「そこらへんにしとき」
もう少し年かさの老人にきつい口調で言われ、老婆はそれきり口を噤んでしまった。やたらと老人が鋭い目で睨んでくるので筆者は集会所を後にして、山の神の祠があるという場所に、足を運ぶことにした。
町を歩いていくと、ちょうど町の真ん中に位置する三叉路に、ポツンと空いた空間があり、その中央に祠が建てられていた。『●●●●町伝録』にあった、山の神を祀る祠だろう。小さな古い祠で、手入れをされている様子は無い。供え物一つ無く、紙垂はところどころ破れ、木や屋根の塗りも褪せている。
あれほど恐れられていた山の神だ。こういう祠は普通なら山の神講があって、地元の自治会が地区ごとに順番で祀っているはずだが……。
罰当たりとは思いつつ、筆者はそっと蜘蛛の巣が張った格子戸を開いた。
ぷんと、黴と埃の臭いが鼻をついた。祠の中央には丸い神鏡が設置されていた。曇った鏡面は罅割れている。
ふいに生温い風吹いた。一瞬、砂埃で視界が奪われた。
「ひっ」
筆者はゴロゴロする目を瞬きながら、思わず息を飲んだ。曇った鏡面に青白い女が映っていた。ちょうど、自分の右斜め後ろに、髪の長い女が俯いている。
ふうっと首筋に、冷たい息がかかった。
ガタガタガタ
突然、祠の扉が揺れだす。ここだけ地震が起きているのではと疑いたくなるくらい強い揺れだった。
さて、こういう場合はどうするべきか。答えは気づかないふりをすることだ。こちらが気づいている事を気取られると、怪異は一気に距離をつめてくる。わざわざ調べに来たのだから、怪異のほうから接触してきてくれるのは好都合なのだが、あちらは人間のコントロールや認知から外れた存在だ。距離感を間違えると、とんでもない目に遭う。
オカルトは好きだが、自ら危険な穴に飛び込むような真似はご免だ。筆者は何事も無かったかのような顔で、そっと祠の戸を閉めた。これでもう、おかしなものは見えない。
首筋を撫でる冷たい風が、ぴたりとやんだ。
「ねぇ」
ほっとしたのも束の間、後ろから声をかけられた。
どきんと心臓が跳ねる。抑揚のない声だった。まるで感情を知らない何かが、人間の声だけを真似たような……。振り返ってはいけない。瞬時に警報が頭の中で鳴り響く。
「ねぇ、聞こえてる」
緊張しながら相手の出方を窺っていると、再び声をかけられた。今度はやや苛立っているように聞こえた。これは人間の声だ。
「なんですか」
振り返り、筆者はまたしても後悔した。後ろにいたのはA君の家の隣のUだった。Uは黒い目を真ん丸に見開いて、じっと筆者を見つめていた。
「昨日も覗かれたんだけど、Aさん家には言ってくれたの!」
「はぁ」
「はぁ、じゃないでしょ! あれほど覗かせないで言ったのに! 馬鹿にしてるの?」
「でも」
「毎晩毎晩、ほんと迷惑なのっ」
Uの飛ばした唾が顔にかかる。何を食べたのか酷く生臭くて、とっさに顔を拭きたい衝動にかられた。だが、これ以上怒らせたら何をされるか分からない。筆者は何とか、つんと目に染みる臭いに耐えた。
「あれほど覗かないようにしてって言ったのに」
「あの、Aさん一家は少し前に引っ越したって……」
「嘘つきっ」
Uが鋭い声で叫んだ。
「は?」
「この嘘つきっ、ウソつき、嘘吐きっ、うそつきうそつきうそつき……」
焦点を失った真っ暗な目で叫び続けるUは、どう見てもまともじゃない。筆者は慌てて、回れ右をした。
「嘘吐き、嘘吐き、嘘吐き」
Uはまだ、祠に向かって叫び続けている。筆者はそのまま、そっと踵を返した。
ある程度行ったところで、ぴたりとUの叫びが止まった。やめておけばいいのに、つい気になってUを振り返る。
