山の神様といえば女神様っていうのは知ってますか。
 正面に低い山と高い山が見えるでしょう。その手前の古い住宅街は、元は山林地でね。ようするに山を切って人里にしたんですね。だからこの辺りは地震に強いんですよ。

 でね、あの山や麓の町には、女の姿をした化け物が出るみたいよ。
 同業者にも夜に配車を頼まれて山に行ったら誰もいなかったとか、山の中で夕暮れ時に乗せた女が、町に着いた途端に消えていた、なんていう体験をした奴がいてね。

 えっ、私? ないない。昔っから鈍くてねぇ。車に魔よけのお守りぶら下げてる同業者はいるけど、そんなの無くても全然平気。まぁ怖がってたり、もしかしたら……なんて思ってる人の所には、そういうモノが寄ってくるんだろうねぇ。

 あぁ、女のお化けの話だったね。四辻の真ん中や橋の上に背が高くて髪の長い女が、ぼうっと立ってるらしいよ。目が合うと追いかけてくるとか。
 山の女神さまの住処を人間の都合で拓いたから、怒って出るんだって。昔からそういう土地だからって、年寄りは当たり前みたいに受け入れてるけどね。
 女神さまは気に入った人間を、連れてっちゃうらしいよ。特に子供が好きだとか。

 昔はこの辺り、特に山の麓では神隠しが結構あってね。私の弟の同級生にも、行方不明のまま帰ってきてない子がいるよ。
 どうしてるんだろうね、その子。
 名前? さぁ、なんだったかな。近頃、物忘れが酷くてねぇ。太郎とか、よくある名前だったと思うよ。
 あぁ、お化けの名前ね。さぁねぇ、お化けに名前とかあるかねぇ。えぇ、お岩さん? まぁ確かに名前だけど、ちょっと違うんじゃないですかねぇ。姑獲鳥? 知らないなぁ。悪いねぇ、あんまり詳しくないんですよ。

 そうだ「まさらさん」なんて言われてたな。子供の頃に噂になったんですよ。例の神隠し事件が起こるちょっと前だったかな。大人たちはそれはもう怖い顔してね。その話はするなって、箝口令まで敷かれたよ。
 当時、私は中学生だったんだけど、子供心に変な事になってるなって思ったよ。うっかり「まさらさん」なんて話をしたら殴られてね。小さい子たちは大そう怖がって、しばらくは集団下校が続いたんですよ。真っ青な顔で並んで俯いてね。

 そうそう思い出した。弟の同級生、お金持ちの子だったの。父親にお妾さんがいてね、流産したお妾さんが、死んだ子供のかわりに正妻の子供を攫って逃げたんじゃないかって、噂になってたな。流産をきっかけに捨てられてね。相当、恨んでたって話さ。お化けなんかよりさ、人間のほうが怖いよね。

 さぁ着いた。いいお湯だからゆっくりしてって。
山も近いし、まさらさんに遭わないようにね、なんて。

 そう言って車を出そうとした運転手を、筆者は引き留めた。宿泊手続きを済ませて荷物を置いてくるから、町に連れて行って欲しいと頼むと、快く了承してくれた。
 玄関戸を開けて民宿の中に入る。
 受付は無人だった。黒壇のカウンターの隅に呼び出し用らしい手振り(リン)が置いてあったので、手にとって鳴らす。

 薄暗い館内にリーンと澄んだ音が響いた。

 やや間があって、カウンターの奥の格子戸が音もなく開く。が、誰も出てこない。かわりに薄く開いた隙間から黒い瞳が覗き、左右に視線を巡らせた。
 
 なんだ、この動きは。

 筆者は思わず眉を顰めた。まるで何かを警戒しているようだ。てっきり鈴は従業員を呼び出すためのものだと思ったが、違ったのかもしれない。よく考えれば仏具の一種を呼び出し用にするのも、おかしな話だ。
内心落ち着かないでいると、藤色の着物を着た年配の女性がサッと出てきた。

「すみません、宿泊者の方でしたか? 私この民宿の女将の藤間(ふじま)と申します」

 愛想よく笑う藤間にホッとしつつ、筆者は名乗った。

「承っております。本日から四泊のご予定でしたね。すみませんね、こんなに早くいらっしゃると思わなかったので。お車でいらしたんですか」

「タクシーです。外で待ってもらって、また出かけようかと」

「あぁ、そうでしたか。いえね、車の音が聞こえなくってね。お出かけでしたらお荷物お預かりしますよ」

「お願いします」

「夕食は七時の予定ですが、遅らせましょうか?」
「いえ、大丈夫です」

「承知しました。では行ってらっしゃいませ」

 ニッコリと目尻に皺をよせる藤間に一礼し、筆者はタクシーに戻った。