタイムアウトをとるタイミングを間違った時はよく怒鳴られていた。
だから、タイマーにはずっと難しいイメージがあるというのに。
「ま、球技大会だし。適当にやればいいじゃん、そんなの」
「適当って……」
きみは、それで許されるかもしれないけど。それは一般論じゃない。きみだけの特別ってやつだ。
「人生なんて、適当ぐらいがちょうどいいよ」
「渡利君みたいに上手くいったら人生楽しいと思う」
「たしかに、奏和さん、人生ツマラナソウ」
渡利麻瑶の口から『奏和さん』という言葉が出てきたことに驚く。まさか、名前を知られていたなんて。彼はほんとうに外界に興味がなさそうだから、私のことなど顔を見たことがある程度、だと思っていた。
そして、下の名前で呼んできたことにも驚愕する。たくさん選択肢がある呼び名の中で、敢えて名前を選ぶ彼の心情がまったく読み取れない。
「ツマラナイって……」
「でも事実でしょ。人生、楽しい?」
「渡利君の私のイメージどうなってるの」
「なんか……生きにくそうだな、とは」
イキニクソウ。生きにくそう。
生きやすそうな世界を生きている彼に、言われるなんて思わなかった。
「……なんかずっと損してる、みたいな。もっと、うまくやればいいのになって、たまに見てて、思う」
「……」
「今日も、焦ってたんでしょ。本当はちゃんとゴールに入るのに、外してばっかりで。落ち着いてやったら、きちんと入るの、おれは知ってる」
彼はまるで私の心の中を覗き見るように、するすると正解に導いていく。
一回やったからできる、感覚でやってみたらできた。そんな台詞を一度でも言ったことがある人が、私は嫌いだ。
こっちはいくら努力したって、本番成功することなんてないのに。
どうしてろくに練習もしてない人たちが、本番成功してみんなの注目を浴びられるんだろう。そういう星のもとに生まれたとしか考えられない。
だったらそれに嫉妬するのは、なにか間違っているのだろうか。
はぁ、と渡利君のため息が聞こえた。
「どうして、そんななの」
どうして、そんなふうに要領が悪いの。どうして、そんなふうに失敗するの。
どんな否定的な意味にもとれる言葉だったけれど、彼の言い方は馬鹿にしているわけではなく完全に呆れからくるものだった。
たしかに要領よくこなせる人から見た私は、さぞ苛立たしいに違いない。なんだか妙に納得してしまった。
彼の言葉は、包み隠す思慮は微塵もないストレートなものばかりだけど、そのぶん嫌味っぽい悪意がない。
純粋に不思議で、もっと適当に生きればいいのに、と本気で思っているのだろうとわかる。
恵まれた人特有の鈍感さも持ち合わせている。もう敵わないな、と今更ながら痛感する。
「昔から……すごく、緊張しいで」
うん、と渡利麻揺はうなずいただけだった。依然として暖房の熱を浴びている。正直結構暑そうだ。
「どんなに練習しても、本番になると絶対にうまくいかないの。練習不足なのはあるだろうし、実力がないって言われたら何も言えないんだけど」
「……でも、奏和さんの場合は違うでしょ。練習だったらほぼノーミスじゃん。緊張がその実力を邪魔してる」
ふ、と息が漏れる。
本当はもっと上手いんだよ。
いつもならもっと上手にできるのに。
言い訳がましく聞こえる気がして言えなかった。けれど、私の場合は緊張の度合いが半端じゃない。もっと落ち着くことができれば、本来の実力を遺憾なく発揮できると思うのだ。
「……渡利君は、目立ちたいとか、チヤホヤされたいとか、そういう気持ちないの?」
緊張するということは、少なからずいいところを見せたいと思っているわけで。周りに褒められたくて、認められたいからこそ逆に力が入ってしまう。
でも、彼はそうじゃない。渡利君はいつだって、周りの目をいっさい気にしていない。のびのびと生きている。
「あんま、思わないかも」
常時注目の的になっているから、優れた人ほど承認欲求が弱いと聞いたことがある。わざわざ自分が取り繕って欲求を満たそうとしなくても、普段の生活で満たされてしまうのだと。