「いるじゃない、そこに。白い女」
Uが奇妙に首を傾けて、筆者の肩のあたりを指さしていた。つられて視線を向ける。
ぺたり。
青黒い血管の走るゴムのような手が、筆者の肩をつかんだ。
「ひぃっ」
筆者は弾かれたように駆けだした。とにかくこの場から早く離れなくては。三叉路の一本道を、猛然と引き返していく。
「あはあはあはっ。○×▼§♯◎◎×!」
けたたましく笑いながら、Uが嬉しそうに叫ぶ。
さすがにもう、振り返ろうとは思わなかった。足元を見てただ走る。
全力で走るのは何年ぶりだろう。息は切れるし足も重い。思うように前に進めず、焦りばかりが募る。
自分の動きが酷くスローモーションに感じた。とにかく体が重い。足だけではなく、肩のあたりがずっしりと重い。白い服をきた大きな女が、自分に覆い被さっているのを想像してしまい、さらに体が重くなった。
いつのまにか空は鉛色だった。まだ真昼のはずなのに夜みたいに暗い。
ぽつぽつと雨が頬を叩いた。びしょ濡れでバスに乗るわけにはいかない。雨宿りできる場所を探さなくてはと、前方を見渡す。さっき話を聞いた集会所は、まだまだ遠い。筆者は仕方なく、一本道の脇にある屋根つきのバス停に走り込んだ。そのまま褪せたベンチに座って目を瞑る。
ざああぁああ。
途端にビーズをぶちまけたみたいな雨が降り出した。あと一歩遅ければ雨に打たれていた。
筆者はベンチに項垂れたまま、静かに深呼吸した。肩の重みはいつの間にか消えている。ほっとして目を開けた拍子に、裸足の足が見えた。大きくてゴムみたいで青白い足だ。
目の前にいる――。
顔が上げられなかった。バスの時間も確認できない。
裸足の主は身じろぎひとつしない。声もたてない。呼吸すら聞こえない。だが、べったりと絡みつくような視線を感じる。
目が合ったらどうなるのだろう。
筆者は確認したくなるのをぐっと堪え、じっと自分の足元を見つめた。
早くバスが来て欲しい。人でもいい。こんな暗くて誰もいない雨の一本道で、得体の知れない怪異と二人きりなんて息が止まりそうだ。
気を紛らわせようと考え事をする。このあたりの名産品はなんだろうか。四泊もするのだ。母に土産の一つでも買っていかねばなるまい。どうせなら、このあたりにしか無いものがいい。ひよ子や鳩サブレーのような銘菓はあるだろうか。母は食いしん坊だから、甘くて食べごたえのある菓子がいい。
それにしても、Uはなぜ白い女を見たのだろう。白い女とは話を聞いた者に障るのではなかったか。
そういえばA君家に白い女が訪ねてきたきっかけも、分からない。白い女がこの地方の山の神だとして、標的はどのように選ばれるのか。作者の住む遠く離れた●●県にまで現われたのは、どういう理屈なのか。
どうにも怪異の全体がつかめない。ばらばらの情報が無秩序に浮かんでいる状態だ。こういう中途半端な状態がいちばん気持ち悪い。そもそも、白い女イコール山の神という前提は、正しいのだろうか。神さまならば祟るだけでなく、多少は富や幸をもたらしてもいいだろうし、もう少し土地に縛られそうなものなのに。
考え始めたら、目の前の気配が濃くなってきた。これ以上、考えるのはまずい。考えれば考えるほど、白い女は力を増している気がする。
筆者は慌てて思考を遮断した。黙って、どんどん水溜りが広がっていく足元をじっと見つめる。
ざああぁ ざああぁ
雨はしつこく降っている。晴れるまでは、バスが来るまでは、ここを離れられない。バスは一日に数本だけだ。滅多に来ないだろう。だとしたら、この雨があがるほうが先か。
