君の匂いを知っている



 目の前に突然飛び出した男に驚いた梛は足を地面について自転車のブレーキをかける。滑ってきた男に見覚えがあった。

「あれ、風さん?」

 りさの恋人として、りさから紹介された夜凪風。海で初めて会って、今回二度目。風も梛に気付いて「おぉ、梛くん!」と明るく声を上げる。自転車を停めて、梛が手を差し出す。その手を取って、風は立ち上がった。

「丁度良かった、バイト探してる?」

「……は?」


 にこにこした風に向けて、梛は意味がわからず顔を顰めた。梛の顔を見て慌てたのか、風は慌てて説明をし出した。

 父親が開業して、バーを営んでいる事。夕方から夜にかけての時間帯でなかなかバイトが見つからずに、たった一人で店を回している事。だからお前がバイト探してる奴を見つけてこいと言われてしまった事。

 その説明もあり、ようやく梛は納得できた。
 今バイトしているのは、前住んでいた叔父の家からも近いコンビニだった。それで数日前に偶然、梛の従兄弟である男に遭遇してしまった。和人に家を出た事を咎められ、バイトが終わっても外で待ち伏せをしていた事が怖かった梛は店長に相談して今月いっぱいで辞めさせてもらう事になっていた。

 バイトを探さないと、と考えていた矢先のこの出来事。しかも、バー。
 梛の心にこの誘いはしっかり刺さった。



「いやー、助かったよ。父さん一人で回してくのは大変そうでさ、かと言って俺が手伝うって言ったら『お前は雰囲気に合ってないから嫌だ』なんて言われちゃうし」

「役に立てて良かったです」


 制服を手渡されて、スタッフルームで着替える。着替え終わって椅子に座ってマスターを待っていると優しげな雰囲気の男性が入ってきた。

「こんにちは。風の父親でマスターをしています。夜凪(やなぎ)(かえで)です。」

 楓は少し長めの黒髪を小さいお団子で束ねていた。目元も口元も優しさが伝わってくる少し風に似た雰囲気だった。

「風さんの友達で雨霧梛と言います。」

「助かるよ、梛くん。悪いけど、さっそく今日からお願いしても良いかな?」

「はい、わかりました」

 風に仕事内容を教わりながら、現実を忘れる程に梛はしっかり働いた。