筆者は早晩にも、A君の住む●●県●●市を訪れると決めた。幸か不幸か、抱えている仕事は締め切りが一か月後の短編が一本と、雑誌の穴埋め用の細々したまとめ記事が数本、まだプロット段階でどこに頼まれたわけでもない長編が一本、つまりは暇だ。
早速、本屋で●●県の地図を購入して、明後日から四泊ほど宿を押えた。
次に某新聞社に電話して、●●県でここ一カ月以内に、中学生に関する事件が起きていないか問い合わせた。当然、答えはもらえず、定期購読の案内をされたので適当に濁して電話を切った。
荷造りは最低限の服とタオル類、カメラと取材ノート、これまでに届いたA君の手紙ぐらいだ。とはいえ準備しているうちに、外が暗くなってきた。
なんとなく嫌な天気だった。時折ごろごろと遠雷が響き、空の向こうが白く光る。
雨になる前に神社に魔除けの札をもらいに行こうと、筆者は踵の潰れたスニーカーに足を突っ込んだ。
「こんな時間にどこ行くの? 雨になるわよ」
「ちょっと神社まで」
渋い顔をする母から傘を受け取り、表に出る。
どんよりと曇った暗い夕暮れだった。俄か雨を警戒してか、通りには小学生はもちろん、夕食の買い出しに出かける主婦の姿も無い。淋しい通りを足早に行く。
いつもはしんと澄んだ神社の空気も、雨の気配に濁っていた。黒い葉っぱがザワザワと揺れているのが、なんとなく不気味だ。黒い竹林を今にも白い影が過る気がして、足元だけを見て歩く。
そういえば白い女は靴を履いているのだろうか。
ふと、そんなどうでもいい事が気にかかりだした。
服が白だからやはり白い靴なのか。白い靴なんて、スニーカーか上履きくらいしかパッと浮かばない。スニーカーを履いた女の幽霊なんて、なんだか間抜けだ。後はバレエシューズだが、それはそれでお上品すぎる。
そもそも幽霊に足はあるのだろうか。
日本の幽霊には古来、足が無いケースが多い。幽霊画を見ても着物姿の下半身の膝から下は、さっと刷毛で刷いたみたいに消えているのがスタンダードだ。
そんなどうでもいい事を考えながら歩いていると、背後から足音が聞こえた。
ぺたぺた ぺたぺた
石畳を誰かが背後から歩いてきている。音からして靴は履いていないようだ。
ああ、そうか裸足か。
筆者は一人納得した。きっと青白くてゴムみたいな質感の青黒い血管が走る足だ。と、妙に具体的な画まで浮かんでくる。
とたんに気味が悪くなって歩を速める。が、背後の足音も早くなる。
ぺたぺた ぺたぺた
ぺたぺたぺた ぺたぺたぺたぺた
足音はだんだん近づいてくる。
冷たい気配が肩のあたりをそっと撫でた。
石畳の道はまだまだ続いている。この神社、こんなに奥行きがあっただろうか。近所の神社が、たちまち見知らぬ異界に思えてくる。
足音の主に追いつかれたら、どうなるのだろう。
背筋を冷たい汗が伝い落ちた。
早く用事を済ませよう。走りださんばかりになりながら、神社で転んではいけないという古くからのタブーを、ふと思い出す。
なぜ転んではいけないのか。不吉な事が起こるとか、神様が機嫌を損ねるとか、そんな理由だった気がするが、思い出せない。寿命が縮むだったかもしれない。
ぺたぺたぺた ぺたぺたぺた
足音はすぐ後ろに迫っている。
筆者は走った。石畳をスニーカーの底で蹴り全力で前へ。だが思うように進まない。やたらと手足が重い。息が切れる。あまりにも久しぶりに走ったので、どうやら走り方を忘れてしまったようだ。
ぺたぺたぺた ぺたぺたぺた
ばさっ ばさぁっ
足音に合せて、布が翻るような音も聞こえてくる。
白い女が髪を振り乱して走っている姿が、脳裏をよぎった。
こんなの自家中毒だ。振りかえればきっと誰もいない。
だが、怖くて確かめられない。普段から怪談を生活の糧にしているのに、怪異は依然として怖い。
