その夜、奇妙な夢を見た。
 着物姿の優しそうな老婆に、少年が怯えた顔でなにかを訴えている場面から始まる夢だった。すぐにA君だとぴんときた。
 A君が話す恐ろしい出来事が、映像となって鮮明に浮かんでくる。そこでようやく、筆者はこれが夢だと気づいた。

 場面が変わる。筆者は本を読んでいる。原色の目立つ、チラシのような野暮ったい装丁の本で、小説とルポルタージュの間のような内容だ。挿入された白黒写真が目を引いた。
 平屋の日本家屋の前でシャツ姿の老人や男、短パンの少年に着物の老婆が並び、皆で何か長い物を持っている。白っぽい半透明で、太い棘のような突起が無数に生えている。
 大ムカデの抜け殻だ。少なくとも三メートルはあるだろう。写真に写る人たちは皆、おざなりに抜け殻を持ち上げ、険しい顔でカメラを睨んでいる。
 注釈がある。「昭和×年、○家にて、屋根裏より大ムカデの抜け殻見つかる」と書かれている。その下には新聞記事のような固い文体で、更に詳しい説明が載っていた。
 ここ数カ月、○家を中心に大地震が起こっており、その原因がこの大ムカデであるという内容だった。本体はまだ見つかっていないようだ。これも白い女の影響かと締めくくられている。

 気味の悪い話だと思いながら本を閉じたところで、目が覚めた。
 何とも奇妙な夢だ。恐らくA君の手紙の内容を脳が整理しようとして、こんな夢を見たのだろう。夢だけに支離滅裂な内容だが、A君の話を書籍化する際にネタに使えるかもしれない。
 夢の記憶は覚めると途端に失われていく。すぐにメモを取らなければ。

「あれっ」

 明かりを点けようと紐を引く。だが電気が点かない。一週間前に電球を替えたばかりなのにと思いつつ、暗闇の中、枕元のメモ帳に手を伸ばす。
 その時、視界を白いものが視界をよぎった。ぎょっとして目を凝らすと、パジャマ姿の母がこちらに背を向けて、ベッドのヘリに腰掛けていた。
 
 なぜ母が部屋に――。

 しばし思考停止に陥った。そのうち母が上半身ごと頭を回し始めた。そのたびに肩まで届く黒々とした癖髪が、ばさぁばさぁと音を立てる。
 ぐわん、ぐわんと倒れかけのコマのような動きだ。あまりに不可解な行動に、筆者は声を掛けるのを躊躇った。
 寝惚けているのだろうか……。
 それにしてもおかしな動きだ。見ているだけで目が回ってしまう。
 時刻は午前二時。普段ならとっくに自室で寝ているはずの母は、年をとって一層丸くなった体をぐわん、ぐわんと回し続けた。

 ばさぁ、ばさぁ。
 
 肩までの長さをしたボリュームのある黒々とした髪も一緒に揺れる。なぜか目が離せない。気味の悪い動きだ。本当に目が回ってきた。

「お母さん」

 声をかけて気づく。母の手には包丁が握られていた。
 筆者は反射的に息を殺した。変に刺激すれば、母が跳びかかってくるような気がした。母に殺されるかもしれない。冷や汗が背筋を伝った。
 どうすればいいか。
 考えているうちに母がピタリと動きを止めた。包丁を握ったまま、母はゆっくりと振り返る。見開いた目がぐらぐらと左右に揺れていた。口元は笑っている。 
 どう見ても異常だ。痴呆、発狂――不吉な熟語が脳裏を掠めた。

「寝惚けてるの? ここ私の部屋だよ」

 筆者は恐怖を押し殺して尋ねた。母の瞳がぐるんと正面を向く。

「えっ? あっ、間違えたごめーん」
 あはっと母が笑う。

「由美子ちゃん、しっぱーい」

 いい年をして言動が幼いのはいつものことだが、口元以外は無表情なのでかなり不気味だ。筆者はは握られたままの包丁を、じっと見つめた。

「失敗、しっぱい」

 母がするりと包丁を取り落す。呟きながら立ち上がり、母は半開きのドアから出て行った。包丁を握っていたことには気づいていない様子だった。

 殺されるかと思った。

 筆者は音をたてないようにドアを閉めると、一人脱力した。心臓がバグバグと音を立て、次から次に変な汗が浮かんでくる。
 もしかして、これも夢なのだろうか。
 考えてみれば、母が寝惚けて部屋に来るなんて初めてだし、妙に現実感が無い。メモを取ろうと起き上がったところからずっと、夢なのかもしれない。

