君の匂いを知っている




 窓から差し込む光で目が覚める。くぁあ、と欠伸をする。体を伸ばした時、いつも叔父の家で目覚めた時に感じる体に纏わりつく気怠(けだる)さはなくなっていた。

 実里もりさも、突然やってきた梛を軽く受け入れてくれた。梛はベッドに転がってすぐ、意識が飛んで一度も目を覚まさないまま寝こけていた。ふかふかの布団と甘い香りに包まれていつの間にか夢の中に引き込まれていた。

「っわ!?」

 梛は布団の上で声を上げた。身体を起こすと、半裸の昴が髪をタオルでわしゃわしゃ拭いていたのだ。

「あ」

 やってしまった、みたいな顔をしてこっちを見てくる昴に「な、何で半裸?」と聞く。

「朝風呂してきたから」

 そう言えば、実里とりさが昴のルーティンについて話していた事を思い出した。
 昴は朝から風呂に入りたいが故に、五時に起きる。七時には支度を終えて、夜勤明けで疲れて寝ていてまだ実里が朝食を作っていなければ昴が作る。それがルーティン化しているらしい。

 丁度、梛が見たのは朝風呂が終わって出てきた所だった。

 梛はじーっと昴の身体を見て「……てか、筋肉あったんだ」と呟く。綺麗なスタイルだと一瞬見惚れてしまった事は絶対言えない。

「細マッチョだからな」

 素直に認めて褒めたく無かった梛は「自分で言うんだ、無理」なんて悪態をつく。
 すると「そっかそっか、無理かぁ……朝ごはんリクエスト聞こうと思ったけど、梛くんは要らないかな?」と昴はニコニコしながら近づいてきた。
 やばい、こいつ怒らせたら駄目なタイプだ。

「要る! 要ります! ごめんなさい!」と慌てて謝る。

「わかればよろしい、リクエストを受け付けましょう」と素直な謝罪に免じて許してもらえた。

「パン系が良い」

 そういえば、食パンいっぱい余ってるから消費しねぇとなぁ、なんて言いながら昴が鞄にテキストを詰めている。

「あ、そこ服置いてるから着替えな」

「……色々ありがと」

 ぼそっと呟いた梛の言葉は、昴には聞こえてしまったようだ。「えぇ、なんて?」と聞き返してきたけれど、ニヤニヤしているから聞こえていたというのがよくわかる。本当に、聞こえてるくせに聞き返すのは良くない。でも無視するわけにもいかない、と梛は違う言葉で伝え直す事にした。

「今度お礼する……何が良い?」

 どういう形であれ、昴にはお礼をしなければならないとは思っていた。何度も何度も助けてもらったり、優しくしてくれているから。本当ならサプライズで昴、りさ、実里全員に渡そうと思っていたけど好きな物、嫌いな物、貰うと喜ぶ物。何も梛は知らなかった。それなら昴に決めてもらった方が、喜ぶ物をプレゼントできる。その方が随分と効率的だと思う。

「えっ、俺が決めるの?」

「うん」

 要らないものをあげたって意味ないだろ、どうせお礼するなら貰って嬉しい物をあげたい。昴は考えて「えぇ……じゃあ、ピアスとか?」と首を捻った。

 丁度、梛の耳につけていたピアスが揺れた。

「こーゆーやつとか! 格好いいよな」

 昴は俺のピアスに触れて、そう言う。

 梛にとっても、これはお気に入りだった。少し細長くて、黒っぽいけどよく見るとちゃんと模様があって。銀河に似たこのピアス。梛が初めて自分で稼いだ金で買った物という背景もあった。
 でも、もう同じ物を買う事は出来ない。これを売っているお店はもう、閉店してしまったから。
 
 それを梛が伝えると、まじかぁ、と昴は少し残念そうに笑った。

「……っ、あげる!」

 どうしてか、昴のその顔が俺は嫌だった。残念そうな、寂しそうなそんな顔が。

 梛は即座に左のピアスを外して、無理矢理手渡した。昴は、ぽかんとした後「本当に貰っていいの?」と再確認した。

「うん」

 梛の返事を聞いた昴は頷いて「そっか、ありがとな!」とピアスを握りしめた。昴は元々こっそりつけていたシンプルな真っ黒なピアスを外してポケットに突っ込んで、左耳に梛のピアスをつける。

「めっちゃ良いな!」

 そうやってはしゃいでいる昴は無邪気で、梛よりも身長は高いのに子供のようだった。




 キッチンでランチバッグに、包んだサンドイッチを四つ詰める。スープジャーに昨日の夜ご飯の余りの実里特製の野菜がごろごろ入ったコンソメスープを注ぐ。

 朝ごはんの支度を終えた頃に「おはよ〜」とりさが目を擦りながら起きてきた。「りさ、起きるの遅くなったんじゃね?」と昴が口を出すとりさはむすっと不機嫌そうになる。

「余計なお世話だよ、間に合うもん」

「でもアイロンとかびっくりするくらい長ぇじゃん」

「お兄ちゃんが出るのが早いだけでしょ!……学校行きたく無いなぁ」

 言い返された昴は準備する手を止めて、「金曜で明日休みなんだから頑張れ。あと母さんと朝ご飯食べな」とラップをかけた皿を指差す。それを見たりさは、さっきまでの不機嫌そうだった顔をぱっと明るくした。

