昨夜、風呂場で見たあれはなんだったのだろう。白々とした朝の光に照らされていると、全て夢だった気がしてくる。とにかく、今日はまず図書館だ。郷土史を調べ、それから町に出て関係がありそうなスポットを片端から回る。
 宿で朝食をとると、朝一のバスに乗って町に降りた。
 曲がりくねった道をバスに揺られながら筆者は、朝食時の女将との会話を頭の中で反芻した。

「おはようございます、今日はどちらへ」
「●●●●町を散策してきます」
「あら、何も無い田舎町ですよ。せっかくなら山へいかれては?」

 女将は昨日と似たような藤色の着物の袖で、そっと口元を隠して言った。「登山はちょっと」と筆者が言うと、さも残念そうにしていた。

「あの、昨日の夜、私以外に露天風呂を利用した人はいましたか」
「いいえ。立ち寄り湯は午後四時までですから」
「なるほど」
「何かありましたか」

 怪訝そうに眉を寄せる女将に、筆者は慌てて何でもないと首を横にした。

「もしかして、まさらさんが出ました?」
 日本人らしい奥二重の細い瞳を見開き、女将が首を傾げる。

「は?」
「この辺りは猿が出るんです。時々温泉に入ってきて。困りますよ、ほんと」

 どうやらましらと言ったらしい。ほほほと笑って、女将が茶を注ぎ足してくれた。出掛けの茶は災難避けになると言われていたな。などとぼんやり考えながら、筆者は椀の底が見えないほど濃い緑茶を、ゆっくりと啜った。
 
 なんてことは無いやり取りだったが、こうして思い出してみると、女将の態度は妙だった気がしてくる。
 なぜ、見るからに体を動かすのが苦手そうな筆者に登山を勧めたのか。袖の下の口元で、どんな表情を浮かべていたのか。
 妙に気にかかった。それに、風呂で何か出たかと尋ねられたのも気になる。本当に猿だと思って聞いてきたのだろうか。
 気になるだけで、具体的に何がどう妙なのかは分からない。それが余計に引っかかって、もやもやとした。やはり昨晩の露天風呂での出来事は、夢ではなかったのかもしれない。では、あの髪の長い女は、民宿の幽霊だったのか。
 どこの旅館やホテルにも幽霊話はつきものだ。不特定多数の人間が出入りするため、事件や事故が起こり易いからだ。
 それに宿泊先に落し物をしていく客が案外多いという。
 落し物とは物質だけでなく、その人自身の残留思念や憑いていた霊などもそうで、ふとした拍子に宿泊施設に置き去りにされることがあるという。また、滞在が夜であることや、旅先で疲れが溜まっていたり気が高ぶっていたりすることも、宿泊施設で霊が出易い要因である。
 とはいえ、昨夜のあれは宿泊施設にありがちな怪現象とは、どこか違う気がした。もっと強大で禍々しい、神的な何か――…。それともあれこそが白い女なのだろうか。
 山の女神と白い女には繋がりがあるかもしれない。例えば、この地方でいう山の女神と白い女は、同一の存在なのではないのか。
 考えていたら、ふと白いものが視界の隅を過った。
 筆者は窓の外に目を凝らした。深い森の鬱蒼と茂る木々の間に、ぼうっと白い影が佇んでいる。

 あんなところに人――? たぶん女だ。ヒッチハイカーにはとても見えない。

 ぶるりと背筋が震えた。まさかと思いつつも、気になって窓から目が離せない。
 しばらく進むと、また白い影が過った。木々の間に広がる薄闇に、白っぽい女がぼんやりと佇んでいる。