それにしても激しい雨だ。これではあの祠がますます傷んでしまう。せっかく恐ろしい山の神を祀っているのに。
ふいに天啓のように、ある考えが浮かぶ。忘れられていなくなったのではなく、封じ込められたものが解き放たれたのだとしたら――…。
くびきを失った白い女は、道さえ繋がればどこにでも現われる。道と白い女を意識すること。いや、もっといえば恐れることか――。
顔を上げると、左右てんでばらばらの黒い目が筆者をじぃっと見下ろしていた。青黒い唇がにぃぃと広がり、洞窟のような口腔に並ぶ鋭い歯が見える。
「○×$×◎☆」
「ぎゃああああっ」
女の意味不明な叫びに負けない声をあげ、筆者は走った。
ばしゃばしゃばしゃ ばたばたばたばた
ばしゃばしゃばしゃ ばたばたばたばた
騒々しい音と共に、奇声が追いかけてくる。真っ黒な爪の生えた手が、今にも肩をつかみそうだ。捕まったら連れて行かれてしまう。それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。
雨の一本道をあてもなく走る。集落はまだ遠い。
どんなに逃げても、いつかは追いつかれてしまう。捕まったら終わりだ。二度とこちらには帰ってこられない。その後はどうなるか。真っ暗闇が頭を塗り潰していく。永遠の闇に一人ぼっち。駄目だ。想像しただけで気が変になってしまう。
ばしゃばしゃばしゃ ばたばたばたばた
ばしゃばしゃばしゃ ばたばたばたばた
この道はどこまで続くのだろう。永遠に雨の一本道が続く気がした。集落はまだか。いつの間にこんな遠くに来てしまったのか。
白い裾が視界の端でチラつく。もうすぐそこだ。追いつかれたら終わりだ。闇が虚ろな口を開けて待っている。
視界を灰色の雨が遮る。酷い豪雨だ。ほとんど前が見えない。しとどに濡れ、体が冷たくなっていく。特に手足の先が酷い。痛いくらいかじかんでいる。
気温も下がってきているようで、夏だというのに吐く息が白く浮かんだ。
ありえない。息が白く見えるのは気温がおおよそ十度以下の時だ。真冬の昼でも地方によっては、そこまで温度は下がらない。いくら豪雨とはいえ、こんなにも寒くなるはずがない。
いや、怪異が現れるときには気温が下がるというデータがある。
出典は覚えていないが、氷点下近くまで下がったという記録を読んだ。あれはどこのデータだっただろう。手足の指が千切れそうに冷たい。寒さで頭が回らない。
「○×$×◎☆」
白い女がすぐ後ろで叫ぶ。もう駄目だ。全身が壊れたみたいにガタガタ震えた。
どうしてこんな恐ろしい件に、首を突っ込んでしまったのだろう。怪奇作家として成功したいと、欲を出したせいだろうか。
絶対に嫌だ。死ぬならまだしも、連れていかれるのは絶対に嫌だ。
『では僕も逝きます。さようなら』
耳の奥で少年が囁いた。
A君は引っ越して、どうなったのだろう。そうだ、まだA君は女の手を逃れている。なぜか――。筆者を身代わりにしたからではないか。
筆者はとっさに、リュックのポケットに入れていた肌色の布人形をつかんだ。自分の匂いがうつらないように、すぐさま全力で田んぼに向かって投げる。
「○○×××◎▼$」
女が何か叫んで田んぼに跳んだ。
後は振り向かずに走った。ほどなくして町が見えてくる。傘をさした人やカッパを着た人が、ぽつりぽつりと歩いている。凍えるような気配はもうない。
助かった――。
へなへなと膝から力が抜けた。とはいえ安心するのはまだ早い。もっと人がいる所へ移動しなくては。筆者は震える体に鞭打って雨の町を歩いた。
