二話

 窓から差し込む光で目が覚める。
 くぁあ、と欠伸をする。体を伸ばした時には、いつもの体の重さはあまりなくなっていた。
 久しぶりにこんなにゆっくり眠れた気がする。
 今までは、眠りが浅いノンレム睡眠が続いていた。無意識に警戒していた環境だったからだろうか、わからないけど。
 ベッドに転がってすぐ、意識が飛んで一度も目を覚まさないまま寝こけていた。ふかふかの布団、フルーティーな甘い香りに包まれていつの間にか眠りの中だった。
 昨日が初対面の、他人の家だというのに、こんなにも油断しているなんて危機感が無いと自分でも呆れる。
 一緒にいて心地が良かったからつい、油断してしまっていたのだ。
 焼肉も奢ってくれて、歯ブラシも服も貸してくれて。何の文句も言われない。こんなに虫のいい話があるものなのかと疑っていたけれど、どうせ俺は殺されても、良いように使われても当然な存在なのだと思い出した。
 忘れてはいけない。沢山女の子を悲しませてきたことも、何度も泣かせて、叩かれてきたことも。
 金も無い、荷物も無いのだから昴に縋るしか方法は無いのだ。昴が良い人でも、悪い人でも。
 何の荷物も持っていないけど、唯一母さんの免許証だけはずっと手放せなかった。どれだけ傷つけられても、怖くても、子供は親の事を憎めない。まるで呪いみたいに。
 そういえば、ベッドの上に昴がいない。起き上がって、キョロキョロと見回したものの部屋の中にも、昴の姿は見当たらない。
「すばる……?」
 呼びかけてみるも、部屋の中はしんと静まったまま。スマホは無いし、連絡のしようもない。
 もしかしてまた……あの時と同じ事が起きたりしない、よな。嫌な予感が一瞬よぎった。心配したのも束の間、丁度「ただいまー」と玄関から帰ってきた音が聞こえた。
 ベッドから立ち上がって、ドアを開けると黒いナイロンジャケットを羽織った昴が靴を脱いでいる最中だった。
「あれ、梛? おはよ」
 昴の挨拶には何も返さず「どこ行ってたんだよ」と問う。すると昴は「え、うぅん……なんで言えば良いんだろ」と言葉を濁す。
「バイト?」
「いや、バイトではない」
「遊び、みたいな?」と続ける昴を見て、確信した。こいつ、俺と同類だ。
「お前とは仲良くなれない!」
 俺が敵意を向けても、昴は逆上してきたりしなかった。「えぇ? まぁ、それで良いよ」と軽く受け流されてしまっただけだった。

 俺が昴の家に住み始めてから、一週間が過ぎた。この一週間の間に色々あった。
 昴に連絡手段が無いと文句を言えば、タブレットで連絡を取ればいいと俺にタブレットをくれた。そのタブレットでバイトや仕事を探しているけれど、なかなか良い条件の仕事は見つからない。
 それに、面接に行ってもこんな髪色だと思わなかったと落とされるのだ。俺だって気にしているのに、なりたくて白髪になったわけじゃないのに。
 これだから人間は嫌いなんだ。女はこの顔見せたらホイホイ釣れるくせに、仕事となると話が変わってくる。 
 それでも、仕事を探す事ができるタブレットをくれて衣食住の保証をしてくれる昴には感謝している。些細な喧嘩は沢山するけれど。
 どっちが先にお風呂に入るか喧嘩した事もあるし、観たいテレビ番組の違いで喧嘩したこともあった。
 結局いつも、文句を言いながらも折れてくれるのは昴だ。なんだかんだ優しいのだ。
「梛ぃ、風呂入れー……ってあー!!? 俺の牛乳プリン!」
 しっとりした紅茶味のアイスを食べながら、その声を聞いて俺はハッとした。こんなに早くバレるなんて思ってなかった。ちゃんと洗ってゴミ箱の奥底に証拠隠滅したのに、昴のやつ、目ざとい。
「これくらい良いじゃん」
「何も良くない! 食べ物の恨みは怖いんだぞ!?」
 最後の一口を口に放って、空のアイスのカップをシンクに下げる。ベッドの上に戻ると、昴がタブレットを覗き込んでいた。嫌な予感がした。
 さっき見ていたのは仕事探し用のウェブサイトだったから。
「梛、仕事探してんの?」
 最悪だ、これもバレるなんて。早く稼いで、出て行こうと思って内緒にしていたのに。
 わざわざ嘘をついても取り繕える自信がない。無言で頷いたら、昴は「バーで働いてみないか?」と質問を続けた。
「バーって、あの酒の……しかないよな」
「そうそう! 興味無い?」
「ちょっと気になる」
「友達がバイト募集してて、もし良ければそこどうかなって」
 俺は、その言葉に甘える事にした。


