メータが上がる前にと、少し手前で降ろしてくれた運転手と別れ、A宅に足を向ける。前方に見える木の塀に囲まれた大きな一軒家が、A宅らしい。最後の手紙に記された住所をもとに、ゼンリン地図で調べたから間違いない。
 なかなかに幸先のいいスタートだった。A君の手紙が本物だったことも、運転手の話で証明された。
手応えと多少の恐怖を感じながら、塀の切れ目から敷地に入る。広い庭の後ろには、平屋建ての大きな家屋が横たわっている。

 A宅の前に立った途端、ぞくりとした。
 黒々と光る瓦や柱に、障子戸の開け放たれた縁側――夢で見たA君の家にそっくりだった。自ら暗い沼に足を踏み入れようとしているような……。

 そもそも、たかが数通の手紙の内容を確かめるために、どうしてこんな地方まで来てしまったのか。
 自問しつつも、荒れた庭に足を踏み入れる。
 縁側の向こうの広く暗い和室から、冷たい風が吹きつけた。
 黴臭さに思わず咽る。手紙を受け取って間もないし、運転手の口ぶりからしても、この家が空き家になってから、そう日は経っていないはずだ。なのに、この荒廃ぶりはどうだろう。
 じっと見ていたら、真っ暗な畳の間を白い影が横切っていくのではないか。
 そんな気がして、筆者は廃屋に背を向けた。茶色く干からびたミニトマトやナスが目に入り、ますます嫌な気分になった。
 
 一体A君の身に何が起きたのだろう。友人や知人を巻き込み結局、家族もろとも長年住み慣れた家を離れる原因を作った何かが、ここにいたのだろうか。
 見るともなしに枯れたナスを見ていると、ふいに、家の中から視線を感じた。

 そんなはずはない――。

 でも確かに感じる。ねっとりと絡みつくような視線だ。
 夏だというのに、冷たい風が項をすうすう撫でた。思わず身震いしそうなるのを、筆者はなんとか堪えた。

 気取られたら憑いてくる。
 
 だしぬけにそんなセリフが浮かぶ。しかし、考えてはいけないと思うほど、頭の中に像が結ばれていく。
 
 やっぱりいるのだ……。

 はたはたと白い服の裾が翻る音まで、聞こえてくる気がした。
 左右てんでばらばらの方を向いた眼で、真っ黒な口を開けて笑っているのだろうか。
 いや、そんなことある筈がない。あれはA君に憑いているのだから。
 筆者は庭の方を向いたまま、ゆっくりと横にずれた。枯れた花壇を眺めているふりをしながら移動していく。少し不自然だが仕方がない。今向きを変えたら、何かの弾みで暗い和室を覗いてしまうかもしれない。それだけは絶対に嫌だった。
 とっさに拳を握って親指を手の平にしまう。小学生の時に流行った、幽霊に憑りつかれないためのおまじないだ。当然、根拠はない。だがゲン担ぎでもしないよりはいい。
 首筋に視線がべったりと絡みついている。
 砂交じりの庭地が、スニーカーの下でざっざっと音を立てた。
 冷たい汗が次から次に背中を伝い落ちていく。

 はたはた、はたはた。

 音が聞こえる。聞きたくない。でも耳を塞げば、白い女に気取られてしまう。
 入ってくる時はそれほど感じなかった庭の広さが、今は果てしない。開け放たれた門が遥か彼方に見えた。

 ぺたっ、ぺたっ。

 そのうち、餅をつくような音が聞えてきた。畳の上を誰かが裸足で歩いているのだ。
 神社で見た、青白いゴムのような足が頭を過る。
大丈夫、もう少し。あれはここにはいない。あるのは気配の残滓だけだ。
 根拠もなく自分を励まして、一歩ずつ門に近づく。
でももし、あれが先回りして門の前に立ったら。
 不意にそんな事を考えてしまった。反射的に門から視線を剥がす。
 どうしてわざわざ怖いことを考えてしまうのだろう。ここは廃墟、誰もいない。自分に言い聞かせながら、茶色く萎れた花壇を睨み、慎重に門に近づいていく。
 ふっと背中の気配が軽くなった。