「大丈夫ですか?」
怪訝そうな声に、はっと我に返る。
顔を上げると社務所の屋根が見えた。巫女服の若い女の子が、きれいな弓なりの眉を潜めて筆者を見下ろしている。化粧気の薄い顔は、下手をすると高校生くらいに見える。きっとアルバイトだろう。
「大丈夫です」
木箱に並ぶ色とりどりのお守りや小物に視線を落とし、切れ切れに答える。
久しぶりに走ったせいか胸が酷く苦しい。心臓発作でも起こしそうだ。いい年した大人がはぁはぁ言いながらお守りを選ぶ姿は、さぞ滑稽だろう。苦笑いしつつ、魔よけと書かれた紫紺のお守りを手に取る。
「200円です」
素っ気ない声だった。顔も固い。ニコニコ笑えとは言わないが、デパートならまずクビだ。きっちり料金分を渡すと、私は不愛想なアルバイトに小さく会釈して踵を返した。
振り返る一瞬かなり緊張したが、当然のように白い女はいなかった。
木乃伊取りが木乃伊になってどうする。
一人ごち、足早に帰路を辿る。
「なぁに、急にバタバタして。旅行にでも行くの」
神社から帰ると、怪訝そうな顔をした母に尋ねられた。
「旅行じゃなくて仕事。ちょっと●●県まで行ってくる」
「なにが仕事よ、アンタのは遊びみたいなものでしょ。売れてないんだし、さっさと仕事探すか、結婚したら。従妹のMちゃんも、このあいだ結婚したでしょ。あんたより四つも若いのよ」
いつまでもアルバイトなんて嫌ね。お兄ちゃんはしっかりしてるのに。そう渋い顔をする母に、二十歳こえたら四歳差なんて誤差範囲だと言い訳しつつ、自分が留守の間、電気の消し忘れや戸締りに気をつけるよう釘を刺す。
母はそそっかしく、台所でボヤを出しかけたのも、鍵を開け忘れたのも一度や二度じゃない。
「そうだったかしら。あっ、お夕飯もう少しでできるから手、洗ってきなさい。あら、なんか焦げ臭いわ。きゃー」
芝居じみた悲鳴を上げながら、母がバタバタと台所に戻っていく。
母の用意してくれた夕食(メインディシュは黒焦げのサンマだった)をかきこむと、筆者は早々に床に就いた。
早速、本屋で●●県の地図を購入して、明後日から四泊ほど宿を押えた。
次に某新聞社に電話して、●●県でここ一カ月以内に、中学生に関する事件が起きていないか問い合わせた。当然、答えはもらえず、定期購読の案内をされたので適当に濁して電話を切った。
荷造りは最低限の服とタオル類、カメラと取材ノート、これまでに届いたA君の手紙ぐらいだ。とはいえ準備しているうちに、外が暗くなってきた。
なんとなく嫌な天気だった。時折ごろごろと遠雷が響き、空の向こうが白く光る。
雨になる前に神社に魔除けの札をもらいに行こうと、筆者は踵の潰れたスニーカーに足を突っ込んだ。
「こんな時間にどこ行くの? 雨になるわよ」
「ちょっと神社まで」
渋い顔をする母から傘を受け取り、表に出る。
どんよりと曇った暗い夕暮れだった。俄か雨を警戒してか、通りには小学生はもちろん、夕食の買い出しに出かける主婦の姿も無い。淋しい通りを足早に行く。
いつもはしんと澄んだ神社の空気も、雨の気配に濁っていた。黒い葉っぱがザワザワと揺れているのが、なんとなく不気味だ。黒い竹林を今にも白い影が過る気がして、足元だけを見て歩く。
そういえば白い女は靴を履いているのだろうか。
ふと、そんなどうでもいい事が気にかかりだした。
服が白だからやはり白い靴なのか。白い靴なんて、スニーカーか上履きくらいしかパッと浮かばない。スニーカーを履いた女の幽霊なんて、なんだか間抜けだ。後はバレエシューズだが、それはそれでお上品すぎる。
そもそも幽霊に足はあるのだろうか。
日本の幽霊には古来、足が無いケースが多い。幽霊画を見ても着物姿の下半身の膝から下は、さっと刷毛で刷いたみたいに消えているのがスタンダードだ。