私は人から認められるような特技も、優れた部分もないから、どうにかして欲求を満たしたいと思ってしまう。勝手に充実している渡利麻瑶とは違うのだ。
「渡利君も緊張することあるの? 何か、本気になること」
いつも力が抜けていて、イマドキの言葉で表すと無気力系、というやつだろうか。へにゃへにゃしていて頼りがいがなさそうなのに、どうして無気力系は漫画でもリアルでも人気なのだろうか。
彼が緊張して、脈を速くして、余裕をなくして、普段の力が発揮できなくなるような、骨抜きになるような瞬間があるのだろうか。
私の疑問に、渡利君は「質問ばっかだね」と少し笑った。
まずい。一生分かり合えないと思っていた人種だったのに、私の緊張しいな部分を理解してくれていたからか、謎に警戒心を解いてしまっていた。
頰を引き締める。
ちら、と窓の外に視線を預けた渡利君は、「あるよ」と小さく言葉を落とした。
「え?」
「緊張すること、あるよ。おれだって」
「……あるんだ」
「どーでもよくないことには普通に緊張する」
「渡利君が本気出したら、なんだってできるね」
「それは……どうだろ、」
すっ、と瞳に影が落ちる。いつもへにゃへにゃしているのに、このひと、こういうカオもするんだ。
憂いを帯びた表情で、窓の外を見ている。もうじき雨が降りそうだ。
横顔が美しい。背筋を伸ばして立っているだけで、こんなにも絵になるなんて。
そりゃ女子が騒ぐわけだ、と納得する。彼と付き合いたいだの、結婚までいきたいだの、そんな話題を何度も耳にした。
『どーでもよくないことには普通に緊張する』
ふいに、さっきの言葉がフラッシュバックする。
彼にとって、どうでもよくないこととはなんだろう。私の乏しい頭では、恋愛のことぐらいしか思いつかない。安直すぎだろうか。
そもそも、彼は恋愛に興味があるタイプには見えない。もし興味があるなら、クラスにいる美女に告白しているか、告白を承諾してとっくに付き合っているに違いない。まず、フリーという可能性はないだろう。
はたまた、一途な片想いをしているのだろうか。無表情のしたで、日々心を躍らせているのだろうか。
黙って彼を見つめていると、小さく微笑んだ彼が、
「なんだと思うの?」
と問いかけてくる。
まるで、私が『どうでもよくないこと』について考えているのさえお見通しだと言うようだ。
「……」
恋愛、などと口にすれば鼻で笑われてしまいそうだ。渡利麻瑶、恋愛、という単語はどう頑張ってもなかなか結びつかない。それなのに、彼は黙り込む私を少し見つめてから、なんの抵抗もなく言い放った。
「好きなひとがいるんだ」
きれいに紡がれた言葉だった。彼に想いを寄せている女子生徒が聞いたとしたら、ショックで早退するかもしれない。
どんなに可愛くてオシャレな子に言い寄られても、決して動じることのない無表情男である彼を、唯一動揺させられる人物がこの世に存在しているのだ。
「それは……」
誰なの、と聞こうとした口が止まる。
彼の瞳が、切なげに揺れていた。こんなに熱っぽい視線を、初めてみた。彼をこんなカオにさせることができるのは、いったい誰なんだろう。
私が聞きたいことを感じ取ったのか、渡利君がゆっくりと、唇を震わせる。
「兄貴のカノジョ」
え、と考えが止まる。小さく瞬きをした渡利君は、改めて「おれの好きな人は、兄貴の彼女だから」と呟いた。
「もともと好きだったひとが実は兄貴の彼女だった、とかじゃない。そんな綺麗な漫画展開じゃない。おれは、兄貴が彼女を家に連れてきた時に、好きになったから」
だからおれ、おかしいんだ。
人のものってわかってるのに、好きになった。
こぼされていく言葉は、すべて、自分を責めるようなものばかりだった。
「おれ、弟だから。すげえ優しくしてくれるんだよな。全然興味ないなら楽だったけど、面倒見いいから」
「どこが、好きなの?」
「笑顔」