 ほら、気のせいだった。

 ほっとして顔を上げる。次の瞬間、筆者は自分の甘さを後悔した。
 門の真ん中に、黒っぽい影が揺れていた。漫画みたいな黒い人影だ。逆光でもないのにこの距離でこの見え方はありえない。つまりあれはこの世のものではない。
 どきん、どきん。心臓が大きく弾む。
 やけに辺りは静かだった。庭木は茂っているのに、蝉一匹鳴いていない。

 ざっ。門の人影が一歩前に進んだ。

 よく見ると影じゃない。女だ。白い服の女が筆者に向かって手を伸ばしている。
 捕まったら終わる―…。いっそ屋敷に逃げ込むか。だが、もしまた先回りされたら。あんな暗い部屋でアレと鉢合わせなんて、絶対に嫌だ。

 ざっ。迷っているうちにまた一歩、女が踏み出す。
どきん、どきん。心臓があまりに五月蠅くて、それ以外は何も聞こえない。頭蓋の中身が臓になってしまったみたいだ。酷い頭痛とともに、膝が笑いだした。
 進むことも退くこともできず、立ち尽くす。いっそ気を失ってしまったほうが、どんなに楽か。そう思ったとたん、ふっと意識が霞んだ。

「あの、聞いてますか!」

 突然、苛立った声が鼓膜を叩いた。筆者は反射的に顔を上げた。

「さっきから、アナタ、大丈夫ですか?」

 女が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。言葉のわりには険のある表情だ。四十代くらいだろうか。白いワンピースに見えたのは、割烹着だった。

「アナタ、ここの家の人?」

 どう答えたものかと迷っていると、女はぼさぼさの眉根をぎゅっと寄せた。
 表情のせいか、疑り深そうな印象だ。肌は茶色く乾いて、シミや細かな皺が目立つ。長い髪もろくに梳かしていないのかボサボサだ。

「家の人に言ってくれる? 毎晩毎晩、二階の窓から覗いて、迷惑なのよ」

「えっ、でも、ここは一階建てですが」

「違うわよ。分かってるくせに! ウチの窓よ。昨日も覗いでたでしょ」

 女は隣の家の二階の窓を指差して言った。窓にはベランダも足場も無かった。あんな所から誰が、どうやって中を覗くというのだろう。

「あの、私はたまたまここにいただけで、家の人は少し前に引っ越したと伺っていますが、誰が覗いているんです?」

「はぁっ? あぁ、あぁ、そうね。そうだった。でも覗いてたのよ」

 女が血走った瞳をぎょろぎょろと動かして呟く。少し頭がおかしいのかもしれない。A君の家や窓から覗いている人物について話を聞きたいが、女と関りあいになるのは躊躇われた。

「なによ、その顔。三十半ばすぎても未婚の女がそんなにおかしい?」

「いえ、別に」

 女を刺激しないよう、筆者は真面目な顔で首を横に振った。

「いかず後家だって笑いものにして。えぇ、えぇ。私は新参者ですよ。だからこんな田舎に引っ越しは嫌だったのよ」

 爪を噛みながら女がぶつぶつ言いだす。これはいよいよ本格的におかしい。「お化けより人間の方が怖いよ」というタクシー運転手の台詞が頭をよぎり、思わず女が凶器になりそうなものを持っていないかチェックする。

「隣の家は薄暗いし、女は毎晩覗いてくるし、隣の家の子はまだ中学生だって言うのに大人の女と毎日いちゃいちゃしてるし」

「あの、女といちゃいちゃって?」

 筆者は尋ねた。手紙から受けたA君の印象は、やや大人びているが純朴な少年、というイメージだった。大人の女と毎晩楽しく過ごすような少年とは思えなかった。

「知らないの!? 毎日ね、女を背負って家に連れ帰るのよ」
 常識でしょ、とばかりに女が目を剥く。

「どんな女ですか」
「白いワンピースを着た女よ。髪が長くて。その女がね、うちを覗くのよ」
「どんなふうに……?」

「変な顔して、げたげた笑いながら二階の窓に貼りつくの。こうよ」

 女が突然、パントマイムのように両手を突き出し、そのあいだから顔を出す。左右の目がカメレオンのように、てんでバラバラの方を見ている。

「あの」
「壁をすすすすって登って来てね。困ったものだわ、ホント。そうだ、これうちの裏庭に落ちてたの。あの子の物ね」

 意味不明な発言に戸惑っていると、女がかっぽう着のポケットから出来の悪い人形を取り出した。肌色に近い布製で、毛糸で雑に目鼻口がつけてある。髪もなければ服もないので断定はできないが、多分、男の子の人形だろうと思った。

