翌朝、起きた時には、昴は(なぎ)の隣にいなかった。塾に向かった事を実里から聞き、梛は初めて昴が塾に通っている事と学校でも成績が良い優等生という事を知った。

 梛も、昴と同じ天才型タイプで小学生の時に中学のテキストをすらすら解いているような可愛げの無い子供だった。でも梛は昴と違って、本気を出してテストを受ける事はなくなった。
 この見た目のせいで、目をつけられやすかった梛は目立つと余計いじめられた。それを覚えてからは全て本気を出さずにそこそこの点数を出していた。
 その梛の頑張りのおかげで、梛は学校では平穏に過ごせていた。その平穏も学校だけだったのだが。



 りさに頼みこまれて梛は一日中みっちり、りさの勉強を見てやっていた。りさも飲み込みが早く、梛が教えた事をすぐ理解して着々と問題を解いていた。偏差値がそこそこ高い昴と同じ高校を志望校にしているから頭が良いというのは言うまでも無い。

 今日こそは帰りますと話すと、実里は少し残念そうに頷いた。

「いつでも来て良いからね」

「ありがとうございます、また来ます」

 簡単に会釈をして、昴の家を出た。りさはぶんぶんと大きく手を振り、実里も笑顔でお見送りしてくれる。あそこの家は暖かい家だなぁと、梛は独り言ちた。

 昴もりさも実里も思いやりがあって、その暖かさがやけに心地良い。
 出来る事ならずっとあそこに居たかった。ずっと、ああやって笑っていたかった。でもそれは叶わない。



 家が近くなるにつれて、段々気分が重くなる。
 梛は今、母方の叔父の家で暮らしている。叔父自身は梛を嫌ってはいないけれど、子供と奥さんからは嫌われていると思っていた。
 必要最低限しか話はしないし、ご飯だって別々。梛は通信制の高校に通いながら、暇な時間にはバイトを詰めて密かにお金を貯めていた。どうしても少しでも早くこの家から出て行きたかったから。

 アイスを食べながら廊下に出てきた兄弟の妹、佐藤心音が「うげ、帰ってきた……」と梛にあからさまに悪態をつく。そんな妹に向かって心の兄、佐藤和人は「こら、心。そんな事言わない」と優しく諭すように言った。

「だって、邪魔だもん。あいつはただの居候じゃん」

「父さんが受け入れたんだから、心も受け入れな」

 一見優しく見える和人なのに、実はこっちの方がタチが悪かったりする。心音の前では優しい兄を演じているものの梛の前では手のつけられない暴君だ。殴るでも蹴るでもなく、ただ言葉でグサグサ刺してくる。

 自分の心が傷ついていても他人からは見えない。だからこそ、梛は誰にも話せないままだった。そのことを和人に利用されているのかもしれない。
 


 着替えて自分のベッドに倒れ込むと、梛はすぐに和人の部屋に呼ばれて開口一番に「お前、相手しろよ」とニヤニヤした顔で指図された。

「は、?」

 自分の乾いた声が、静かな部屋の中に響く。

「女の子帰っちゃったから、お前が代わりになれよって事だよ」


 意味がわかっていないわけじゃなくて、何で俺がっていう『は?』だよ。
 ふざけんなよ、何で俺がそんな事しないといけないんだよ。心の中で口答えをする。


 片手で両頬をぐっと掴まれ、「見た目だけは綺麗なんだから」と顔を無理矢理近づけられる。

 そういう行為をする事には慣れていたのに。梛の心の中ではただ気持ち悪さだけが溢れていた。

 抵抗も許されないまま、梛は心を無にする事だけを考えた。
 心を無にすれば、何も感じないで良い。
 心を無にすれば、傷つかないで済む。

 だから、この気持ちは本当は無い物だと思おうとした。

——助けてほしい、なんて言えるわけ無い。