メールを読んでいると、腕に何かが触れた。デスクの脇に積んだ紙でも当たっているのかと思い見ると、大きなムカデが這っていた。棘のようなオレンジ色の足が蠢き、肌を引っ掻いていたのだ。
 反射的に叫びそうになるのを堪え、振り払おうとした腕を止める。
 ムカデは攻撃的な生き物だ。動いたり叫んだりすると噛まれてしまう。私はじっと息を潜めた。ムカデは腕の上で、何かを探るように赤い頭部を持ち上げている。黒光りする体をくねらせて、赤い触角を左右バラバラに上げたり下げる様には嫌悪しかない。体を持ち上げているので、わじわじ動く足の付け根が見えて一層気色が悪かった。
 もう限界だ。私は勢いよく腕を払った。ムカデは上手く飛んでいき、床に引っくり返った。さぁどうしようか。叩いても簡単には死なない。熱湯を取って来る時間は無い。

 わじわじわじ、わじわじわじ。くねくね、くねくね。

 考えている間にもムカデは気色悪く体を動かして、起き上がろうとする。間もなく、器用に体を起こしたムカデが私の足に向かってきた。

「ぎゃあっ」

 私は叫びながら、そこらにあった雑誌でムカデを叩いた。固い厭な手応え。だが死んでいない。カナバサミで切っても切っても、生きているというのを聞いたことがある。驚くべき生命力だ。
 私は夢中でムカデを叩いた、黒緑色の体液が床や腕に飛び散ったが、気にしている余裕はなかった。なぜ地球上にこんな気色の悪い生物が存在するのか。早く殺してしまわなければ。そんな思いで、丸めた雑誌を闇雲に叩きつけた。
 
 ようやくムカデが動かなくなる頃には、どっと疲れていた。無残な姿になったムカデをなるべく見ないようにして、ホウキとチリトリで片づける。

 今までムカデなんて出たことがなかったのに。

 これも白い女影響なのだろうか。虫が大の苦手な私は、いよいよこれ以上は関わるまいと思った。だが、いつの間にか『ある本』を手繰っていた。

 ぎっ、みしっ、みしみし
 とんとんとん

 いつの間に封印を解いたのか。必死で記憶を手繰っている間も、あちこちから物音が聞こえてくる。これはNが忠告していた怪現象なのか、それともただ暗示にかかっただけなのか。
 分からないが、自分がまともである自信などまるでなかった。こうなったら『ある本』を読み切るより他はない。私はやけくそに近い気持ちで、ページを読み進めた。この先に救いがある事を願いながら、同じくらい救いは本当にあるのかと疑っている。

 いや、仮に無くても見つけ出せばいい。
 怪異の正体さえ明かせば、この煩わしい家鳴りも足音も聞こえなくなるだろう。

 こう思うのには経験に基づく根拠があった。怪異は正体を突き止めたり謎を解き明かしたりした瞬間、浄化されるケースが少なくないのだ。
 幽霊の正体見たり枯れ尾。とはよく言ったものだ。
 丑の刻参りも、リップクリームに爪楊枝でハートマークを描いて使いきる恋のまじないも、人に見られると効果が無くなる。西洋の例を出すなら、人に憑いた悪魔が名を知られることで弱まるのも似たようなものだろう。超自然的存在とは説明がつかないところに、その力や神秘性を担保されるのだ。