 昴に連れられて、俺はそのバーに行く事になった。何でも、早いうちが良いという昴の意向だ。
 俺が頷いた時、昴は安堵したような嬉しそうな表情を浮かべた。きっと、この店の事もオーナーの事も大切に思っているんだろうな。そう思えるほどの感情がそこにはあった。
 昴に、俺がこれから働くかもしれない店の説明を受けた。店名は『夜凪』といって、コンセプトは『お悩み相談』らしい。お客さんと対話して、そのお客さんに合ったカクテルを提供するそうだ。
 そう話しているうちに、店に着いた。昴の家からそんなに遠くない場所にあるその店は、都心部の中にしては、あまりはっちゃけた騒がしい雰囲気ではない。想像よりも落ち着いた雰囲気の店だった。
 かと言って、古いわけでもない。綺麗に掃除されていて外のドアノブにも埃は一つもない。
 ドアを開けると、チリンと鈴の音がなる。昴は「風ー! 来たぞ!」と中に入る。
「わぁ、昴! ありがと!」
 店の中にいた、ふうと呼ばれる男の人はふわっと花が咲くように優しく笑った。笑い方と同じで顔立ちも優しそうだった。肩ほどまで伸びたサラサラした黒髪を後ろでちょこんと結んでいる。
「おぉー! 君が噂の梛くん? 僕はこの店のオーナーしてます。夜凪風です」
 風さんは、ズボンのポケットからケースを取り出した。丁寧に、名刺を渡して自己紹介をしてくれた。きっと、しっかりしたオーナーなんだろうなとそれだけでもわかる。
 風さんの似顔絵と、猫のイラスト。そして『夜凪風』と並ぶ三文字の漢字。可愛いデザインだな、とほっこりする。
 俺も「雨霧梛です」と簡潔に自己紹介をしておく。会釈すると、風さんはすぅーっと大きく息を吸った。
 少し淡白すぎたかな、なんて心配する必要はなかったみたいだ。
「流石昴、ナイスチョイス」
 ぐっと親指を立てる風さんに、昴は「だろだろ、お前一人で切り盛りするのも大変だしな」と偉そうに踏ん反り返る。偉そうなくせに、言っている事は優しい。ややこしいやつだ。
「先週はクリスマスだったのに、わざわざ呼び出してごめんな」
「良いんだよ、風だからいつだって呼び出される……って言いたいところだけど、大学の授業の都合もあってそうもいかないから梛に頼んだんだ」
 その言葉で、繋がった。昴は遊び歩いていた訳じゃなかったのだと確信した。先週、朝起きて昴がいなかったのは、ただ風さんの手伝いをしていただけだったのだ。
「梛くん、これからよろしくね!」
「はい」
「えーっと、いつから来れる?」
 簡単にそう言う風さんに驚かされた。この髪のせいでずっと面接に落ち続けていたというのに、風さんは俺の髪に気付いていないのだろうか。
「いつからでも……というか、採用なんですか?」
「え? うん」
「こんな真っ白な髪なのに……」
 そう言うと、風さんは「そんなの気にしないって! 僕だって髪伸ばしてるしさ」と笑い飛ばしてくれた。
 心が、じわっと暖かくなった。

 働き先が見つかった。これは全部昴のおかげだ。
 俺の事を拾ってくれたのも、俺と風さんを繋いでくれたのも。
「……ありがと」
 ぼそっと呟いたのに、昴には聞こえてしまったようだ。「えぇ、なんて?」と聞き返してきたけれど、ニヤニヤしているから聞こえていたのがよくわかる。
 本当に、聞こえてるくせに聞き返すのは良くない。それでも無視するわけにもいかない。俺は違う言葉で伝え直す事にした。
「今度お礼する……何が良い?」
 どういう形であれ、昴にはお礼をしなければならない。そう思っていた。でも昴の好きな物、嫌いな物、貰うと喜ぶ物。何も俺は知らない。
 それなら昴に決めてもらった方が、昴が喜ぶ物をプレゼントできる。そっちの方が随分と効率的だと思う。
「えっ、俺が決めるの?」
「うん」
 昴は考えて「えぇ……じゃあ、ピアスとか?」と言ってくれた。
 丁度、耳につけていたピアスが風に揺れた。
「こんなの、格好いいよな」
 昴は俺のピアスに触れて、そう言う。
 俺も、これはお気に入りだ。少し細長くて、黒っぽいけどよく見るとちゃんと模様があって。銀河に似たこのピアス。俺が初めて自分で稼いだ金で買った物。
 でも、もう同じ物を買う事は出来ない。これを売っているお店はもう、閉店してしまったからだ。
 それを昴に伝えると、まじかぁ、と少し残念そうに笑った。
「……っ、あげる!」
 どうしてか、昴のその顔が俺は嫌だった。俺は即座に左のピアスを外して、昴に手渡した。
 昴は、ぽかんとした後「本当に貰っていいの?」と再確認した。
「うん」
 俺の返事を聞くと昴は頷いて「そっか、ありがとな!」と俺の手からピアスを受け取った。昴は元々つけていたシンプルな黒いピアスを外してポケットに突っ込んで、左耳に俺のピアスをつけた。
「めっちゃ良いな!」
 そうやってはしゃいでいる昴は無邪気で、俺よりも身長は高いのに子供みたいに見えた。