即答だった。いつのまにか、彼の瞳が熱っぽいものに変わっていることに気づく。ああ、これだ、と。無気力系の魅力がわかったような気がした。
普段やる気のないような人間が、何かに対して本気を出す瞬間に、我々は魅力を感じてしまうのだ。日頃一生懸命な人よりも、こういう適当な人の方が、何倍も素敵に見えてしまうのだ。
「すげぇ可愛い顔で笑うんだ。ほんと、我ながら単純すぎるとは思うんだけど」
「いや……そんなものだよ、きっと」
誰かを好きになる理由なんて。可愛い、かっこいい、素敵だ、お茶目だ、愛嬌がある、ドジだ、明るい、繊細だ。
好きになる理由なんて、人それぞれだ。
「本気、とか。出したらきっと傷つくじゃん。それにぜったいうまくいかない。上手くいっちゃ、だめなんだ、おれの場合は」
彼が本気を出せば、なんだってできると思っていた。
『渡利君が本気出したら、なんだってできるね』
『それは……どうだろ、』
曖昧な返答の意味が、ようやく理解できる。
す、と小さく息を吸った渡利君は、まっすぐな瞳で、清々しいほどはっきりと、口にした。
「もうすぐ、結婚するんだ。兄貴たち」
まず思ったのは、彼がこの報せを聞いた時、どう思ったのか、ということだ。今ですら、泣きそうな顔をしている。それなのに、面と向かって結婚を知らされた彼は、いつもどおり無表情を貫くことができたのだろうか。
「適当でいいんだ全部。いちばん本気出したかったものは、出せないから」
寂しげに細められた目。
彼がいつも気だるげにしているのも、本気をなかなか出さないところも、何も考えていないように見える姿勢も、すべて。私は、知らなかっただけなのだ。
「……いつかまた、本気出したいって思えるようなことに、出会えるといいね」
なんだっていい。趣味でも、夢でも、勉強でもスポーツでも、勝負でも。彼が心から頑張りたいと思えるものに出会えて、その努力が報われる日が来ますように。
「……奏和さんは、優しいね」
私なんて、打算的で、心の底で色々なことを考えているような人間で、要領よく生きられるわけでもなければ、誰かの手本となるような素晴らしい生き方ができるわけでもない。
常に絡まって、空回って、生きている。
「……優しすぎると、いつか傷つく。期待を背負いすぎるとしんどくなる。おれは、そう思うから」
ピ、と暖房を切った渡利君。
「だから……もう少し、力抜いてみてもいいんじゃない」
「え」
「期待に応えたくて緊張するのはわかるし、本気でやるのもかっこいいと思うけど。もっと適当にやったほうが、奏和さんは、たぶん、うまくいくよ。まぁ、これはおれの勝手な推測だから適当に流して」
暖房が切れたということは、この部屋から出る合図だ。あと一試合、男女ともに試合が残っている。
「……わかった。なんとなく、できる気がする」
すとん、と何かが肩から降りていくのがわかる。
どんなに真面目に生きてようが、適当に生きていようが、上手くいかないことは誰にだってある。
私だけじゃないのだ。
それなのに私は勝手に人の能力に嫉妬して、自分を下げては落ち込んだ気になっていた。
「じゃあ、渡利君にもひとつ。渡利君は、たまには本気、出してみてもいいと思うよ。それこそ、勝つんだ!って気持ちを前に出すの。その方が、きっと楽しいかもよ。まぁ、これは私の勝手な憶測だから適当に流して」
笑うと、渡利君も静かに笑みをこぼした。
「……わかった。やってみる」
「うん、そうして。きっとみんなも喜ぶから」
「ああ、それと。おれ、名前で呼んでほしいかも」
まっすぐに目が合う。
────渡利麻瑶。
麻瑶、というのは美しい玉、という意味を持つ名だ。まよ、という響きもなかなか珍しい。
「奏和さん、がんばって」
「麻瑶君も……ふぁいとです」
「ファイトですって……なんか面白いね」
ふは、と相好を崩した麻瑶君。はじめ勝手に抱いていたイメージとは、全然違った。
暖房の効いた教室から出ると、冷えた空気が体にまとわりつく。
それでも凛とした空気は青くて、澄んでいて、とても心地よかった。
未だ染まらぬ青 fin.