君の匂いを知っている




「落ち着いた?」

 ぽんぽんと背中を優しく叩いてくれていた優しい昴の言葉に、梛は静かに頷く。
 泣き過ぎてくらくらになった頭を冷やしながら、ふと気付く。昴は、もう会えない梛の祖母と同じ温もりを持っていた。

 自分より少しだけ背が高いだけなのにどうしてか昴は自分よりもずっとずっと大きいように梛は感じた。
 懐かしくて、温かくて。そんな昴に、無意識に縋りたいと思ってしまった。

「お前、相当頑張ってきたんだよな? 多分、昔大変だったんだろ」

 黙ったままの梛に昴は咎めることなく続ける。「詳しくは、話したくないだろうから聞かないけど」と一線を引いた。
 たまに、話そうとも思っていないプライベートな話を聞いてくるようなデリカシーのない人間に会うこともあるけれど、昴はちゃんと自分の距離感をわかっている。

 そんな昴だったから、話してみても良いかな。梛はそう思って自分の過去を昴に話し出した。昴は時折、相槌を打ちながら静かに話を聞いてくれた。思い出したくも無いような、どろどろで真っ黒な過去。
 それなのに、その記憶は鮮明に頭にこびりついて、何年経っても離れない。
 もう二度とあの場所には帰りたく無いと思うほどのトラウマを植え付けられたのに、だ。

 朝起きるのが遅かっただけでパンッと頬に平手が飛んでくる。些細な事で、叩かれたり蹴られ、罵倒される。そんな家で育った梛は当然、怒っている母親の事が嫌いだった。

『あなたなんていなければよかったのに……!』涙ぐんだ母親の瞳は梛の事を本当に嫌っているように思えた。

 どうして俺は母さんに嫌われてしまったんだろう。
 どうして母さんには愛されなかったのだろう。
 何で俺がそんな事言われないといけないの?
 そんな事言うなら、産まなかったら良かったじゃないか。
 どうして母さんは父さんばかりで俺の事を愛してくれないの?
 俺は母さんに認められたくて、頑張ってきたのに。

 言いたい事は沢山あっても、梛はそれを一つも口に出す事ができなかった。
 殴られたって蹴られたって、どうしても母親の優しさを忘れられなくて、必死に耐えていた。
 あの時、撫でてくれた母親が戻ってくると信じて。

 機嫌が悪いと何もしていなくても手を出してくる母親とそれを叱らない、梛へ関心のかけらもない父親。
 母親は父親の事が好きだったから、梛の存在が邪魔だった。幼いながらに、そうわかっていた。

 今、考え直してみると相当過酷な環境だったのに、どれだけ殴られようが蹴られようが、当時は捨てられる事はないと信じ切っていた。
 それが梛の唯一の希望だったのだ。


 俺はサンドバッグと同じ存在なのだから、母さんがストレス発散に使う駒が無くなってしまったら困るから絶対捨てられない。
 でも、実際はそうじゃなかった。母さんは、本当に俺にいなくなって欲しかったのだとあの日知った。


 梛の母親は父親と一緒に、六歳にもなっていない梛を置いて蒸発した。
 梛が目を覚ました時、珍しく怒鳴り声が聞こえてこなかったから今日は機嫌がいいのかな?なんて少し嬉しくなって母親の姿を探していた。
 途中で明らかに物が少ない事に気がついてしまった。

 嫌な予感がして必死に家中を走り回っても、その姿はどこにも無い。リビングを覗いてみると、いつも散らかった部屋はもぬけの殻だった。母親の化粧品も、父親の仕事の資料も何も無い。

 あるのは、梛の私物と梛が昔画用紙に描いた母親への手紙。そして、忘れられた母親の昔の免許証。

 信じたくなかった、捨てられたなんて。梛は一日中母親の免許証を握って泣いて、泣いて泣き続けた。
 一日中泣き続けると喉も枯れ、何も食べていないから腹も減っていたのに、食べ物も飲み物もないから、もうここで死ぬのかもしれないと思った。

 意識が遠のきそうになってきた時に、ふっと思い出した母方の祖母の電話番号。梛は家の固定電話にそれを打ち込み、電話をかけた。


『た……け……! ば、ちゃ……』枯れ果てて、声にならない声だったと思う。それでもばあちゃんは気付いてくれた。梛ちゃん、すぐ行くねと言ってくれたばあちゃんの声に安心してすぐに倒れてしまった。もう立っていられなかった。
 ばあちゃんの匂い、温もり、ぽんぽんと叩いてくれる背中。ずっと我慢していたのに、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。わぁわぁとばあちゃんに縋りついて泣く俺の頭を撫でてくれた。
「大変だったね、よく頑張ったね」と。
 その言葉で、今までしんどかった思いが全て報われた気がした。


 梛は祖母に育てて貰えることになった。祖母の家で、二人きりで。祖母はもう定年退職していて、年金生活だったからあまり裕福な暮らしではなかった。それでも、梛は凄く幸せだった。

 梛は祖母が大好きで、祖母も梛に大好きと言ってくれる。それだけで良かった筈なのに。もうそれ以上は何も求めていなかったのに。


 ——神様は俺からばあちゃんを奪った。



 高校に入学して一週間程経った頃。
「ご家族の方ですか?」
 病院から電話がかかってきて、確認をされた。何度病院の人に聞き直しても、それは祖母の名前で間違いなくて。

 事故に遭ったらしい。居眠り運転をしていた車とぶつかったという事だった。居眠り運転をしていた運転手を恨もうとしても、運転手も祖母と同じでもうこの世にはいなかった。

 信じたくなくても、これが現実で。
 認めたくなくても、認めるしかなくて。
 それから梛は、空っぽだった。


 梛は、愛が欲しかった。祖母があの時からずっと注ぎ続けてくれていた愛は、もう貰えない。

 だから梛は、そういう行為をする事でしか、愛を供給する事ができなかった。俺の事好き?と聞いたら必ず好きだよと返ってくる。人の温もりを感じられるから満たされていく錯覚をした。

 梛は母親譲りのこの容姿のせいで、その相手には困らなかった。でも、そんな物で愛が埋まる筈もなく。強いて言うなら『空っぽの愛』だろうか。
 形はあっても中身は無い。だから足りない、足りないと貪欲に愛を求めていた。

 街中で、カップルを見た時に羨ましくなる。梛からすると愛してくれる人がいる事が、酷く羨ましかった。パーカーの袖を折って、あらわになっている昴の腕は俺と違って綺麗で、それもまた羨ましかった。

 しんどくなったら自分に当たる事しか出来ない自分が恥ずかしくて、消えてしまいたかった。
 傷見たよね。気持ち悪いでしょ、と自嘲的に言ったのに昴は首を振った。


「梛は綺麗だよ」

 綺麗なんて言葉、俺には無縁だ。顔面は整っていても、そのパーツパーツが気に入らない。この変わってしまった白い髪も、生まれつきのこの眼も。傷だらけの腕だって。

「は、はぁ? この白い髪だって、眼だって気持ち悪いよ」

「そう? 俺は好きだけど」

 鼓動が早く脈打って、昴から目を離せなかった。耳が熱を帯びて、心臓がキュッとなった。
 昴は、俺をいつだって助けてくれる、ヒーロー。

「でも、俺は愛されないよ」

「そんな事ないだろ」

「……じゃあお前がなってくれんの?」

 実際こういう人は愛してくれるわけがないと思っていた。適当に慰めるだけで、何もしてくれないと。

「いいよ」

「え……」

 昴は強く、でも優しく、戸惑う梛を抱きしめた。