そんなどうでもいい事を考えながら歩いていると、背後から足音が聞こえた。
ぺたぺた ぺたぺた
石畳を誰かが背後から歩いてきている。音からして靴は履いていないようだ。
ああ、そうか裸足か。
筆者は一人納得した。きっと青白くてゴムみたいな質感の青黒い血管が走る足だ。と、妙に具体的な画まで浮かんでくる。
とたんに気味が悪くなって歩を速める。が、背後の足音も早くなる。
ぺたぺた ぺたぺた
ぺたぺたぺた ぺたぺたぺたぺた
足音はだんだん近づいてくる。
冷たい気配が肩のあたりをそっと撫でた。
石畳の道はまだまだ続いている。この神社、こんなに奥行きがあっただろうか。近所の神社が、たちまち見知らぬ異界に思えてくる。
足音の主に追いつかれたら、どうなるのだろう。
背筋を冷たい汗が伝い落ちた。
早く用事を済ませよう。走りださんばかりになりながら、神社で転んではいけないという古くからのタブーを、ふと思い出す。
なぜ転んではいけないのか。不吉な事が起こるとか、神様が機嫌を損ねるとか、そんな理由だった気がするが、思い出せない。寿命が縮むだったかもしれない。
ぺたぺたぺた ぺたぺたぺた
足音はすぐ後ろに迫っている。
筆者は走った。石畳をスニーカーの底で蹴り全力で前へ。だが思うように進まない。やたらと手足が重い。息が切れる。あまりにも久しぶりに走ったので、どうやら走り方を忘れてしまったようだ。
ぺたぺたぺた ぺたぺたぺた
ばさっ ばさぁっ
足音に合せて、布が翻るような音も聞こえてくる。
白い女が髪を振り乱して走っている姿が、脳裏をよぎった。
こんなの自家中毒だ。振りかえればきっと誰もいない。
だが、怖くて確かめられない。普段から怪談を生活の糧にしているのに、怪異は依然として怖い。
「大丈夫ですか?」
怪訝そうな声に、はっと我に返る。
顔を上げると社務所の屋根が見えた。巫女服の若い女の子が、きれいな弓なりの眉を潜めて筆者を見下ろしている。化粧気の薄い顔は、下手をすると高校生くらいに見える。きっとアルバイトだろう。
「大丈夫です」
木箱に並ぶ色とりどりのお守りや小物に視線を落とし、切れ切れに答える。
久しぶりに走ったせいか胸が酷く苦しい。心臓発作でも起こしそうだ。いい年した大人がはぁはぁ言いながらお守りを選ぶ姿は、さぞ滑稽だろう。苦笑いしつつ、魔よけと書かれた紫紺のお守りを手に取る。
「200円です」
素っ気ない声だった。顔も固い。ニコニコ笑えとは言わないが、デパートならまずクビだ。きっちり料金分を渡すと、私は不愛想なアルバイトに小さく会釈して踵を返した。
振り返る一瞬かなり緊張したが、当然のように白い女はいなかった。
木乃伊取りが木乃伊になってどうする。
一人ごち、足早に帰路を辿る。
「なぁに、急にバタバタして。旅行にでも行くの」
神社から帰ると、怪訝そうな顔をした母に尋ねられた。
「旅行じゃなくて仕事。ちょっと●●県まで行ってくる」
「なにが仕事よ、アンタのは遊びみたいなものでしょ。売れてないんだし、さっさと仕事探すか、結婚したら。従妹のMちゃんも、このあいだ結婚したでしょ。あんたより四つも若いのよ」
いつまでもアルバイトなんて嫌ね。お兄ちゃんはしっかりしてるのに。そう渋い顔をする母に、二十歳こえたら四歳差なんて誤差範囲だと言い訳しつつ、自分が留守の間、電気の消し忘れや戸締りに気をつけるよう釘を刺す。
母はそそっかしく、台所でボヤを出しかけたのも、鍵を開け忘れたのも一度や二度じゃない。
「そうだったかしら。あっ、お夕飯もう少しでできるから手、洗ってきなさい。あら、なんか焦げ臭いわ。きゃー」
芝居じみた悲鳴を上げながら、母がバタバタと台所に戻っていく。
母の用意してくれた夕食(メインディシュは黒焦げのサンマだった)をかきこむと、筆者は早々に床に就いた。