途中、銭湯を見つけた。ありがたい。凍えて死にそうだった。髪や服をしっかりと絞り、青い暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
擦りガラスの格子戸をあけると、番台に座っていた老婆が声をかけてきた。
「すみません、こんな格好で。急に降られてしまって」
言いながら二百円を番台に置く。
「気にせんでいいよぉ。服、乾かしてあげよか?」
「いいんですか」
「いいよぉ。カゴに置いとき。石けんは?」
「持ってません」
「小さいのは二十円な。ゆっくりあったまり」
親切が骨身にしみた。梅干しみたいな顏で笑う老婆に頭をさげ、脱衣所に入る。
脱いだ服を洗面台で絞り脱衣カゴにかけると、浴室に向かった。温かい湯気が立ち込める浴室には、昼間とはいえまばらに客の姿があった。ホッとしつつ体を洗い、湯に浸かる。
のどかに反響するお喋りを聞くともなしに聞きながら、ゆっくりと熱い湯に浸かっているうちに、ようやく一心地着いた。
白い女はおそらく、A君の匂いにつられていったのだろう。もしあのまま布人形を持ち続けていたら、どうなっていただろうか。
Uの家の裏庭に布人形が落ちていたのは、A君の祖母がしたのと同じ、呪い移しのまじないだったのかもしれない。A君、もしくはA君の家族は白い女を隣家のUに引き渡して、逃げようとした。だからUは白い女に覗かれるようになった。そして今度は、Uから人形を渡された筆者が標的になった。
ぶるりと怖気が背中を走った。考えただけで悪寒がしてくる。
白い女はもちろん怖いが、A君も気味が悪い。Uの家に布人形を置いたことといい、B君に女の話をしたことといい、得体の知れない悪意を感じる。
白い女から逃れたいという必死さ故だろうか。あるいはもっと別の……。
とにかく厭な感じだ。悍ましいといってもいい。もしかすると筆者へ手紙を送ってきたのも助けを求めたからではなく、並々ならぬ悪意によるものではないか。
「あぁ、いやだ」
思わず呟き、湯に顔を浸ける。この件からはきっぱり手を引くべきだ。これ以上踏み込めば、きっと……。
またしても寒気がした。振り払うように、たて続けに顔を洗う。まだ寒気が体の芯に残っている。とくに肩のあたりが冷たく重い。
筆者は湯船にもたれて、熱すぎるくらいのお湯に首まで浸かった。
体の力を抜いて、天井を仰ぐ。壁に描かれた豪快な富士の絵が、なんとも清々しい。裾広がりの姿といい、美しい青といい縁起がいい。「不死」「無事」という語呂合わせからしても、縁起のいい山だ。富士山の御利益にあやかって、今回の件からきっぱり足を洗えるといいのだが。
柔らかな湯の心地よさに、つい長湯をしてしまった。風呂からあがる頃にはすっかりのぼせていて、だが、体は温まりうんと軽かった。火照った体に冷えた甘いコーヒー牛乳がなんともいえない。
鞄も服も番台の老婆がきっちり乾かしてくれて、いい気分で銭湯を出る頃には、空もすっきりと晴れていた。
さて、これからどうしたものか。
できれば白い女の話はここで切り上げたい。仮に小説を書こうと思えば、ここまで聞いた話と筆者自身の体験で十分書けるだろう。書いても大丈夫か保証は無いが、とにかく取材は十分だ。
とはいえ、この中途半端な状態で引き上げるのは危険な気もした。もしすでに引き返せない地点まで足を踏み入れていたとしたら、対処法だけでも調べるべきだ。
夕方のバスまではまだ時間がある。筆者は町内の神社に足を向けた。A君の家からも近い古い神社で、お砂取り用の一角がある。恐らくA君の祖母はここから呪い返しのまじない用の砂を貰ったに違いない。