「キャンプ場の森で、木々の間を白い影が過った」

 A君が手紙でそう訴えていたのを思い出す。一緒に白い影を見たE先生は直後、事故に遭って入院し、その後どうなったかは分からない。担任が替わったとA君は言っていたから入院が長引いたか、もしかするといなくなってしまったのかもしれない。
 寒気がしてきた。これ以上、考えてはいけない。そう思うのに、どうしても窓を見るのをやめられない。
 過ぎても過ぎても、木々の間に白い影が佇んでいる。走って先回りしては、現われているのだろうか。白い服の裾がふわりふわりと翻る。青白いゴムのような手足、長くぬらりとした黒髪。通り過ぎるのは一瞬なのに、視覚がどんどん女の像を結びあげていく。
 いい加減、見るのをやめなくては。
 筆者は無理やりにでも、窓から視線を逸らそうとした。だができなかった。肩にズシリと重みを感じて、直後、首が固まってしまった。
 重い。まるで誰かが両手で体重をかけているようだ。
 木々の間で女が笑う。唇は乾いて黒く、口が裂けたように広がっている。尖った歯は汚く、生臭い吐息が臭ってきそうだ。
 なにより目だ。てんでバラバラの方を向いた、暗い穴のような……。
 かっと目を見開き、女が前傾姿勢になる。次の瞬間、こちらに向かって勢いよく走り出した。

「わっ」

 筆者はとっさに、リュックにぶら下げたお守りを握った。目をぎゅっとつむり、思考をシャットアウトする。ガタガタ揺れるバスの振動に身も心も委ねる。バスはぐんぐん速度を上げている。大丈夫、きっと振り切れた。

「次停まりま~す」

 ガサガサに割れた声が車内に響く。
 停車ボタンは光ってない。当然だ。乗客は筆者一人だ。町まではまだ距離がある。カーブの向こうのバス停にも人はいない。

「停まらないで」

 思わず叫ぶが、走行音に掻き消され運転手には聞こえていないようだった。絶望しながら窓の外を覗く。ゆっくり減速していくバスの脇を、何かが並走している。
 白い女だ。
 生きた心地がしなかった。もしあれが追いついてしまったら。バスの扉が開いた瞬間に乗り込んできたら。そんなの冗談じゃない。

「まもなく××停留所、××停留所」

 ポンと停車ボタンが一斉に光る。
 赤く光るボタンが、暗闇に浮かぶ凶暴な大蝙蝠の目に見えた。
 ガタガタと大きく揺れ、バスが停まる。プシュッと音を立てて折り畳み扉が開いた。
 入口に女が俯いている。長い黒髪で表情は見えない。白く翻る裾から覗く足は裸足で、青黒い血管が浮かんでいる。

「降りないんですか」
 運転手が振り返る。
「降りません! 出してください」
 筆者は叫んだ。白い女がゆっくりと足を上げる。ステップに乗り込もうとしている。
「早く!」

「発車しま~す」
 運転手が怪訝そうに首を捻りつつ、ハンドルを握る。

 女の鼻先で戸が閉まった。バスがゆっくり走り出す。
女はバス停からバスをじっと見つめている。先刻のように走り出す気配はない。その姿がだんだん遠くなり、見えなくなったところでようやく体から力が抜けた。

「降りないなら押さないで下さいよ。ったく」

 運転手が迷惑そうに呟いた。停車ボタンが光る前から「停まります」と言ったことなど、忘れてしまったようだ。
なぜ運転手が停まろうとしたのか、なぜ押してもないのに停車ボタンが光ったのか。
筆者は一切の思考を放棄して、お守りを握りしめたまま目を閉じた。

 その後は何事もなく、バスは目的地についた。

 あれは一体なんだったのだろう。肩に纏わりつく重さを振り払うように、筆者は図書館に足を運び、郷土史コーナーで本を漁った。古い昔話を集めた本、郷土史、文化史、地元の歴史家が書いた本――豊富なラインナップに目移りしながら、目次を確認して関連のありそうな書物を選び取っていく。
 分かったのは、タクシーの運転手が言う通りこのあたりの土地はもともと山で、女神が住んでいたということだ。昭和の初めの伝記に、山に纏わる話がいくつか載っていたので抜粋する。