 そうだ、夢だ。

 時々、現実とまごうほどリアルな夢を見る。遅刻しそうになる夢や仕事でとんでもない失敗をする夢、北朝鮮かはてまた宇宙人がミサイルを打ち攻め込んできた夢などやけにリアルだが、よく考えるとあり得ない夢。
 筆者は起きろと自分に命じた。だがいくら待っても状況は変わらない。うるさいくらいに弾む鼓動も、やけにリアルだ。おまけに尿意まで催してきた。
 夢で尿意を感じるだろうか。などと考えつつ暗い階段を下りる。その間も、もし母が認知症になっていたらと不安が募った。
 正直、金銭的にも労力的にも自分の世話だけで精一杯だ。母親の介護をしつつ生活を維持するなんてとてもできない。かといって、茶一つ自分で淹れられない父や、結婚して子供も小さい兄には頼れない。
 つまりは八方ふさがりだ。
 冷たい階段を踏みしめながら、急に生きていることが面倒になる。

 いっそ連れて行ってくれればいいのに。

 そこまで考えて作者はふと立ち止まった。
 一体誰に連れて行ってもらおうというのか。
ぶるりと悪寒が走った。考えるのはやめようと、軽く頭を振ってトイレのドアに手を掛ける。
 ドアを開けた瞬間どきんと心臓が跳ねた。暗闇の中、白い女がニタニタ笑っていたのだ。

「ひっ」

 悲鳴を上げ後ろに飛び退く。瞬きすると、女の姿は消えていた。

 次に気づいたのは、ベッドの上だった。レースのカーテン越しに射しこんだ白い朝日が、網膜を焼いた。
部屋のドアはいつも通り、きっちり閉まっていた。ベッドに落ちていた包丁も無い。
 どこからどこまでが現実だったのだろう。
 A君にまつわる夢も、それをメモしようとして部屋に母がいたのも、トイレで白い女を見たのも、全て夢だったのだろうか。

「ちょっと、肘ついてご飯食べないの」

 母に小言を言われながら、ぼんやりして焦がしてしまったトーストを齧り考える。
 もしかして昨夜の出来事は、警告なのかもしれない。これ以上、深入りしてはいけない。本能だか神様だかが、そう告げていたのだ。
 普段から怪奇現象に関する情報を集め、怪談を生活の糧にしているせいで、怪異について少々危機感が欠如してしまっている自覚はある。それを諌めよという警告だったに違いない。
 確かに怖かった。自分一人が恐ろしい目に遭うだけならまだしも、母親が狂ってしまったり、家族に害が及ぶとなれば話は別だ。
 だんだんと●●県に行かないほうがいい気がしてきた。前日キャンセルなら宿代も半額で済む。万が一全額払うことになっても、惜しい金額ではない。

 今ならまだ引き返せる。

 そんな言葉がだしぬけに浮かんだ。一方で、昨夜の出来事はただの夢で、勝手に恐怖を膨らませて怪談から逃げるなど、怪奇作家の恥だとも思った。
 
 結局は好奇心に負け、筆者は●●県に行った。
 後になって思えば、この上なく愚かな判断だった。あるいはすでに、何者かの意思に乗せられていたのかもしれない。
 今では踏み止まらなかったことを、明けぬ恐怖の中で後悔し続けている。

 ここまで読んでも、あなたはまだ引き返そうという気にはならないだろうか。

 今夜にでもあなたの周囲で奇怪な現象が起こり始めるかもしれない。交換したばかりの電球が点滅したり、部屋の温度が急に下がったり、やたらと家鳴りがしたり。
 誰もいない部屋を歩き回る音が聞こえてきたら要注意だ。じきに、彼女があなたの戸を叩くだろう。

 とんとんとん とんとんとん
 ピンポン ピンポン

 しつこく鳴り響く戸とチャイムに根負けして戸を開けたら終わりだ。
 白い女を見たらもう戻れない。彼女はとてもしつこい。