「わ、今日サンドイッチじゃん! やった!」

「梛のリクエストで作ったんだよ」

 昴が言うとりさは「ナイスチョイス過ぎる……」と梛にナイスの意味で親指を立てる。梛もりさに向かって同じポーズをする。

 リュックを背負い、ランチバッグを持って昴は「梛と一緒に行くからそろそろ出るわ」と梛の手を引く。

「わかった、いってらっしゃい!」

 ミルクコーヒーを片手に持つりさに「じゃーね、りさ」と手を振る。りさはにこっと嬉しそうに笑って「またね、梛くん!」と手を振り返した。



 靴を履きながら梛は「りさも言ってたけど、出るの早くない?」と聞く。

「梛の荷物とか取りに行かないとかなーって。最低限はあっても、教科書とかノートとか必要な物あんのかなーって」 

「……アリガトウゴザイマス」

 俺の為だったんだとびっくりしたのと気まずいのでカタコトになってしまう。正直、ありがたかった。着いてきてくれるんだ、という嬉しさもあった。
 それでも、その気持ちは昴に伝えられなかった。

 家を出てすぐに昴から「朝ご飯」と手渡される。半分に折られたトーストに、目玉焼きとウィンナーが入っている物をクッキングシートのような包み紙で包んである。

 包み紙を剥いで、トーストを口に運ぶ。口に入れて梛が初めに思ったのは、『口が幸せ』だった。豊富な種類が入った食材というわけでも特別な食材という訳でもないのに焼き加減も、味付けもマッチしていて凄く美味しかった。

「昴、調理師になれよ」

 梛の言葉に昴は「やだよ、もう進路決まってる」と笑って返した。

「へぇ、意外」

 昴は大学なんてどこでも良いんだろうなと勝手に思っていた。でもそうではなかったことがわかる。

「意外とはなんだ意外とは」

 昴のノリには乗らずに「……大学どこ行くの?」と聞く。質問ばっかりの梛に、昴は律儀に一つ一つ答えてくれる。全く怒ってこないし、首も突っ込んでこない。掴めないとは思いつつ梛は少しずつ昴に心を許していた。

「国公立の法学部かな」

「法学部!?」

 想定外の学部が出てきて梛はひゅっと息を呑む。昴がうるさ!?と言うのも気にせずに、オーバーに驚く。国公立の法学部なんて倍率が高いイメージなのに、昴は軽く言ってのけた。

「弁護士になるってこと?」

「まぁ、夢としてはそう」

 表情を変えずに話す昴を見ると、もう何も後悔がない進路なのだと理解出来た。本当に行きたいんだとわかるような、雰囲気を醸し出していた。

「え、高年収じゃん! 養って!」

「はぁ? やだよ」

「お願いお願い!」

 冗談のつもりだったけど、昴は「その時彼女がいなかったらなぁ」と許諾と取れるような発言をした。

——え、良いの?

 一瞬そう思ったけれど、よくよく考えてみれば高収入イケメンなんて需要しかないな。可愛い女の子選び放題じゃん。もしかしたら昴に養ってもらう方が倍率高いかも。



 昴の家から徒歩七分程の距離という近さにある梛の家。そんな事を言っているうちに、梛は家まで帰ってきてしまった。

 鍵が閉まっていたから、仕方なくインターホンを鳴らす。ピーンポーンという音が響き、ノイズが聞こえた後『はい、どちらさまでしょうか』と大人っぽい女の人の声。

「梛です……」

『はぁ……心、開けて来て』

 少し遠くで、えぇ、あたしが!?と嫌そうに言う幼い声。ダッダッダッと走ってくる音が聞こえて、ガチャッとドアが開いた。

「あんた、どこで何してたの……え?」

 ボブくらいの長さの髪をくるっと巻いた女の子が玄関から出て来た。梛の従兄弟にあたる存在である、心という名前の女の子。

 心は、昴の顔面に見惚れていたのか昴の顔面から目を離さない。綺麗な一重に右目の下にある涙ぼくろ。色白でスッキリした顔立ちの塩顔。絶対、一重が似合う男第一位になれると梛は確信していた。


「あの、連絡先交換したりって……」

「ん? あぁ、俺? 全然良いですよ」 

 自分の前に立って心へ笑顔を向ける昴の事が、梛は嫌だった。何で心なんかと連絡先を?とかどうしてそんなに愛想振り撒いてんだろ、とか。一度考え出すと靄がかかるように、どんどん暗い気持ちになっていく。心と昴がお互いの顔をじっと見つめているのが、なんだか気に入らなかった。胸の奥で何かがざわついて、梛はその感情を抑え込もうとした。

「委員長……何で梛と?」

 和人の声が聞こえるたびに、梛は無意識に身を固くする。和人はいつも、自分を見下すような目をしているから。心が玄関に出てきて、全然帰ってこなかったから見にきたんだろう。この家に帰りたくなくした一番の原因とその母親が。「ほら、早く家入れよ」と手を掴まれそうになる。

 手が震えて、心臓の音がうるさい。いやだ、こっちに来るな。
 不安が急に胸を締め付けて、梛は気づいた時には昴の制服をぎゅっと握りしめていた。自分でも驚くほど、震えていた。頭の中が真っ白になってしまった梛は何も口に出せなかった。口をぱくぱくさせても、声が出ない。

 昴は、梛の気持ちを理解しているかのように「大丈夫だよ、俺がいる」と優しく笑う。昴の言葉は、まるで全てを受け入れてくれるような優しさで溢れていた。その笑顔が、梛の不安をすぐに溶かしてくれた。

 耳元でこっそり昴に「梛って、恋人とかいなかったよな?」と聞かれる。

「うん……え?」

「ほら、梛。早く……!」

 和人は梛を連れ戻そうともう一度手を伸ばした。でも、兄の手が梛に届く事はなかった。その手を取ったのは昴だったから。