もう少し年かさの老人にきつい口調で言われ、老婆はそれきり口を噤んでしまった。やたらと老人が鋭い目で睨んでくるので筆者は集会所を後にして、山の神の祠があるという場所に、足を運ぶことにした。
町を歩いていくと、ちょうど町の真ん中に位置する三叉路に、ポツンと空いた空間があり、その中央に祠が建てられていた。『●●●●町伝録』にあった、山の神を祀る祠だろう。小さな古い祠で、手入れをされている様子は無い。供え物一つ無く、紙垂はところどころ破れ、木や屋根の塗りも褪せている。
あれほど恐れられていた山の神だ。こういう祠は普通なら山の神講があって、地元の自治会が地区ごとに順番で祀っているはずだが……。
罰当たりとは思いつつ、筆者はそっと蜘蛛の巣が張った格子戸を開いた。
ぷんと、黴と埃の臭いが鼻をついた。祠の中央には丸い神鏡が設置されていた。曇った鏡面は罅割れている。
ふいに生温い風吹いた。一瞬、砂埃で視界が奪われた。
「ひっ」
筆者はゴロゴロする目を瞬きながら、思わず息を飲んだ。曇った鏡面に青白い女が映っていた。ちょうど、自分の右斜め後ろに、髪の長い女が俯いている。
ふうっと首筋に、冷たい息がかかった。
ガタガタガタ
突然、祠の扉が揺れだす。ここだけ地震が起きているのではと疑いたくなるくらい強い揺れだった。
さて、こういう場合はどうするべきか。答えは気づかないふりをすることだ。こちらが気づいている事を気取られると、怪異は一気に距離をつめてくる。わざわざ調べに来たのだから、怪異のほうから接触してきてくれるのは好都合なのだが、あちらは人間のコントロールや認知から外れた存在だ。距離感を間違えると、とんでもない目に遭う。
オカルトは好きだが、自ら危険な穴に飛び込むような真似はご免だ。筆者は何事も無かったかのような顔で、そっと祠の戸を閉めた。これでもう、おかしなものは見えない。
首筋を撫でる冷たい風が、ぴたりとやんだ。
「ねぇ」
ほっとしたのも束の間、後ろから声をかけられた。
どきんと心臓が跳ねる。抑揚のない声だった。まるで感情を知らない何かが、人間の声だけを真似たような……。振り返ってはいけない。瞬時に警報が頭の中で鳴り響く。
「ねぇ、聞こえてる」
緊張しながら相手の出方を窺っていると、再び声をかけられた。今度はやや苛立っているように聞こえた。これは人間の声だ。
「なんですか」
振り返り、筆者はまたしても後悔した。後ろにいたのはA君の家の隣のUだった。Uは黒い目を真ん丸に見開いて、じっと筆者を見つめていた。
「昨日も覗かれたんだけど、Aさん家には言ってくれたの!」
「はぁ」
「はぁ、じゃないでしょ! あれほど覗かせないで言ったのに! 馬鹿にしてるの?」
「でも」
「毎晩毎晩、ほんと迷惑なのっ」
Uの飛ばした唾が顔にかかる。何を食べたのか酷く生臭くて、とっさに顔を拭きたい衝動にかられた。だが、これ以上怒らせたら何をされるか分からない。筆者は何とか、つんと目に染みる臭いに耐えた。
「あれほど覗かないようにしてって言ったのに」
「あの、Aさん一家は少し前に引っ越したって……」
「嘘つきっ」
Uが鋭い声で叫んだ。
「は?」
「この嘘つきっ、ウソつき、嘘吐きっ、うそつきうそつきうそつき……」
焦点を失った真っ暗な目で叫び続けるUは、どう見てもまともじゃない。筆者は慌てて、回れ右をした。
「嘘吐き、嘘吐き、嘘吐き」
Uはまだ、祠に向かって叫び続けている。筆者はそのまま、そっと踵を返した。
ある程度行ったところで、ぴたりとUの叫びが止まった。やめておけばいいのに、つい気になってUを振り返る。
