民宿に帰ると、筆者は部屋の入口と四隅にメモ用紙を置き、砂を盛った。盛り塩ならぬ盛砂である。きちんと神社からもらってきたものなので、普通の食塩を盛るよりも頼もしい。そのお陰か、その夜は物音や視線に煩わされることなく、朝までぐっすり眠れた。白い女について考えなかったのも、よかったのかもしれない。
 せっかく少なくない費用を費やして調査に来たのに勿体ないが、今回の件は深入りせずに、本としてまとめるのも控えようと決める。
 
 翌日は朝から薄暗かった。出掛けるのも億劫で、しとしとと陰気な雨がそぼ降る部屋で、持ってきた本やノートをペラペラ眺めて過ごし、飽きると温泉に浸かりにいった。
 午後からも広い和室でごろごろしていると、白い影が何度か視界の端を横切った。
 布人形なら捨ててきたし、白い女については考えていない。気のせいだと言い聞かせながらなんとかやり過ごしたが、午後三時をすぎる頃にはますます天候は悪くなり、ごろごろと遠雷が鳴っていたかと思えば、窓の外が白く光った。
 ホラー好きにはたまらない、なにか出そうな天気だ。だが今はシャレにならない。気を紛らわせようにもテレビはないし、持ってきた本やノートは怪異の話で埋め尽くされている。こんな時ばかりは、オカルトに偏った己の志向を恨むしかなかった。寝るのも、悪夢を見そうで気が進まない。
 仕方なく女将に本でも借りようと部屋を出る。
 細長く薄暗い廊下を渡り階段を下りると、受付は無人だった。ロビーのあたりを見回ってみたが、誰もいない。
 いくら客が筆者一人とはいえ、あまりに不用心ではないか。呆れながら女将を呼ぶ。しかし返事はない。厨房や風呂場も、もぬけの殻だった。
 宿泊施設で客だけ残して従業員が姿を消すなど、あるだろうか。
 建物や外の暗さも相俟って、だんだん不安になってくる。

「女将さーん、すみません。いらっしゃらないですか」

 筆者は闇雲に叫びながら、暗い民宿の中を行ったり来たりした。

 トントン

 いくらかして、玄関の格子戸を誰かが叩いた。
 客だろうか。困ったなと思いつつ、すりガラスの向こうを窺う。女性らしき影が、玄関の前に佇んでいた。
外は相変わらずのどしゃ降りである。濡れるのを嫌ってか、女は玄関戸に貼りつかんばかりの位置でじっとしている。

 トン トン トン

 どうしたものかと思い様子を見ていると、女が再び戸を叩いた。内気な性格なのか、声は発しない。こちらが応対するのをじっと待っている。
 戸を開けてやったほうがいいだろうか。
 自宅なら、直ぐにでもそうするところだが、ここは民宿だ。勝手なことをしてトラブルになったらと思うと、気安く返事もできない。

 トン トン トン

 女がまた戸を叩く。先程より心なしか力が篭っているようだった。

「あの、留守なんです」

 とっさに答えてしまい後悔する。実家暮らしで客の相手は母親任せになっているとはいえ、いい年した大人の受け答えではない。

「私は宿泊客ですが、従業員の方が出かけてしまったみたいで」
 耳がかっと熱くなるのを感じながら、言葉を補う。

「ごめんください」

 女が初めて言葉を発した。低くも高くもない、ざらざらした声だった。
 筆者がしろどろもどろだったせいで内容が聞き取れず、従業員が対応したのだと勘違いしたのだろうか。
ちゃんと説明しなくては。とりあえず玄関だけでも開けてやろうと戸に視線を向け、筆者はようやく鍵がかかっていない事に気づいた。

「あの、開いてます」

 とっさに、自分で空けて責任を負うよりは勝手に入ってもらったほうがいいという、せこい計算が働いた。だが女は反応しない。

「ごめんください」
 トン トン トン

 先ほど全く同じ調子で言い、ノックを繰り返す。
 ぞわっと二の腕に鳥肌が立った。なんだか変だ。よく考えれば女にしては影が大きい。六尺はあるんじゃないだろうか。
 
 トントントントントン
 ノックが激しくなる。
 
 どんどんどんどんどん

 そのうち思考を吹き飛ばすような音が響きだした。女が拳で玄関戸の格子を叩いているのだ。
 筆者はとっさにソファーの陰に身を縮めた。白い女の姿が脳裏を過る。
 まさか憑いてきたのだろうか。鍵をかけなければ。そう思ったが足が竦んで動けない。その間も女は戸を激しく叩き続けた。

「なにしてるんですかっ!」

 叫び声とともに、廊下の奥から女将が走ってきた。着物から艶めかしく白い太腿が零れるのも構わず受付に飛びつき、置いてあった鈴を鳴らす。
 いつの間にかノックはやんでいた。影も消えている。
 女将は項に遅れ毛を張りつかせて、筆者をジロリと一瞥した。青白い顔に血走った眼をする女将にただならぬものを感じたが、筆者は何も聞けなかった。

「何か御用でしたか?」

 ふうとこれ見よがしに溜息をついた後、女将がいくぶんか丁寧な口調で尋ねた。だが顔は笑っていない。筆者は明日の宿泊をキャンセルしたいと、シドロモドロで伝えた。

「承知しました。キャンセル料は不要ですので」

 女将はニコリともせずに言った。今夜にでも出て行って欲しいと、言い出さんばかりの様子だった。


 翌日、民宿で焼き魚や出汁巻、キノコ汁などの朝食を済ませると、朝一番のバスに乗り●●●●町を後にした。
帰りの電車を待つ間、駅前の小さな土産物屋に入る。木の実を混ぜ込んだ餡入りの饅頭や茸煎餅など、母の好みそうな土産が並んでいた。
 だがこの土地との繋がりができてしまう気がして、結局は何も買わなかった。
 特急のくせに随分とゆっくり走る列車に揺られて、ぼんやりと景色を眺める。昨日とは打って変わってよく晴れ、長閑な緑の風景が延々と続いている。
 これで白い女とは別れられる。そう思ったのも束の間だった。
 過ぎ去る景色の中にふっと、白い影が過った。
 慌てて遮光カーテンを降ろす。きっと気のせいだ。怯えている時は枯れ尾花だって幽霊に見える。帰ったらこの件はきっぱり忘れてしまおう。いくらオカルト好きでも、命を削ってまで恐怖を追い求めたいとは思わない。
 白い女は●●●●町周辺特有の怪異で、正体は山の女神。話を聞いた者にも多少障るが、それだけのこと。●●●●町や関係者と距離をおけば大丈夫。
 筆者はゆっくりと深呼吸して、後はひたすら前の座席の頭ばかり見つめていた。