「はい。返しましたからね」

 戸惑う筆者に無理やり人形を握らせると、女はすごい勢いで家に帰っていった。
 残された筆者は、掌の中の気味の悪い人形を呆然と見下ろした。手触りからして中に詰まっているのは砂だろう。

『こうして匂いをつけて置いておくと、そっちに行ってくれるから』

 穏やかな老婆の声が耳元で聞こえた気がした。慌てて振り返るが、荒れた家があるばかりで誰もいなかった。

 迷ったが、人形をリュックにしまう。危険だとは思ったが、何かの手がかりになるかもしれないと思うと、安易に捨てられなかった。A君たちの引っ越しについて隣人に尋ねたかったが、あの調子では無理だろう。あの女性にはもう関わらない事に決めて、別隣の二軒に話を聞きにいく。

 チャイムを鳴らすとそれぞれ、家人が対応してくれた。二人とも噂好きの平凡な主婦と初老の婦人といったごく平凡な奥さんで、たいした情報は得られなかった。話によると、A君一家は挨拶もなしに突然、引っ越してしまったらしい。
 ただ、何か変わった事がなかったか尋ねたら、気になる発言がいくつかあった。

「そういえば、ちょっと前の話だけど、一時期、やたらAさんの家のチャイムが鳴ってたわね。時間? いえ、ばらばらだったと思うわ。とにかくしつこいの。連打するみたいに何度も何度も。こっちまで変になりそう」

「A一家とは直接関係がないと思いますが、お隣のUさんが『女に家を覗かれる』って言っていました。でも、Uさんってあんな感じでしょ。ご近所にも馴染んでないというか。え、チャイムですか。確かに鳴ってましたね。夕方から夜にかけてが多かったように記憶しています」

「チャイムを鳴らしていた人? さぁ。夜逃げみたいにいなくなったし、借金の取り立てじゃないの。声? いえヤクザ屋さんらしい声はとくには」

「はぁ、悪戯ですか? それにしては執拗でしたが……いいえ、そういうこともあるかもしれません。でもUさんの嫌がらせではないと思いますよ。あの方、ほとんど家から出ていらっしゃらないので」

 Uさんがどんな人かを聞いたが、それ以上は二人とも言いにくそうにしていた。
 A君の家族については、両親が共働きなのは少し珍しいが、ごく普通のご近所さん。という程度の認識だった。不在がちで子供の年齢も離れているので、母親同士の交流はあまりなかったそうだ。もう少し掘り下げて尋ねると「お花の先生だったお婆ちゃんが、早くに亡くなったのよね」「おだやかで素敵な方だったのにね」と返ってきたが、死因については二人とも言及しなかった。
 ちなみに二人ともB君の失踪については「むこうの街で、そんなこともあったかもしれない」くらいの反応で、さほど興味がないようだった。

 最後に筆者が白い女について聞くと、二人とも一瞬、ぴたりと止まった。

「まぁここら辺は、元は山の土地だから。山の女神さまは怖いっていうでしょう。でもあまり、その話はしないほうがいいですよ」

 別々に話を聞いたにも関わらず、二人はそれぞれそう締めくくった。


 バスの時間までまだある。町を歩きがてら、筆者は図書館に向かった。
 畑と住宅街が同居した、よくある田舎町だった。人通りはそれほど多くはない。よそ者が珍しいのか、すれ違う年寄りにはジロジロと見られたが、これもまぁよくある反応だ。
 図書館は小さかったが、郷土コーナーはそれなりに充実していた。図書カードが作れないので、明日にでもじっくり読むことにして、先に新聞コーナーを確認した。
 直近の夕刊を片端から捲り、高校生の失踪事件が無いか探す。二週間から一カ月も遡っていくと、それらしい記事を見つけた。