「いるじゃない、そこに。白い女」
Uが奇妙に首を傾けて、筆者の肩のあたりを指さしていた。つられて視線を向ける。
ぺたり。
青黒い血管の走るゴムのような手が、筆者の肩をつかんだ。
「ひぃっ」
筆者は弾かれたように駆けだした。とにかくこの場から早く離れなくては。三叉路の一本道を、猛然と引き返していく。
「あはあはあはっ。○×▼§♯◎◎×!」
けたたましく笑いながら、Uが嬉しそうに叫ぶ。
さすがにもう、振り返ろうとは思わなかった。足元を見てただ走る。
全力で走るのは何年ぶりだろう。息は切れるし足も重い。思うように前に進めず、焦りばかりが募る。
自分の動きが酷くスローモーションに感じた。とにかく体が重い。足だけではなく、肩のあたりがずっしりと重い。白い服をきた大きな女が、自分に覆い被さっているのを想像してしまい、さらに体が重くなった。
いつのまにか空は鉛色だった。まだ真昼のはずなのに夜みたいに暗い。
ぽつぽつと雨が頬を叩いた。びしょ濡れでバスに乗るわけにはいかない。雨宿りできる場所を探さなくてはと、前方を見渡す。さっき話を聞いた集会所は、まだまだ遠い。筆者は仕方なく、一本道の脇にある屋根つきのバス停に走り込んだ。そのまま褪せたベンチに座って目を瞑る。
ざああぁああ。
途端にビーズをぶちまけたみたいな雨が降り出した。あと一歩遅ければ雨に打たれていた。
筆者はベンチに項垂れたまま、静かに深呼吸した。肩の重みはいつの間にか消えている。ほっとして目を開けた拍子に、裸足の足が見えた。大きくてゴムみたいで青白い足だ。
目の前にいる――。
顔が上げられなかった。バスの時間も確認できない。
裸足の主は身じろぎひとつしない。声もたてない。呼吸すら聞こえない。だが、べったりと絡みつくような視線を感じる。
目が合ったらどうなるのだろう。
筆者は確認したくなるのをぐっと堪え、じっと自分の足元を見つめた。
早くバスが来て欲しい。人でもいい。こんな暗くて誰もいない雨の一本道で、得体の知れない怪異と二人きりなんて息が止まりそうだ。
気を紛らわせようと考え事をする。このあたりの名産品はなんだろうか。四泊もするのだ。母に土産の一つでも買っていかねばなるまい。どうせなら、このあたりにしか無いものがいい。ひよ子や鳩サブレーのような銘菓はあるだろうか。母は食いしん坊だから、甘くて食べごたえのある菓子がいい。
それにしても、Uはなぜ白い女を見たのだろう。白い女とは話を聞いた者に障るのではなかったか。
そういえばA君家に白い女が訪ねてきたきっかけも、分からない。白い女がこの地方の山の神だとして、標的はどのように選ばれるのか。作者の住む遠く離れた●●県にまで現われたのは、どういう理屈なのか。
どうにも怪異の全体がつかめない。ばらばらの情報が無秩序に浮かんでいる状態だ。こういう中途半端な状態がいちばん気持ち悪い。そもそも、白い女イコール山の神という前提は、正しいのだろうか。神さまならば祟るだけでなく、多少は富や幸をもたらしてもいいだろうし、もう少し土地に縛られそうなものなのに。
考え始めたら、目の前の気配が濃くなってきた。これ以上、考えるのはまずい。考えれば考えるほど、白い女は力を増している気がする。
筆者は慌てて思考を遮断した。黙って、どんどん水溜りが広がっていく足元をじっと見つめる。
ざああぁ ざああぁ
雨はしつこく降っている。晴れるまでは、バスが来るまでは、ここを離れられない。バスは一日に数本だけだ。滅多に来ないだろう。だとしたら、この雨があがるほうが先か。
それにしても激しい雨だ。これではあの祠がますます傷んでしまう。せっかく恐ろしい山の神を祀っているのに。
ふいに天啓のように、ある考えが浮かぶ。忘れられていなくなったのではなく、封じ込められたものが解き放たれたのだとしたら――…。
くびきを失った白い女は、道さえ繋がればどこにでも現われる。道と白い女を意識すること。いや、もっといえば恐れることか――。
顔を上げると、左右てんでばらばらの黒い目が筆者をじぃっと見下ろしていた。青黒い唇がにぃぃと広がり、洞窟のような口腔に並ぶ鋭い歯が見える。
「○×$×◎☆」
「ぎゃああああっ」
女の意味不明な叫びに負けない声をあげ、筆者は走った。
ばしゃばしゃばしゃ ばたばたばたばた
ばしゃばしゃばしゃ ばたばたばたばた
騒々しい音と共に、奇声が追いかけてくる。真っ黒な爪の生えた手が、今にも肩をつかみそうだ。捕まったら連れて行かれてしまう。それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。
雨の一本道をあてもなく走る。集落はまだ遠い。
どんなに逃げても、いつかは追いつかれてしまう。捕まったら終わりだ。二度とこちらには帰ってこられない。その後はどうなるか。真っ暗闇が頭を塗り潰していく。永遠の闇に一人ぼっち。駄目だ。想像しただけで気が変になってしまう。
ばしゃばしゃばしゃ ばたばたばたばた
ばしゃばしゃばしゃ ばたばたばたばた
この道はどこまで続くのだろう。永遠に雨の一本道が続く気がした。集落はまだか。いつの間にこんな遠くに来てしまったのか。
白い裾が視界の端でチラつく。もうすぐそこだ。追いつかれたら終わりだ。闇が虚ろな口を開けて待っている。
視界を灰色の雨が遮る。酷い豪雨だ。ほとんど前が見えない。しとどに濡れ、体が冷たくなっていく。特に手足の先が酷い。痛いくらいかじかんでいる。
気温も下がってきているようで、夏だというのに吐く息が白く浮かんだ。
ありえない。息が白く見えるのは気温がおおよそ十度以下の時だ。真冬の昼でも地方によっては、そこまで温度は下がらない。いくら豪雨とはいえ、こんなにも寒くなるはずがない。
いや、怪異が現れるときには気温が下がるというデータがある。
出典は覚えていないが、氷点下近くまで下がったという記録を読んだ。あれはどこのデータだっただろう。手足の指が千切れそうに冷たい。寒さで頭が回らない。
「○×$×◎☆」
白い女がすぐ後ろで叫ぶ。もう駄目だ。全身が壊れたみたいにガタガタ震えた。
どうしてこんな恐ろしい件に、首を突っ込んでしまったのだろう。怪奇作家として成功したいと、欲を出したせいだろうか。
絶対に嫌だ。死ぬならまだしも、連れていかれるのは絶対に嫌だ。
『では僕も逝きます。さようなら』
耳の奥で少年が囁いた。
A君は引っ越して、どうなったのだろう。そうだ、まだA君は女の手を逃れている。なぜか――。筆者を身代わりにしたからではないか。
筆者はとっさに、リュックのポケットに入れていた肌色の布人形をつかんだ。自分の匂いがうつらないように、すぐさま全力で田んぼに向かって投げる。
「○○×××◎▼$」
女が何か叫んで田んぼに跳んだ。
後は振り向かずに走った。ほどなくして町が見えてくる。傘をさした人やカッパを着た人が、ぽつりぽつりと歩いている。凍えるような気配はもうない。
助かった――。
へなへなと膝から力が抜けた。とはいえ安心するのはまだ早い。もっと人がいる所へ移動しなくては。筆者は震える体に鞭打って雨の町を歩いた。
途中、銭湯を見つけた。ありがたい。凍えて死にそうだった。髪や服をしっかりと絞り、青い暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
擦りガラスの格子戸をあけると、番台に座っていた老婆が声をかけてきた。
「すみません、こんな格好で。急に降られてしまって」
言いながら二百円を番台に置く。
「気にせんでいいよぉ。服、乾かしてあげよか?」
「いいんですか」
「いいよぉ。カゴに置いとき。石けんは?」
「持ってません」
「小さいのは二十円な。ゆっくりあったまり」
親切が骨身にしみた。梅干しみたいな顏で笑う老婆に頭をさげ、脱衣所に入る。
脱いだ服を洗面台で絞り脱衣カゴにかけると、浴室に向かった。温かい湯気が立ち込める浴室には、昼間とはいえまばらに客の姿があった。ホッとしつつ体を洗い、湯に浸かる。
のどかに反響するお喋りを聞くともなしに聞きながら、ゆっくりと熱い湯に浸かっているうちに、ようやく一心地着いた。
白い女はおそらく、A君の匂いにつられていったのだろう。もしあのまま布人形を持ち続けていたら、どうなっていただろうか。
Uの家の裏庭に布人形が落ちていたのは、A君の祖母がしたのと同じ、呪い移しのまじないだったのかもしれない。A君、もしくはA君の家族は白い女を隣家のUに引き渡して、逃げようとした。だからUは白い女に覗かれるようになった。そして今度は、Uから人形を渡された筆者が標的になった。
ぶるりと怖気が背中を走った。考えただけで悪寒がしてくる。
白い女はもちろん怖いが、A君も気味が悪い。Uの家に布人形を置いたことといい、B君に女の話をしたことといい、得体の知れない悪意を感じる。
白い女から逃れたいという必死さ故だろうか。あるいはもっと別の……。
とにかく厭な感じだ。悍ましいといってもいい。もしかすると筆者へ手紙を送ってきたのも助けを求めたからではなく、並々ならぬ悪意によるものではないか。
「あぁ、いやだ」
思わず呟き、湯に顔を浸ける。この件からはきっぱり手を引くべきだ。これ以上踏み込めば、きっと……。
またしても寒気がした。振り払うように、たて続けに顔を洗う。まだ寒気が体の芯に残っている。とくに肩のあたりが冷たく重い。
筆者は湯船にもたれて、熱すぎるくらいのお湯に首まで浸かった。
体の力を抜いて、天井を仰ぐ。壁に描かれた豪快な富士の絵が、なんとも清々しい。裾広がりの姿といい、美しい青といい縁起がいい。「不死」「無事」という語呂合わせからしても、縁起のいい山だ。富士山の御利益にあやかって、今回の件からきっぱり足を洗えるといいのだが。
柔らかな湯の心地よさに、つい長湯をしてしまった。風呂からあがる頃にはすっかりのぼせていて、だが、体は温まりうんと軽かった。火照った体に冷えた甘いコーヒー牛乳がなんともいえない。
鞄も服も番台の老婆がきっちり乾かしてくれて、いい気分で銭湯を出る頃には、空もすっきりと晴れていた。
さて、これからどうしたものか。
できれば白い女の話はここで切り上げたい。仮に小説を書こうと思えば、ここまで聞いた話と筆者自身の体験で十分書けるだろう。書いても大丈夫か保証は無いが、とにかく取材は十分だ。
とはいえ、この中途半端な状態で引き上げるのは危険な気もした。もしすでに引き返せない地点まで足を踏み入れていたとしたら、対処法だけでも調べるべきだ。
夕方のバスまではまだ時間がある。筆者は町内の神社に足を向けた。A君の家からも近い古い神社で、お砂取り用の一角がある。恐らくA君の祖母はここから呪い返しのまじない用の砂を貰ったに違いない。