そのとき、図書館の戸が開く音がした。

「兄さん?」

そんなはずはないと分かっているのに、思わず口に出していた。

机の上の最低限の灯りしか付いていないため、目を凝らしても入ってきた人物の顔が見えない。
こちらへ歩いてくる靴の音が静けさに響いている。

ただ、学生服を着ているのでこの学校の男生徒であることは間違いなさそうだ。
寮の部屋以外では制服の着用が校則で定められている。


「よくこんな場所にいられますね。怖くないんですか」

男は楓子を確認するなりそう言った。

────誰かしら。こんな深い時間にここに来る人なんてこれまで一人もいなかったのに。

背が高く、端正な顔立ちのその男を楓子は知らない。
訝しげに見つめていたら、男はその胸元から生徒手帳を取り出し楓子に渡した。

天田(あまだ)(しん)です」

受け取った生徒手帳に目を落としながら、楓子は尋ねた。

「こんな夜中に、ここへは何の用で?」

「少し眠れなくて。だめでしたか?」

「いいえ。公共の場ですから。こちらこそ不躾にごめんなさい」

手帳を返すとき、ふと名前が目に入った。

「深…綺麗な名前ね」

楓子はその一言で深を見送るように、また医学書へと向き直した。

それでもその場に留まる深が楓子に問いかける。

「2年生の方ですよね」

深の呼びかけに楓子はゆっくりと振り向く。

「私をご存知ですか」

「いや、女生徒はやはり目立つので。私は1年なので後輩です」

男生徒が学生服を着用するのに対し、女生徒は藤色の着物に袴を履く。
1学年にほんの数名いるかいないかの女生徒は、全校的にとても目立った。

「お名前、お伺いしても?」

深から向けられる真っ直ぐな眼差しの気まずさに楓子はさっと目を逸らした。

「月見楓子」

逸らした先にあるガラス細工の中の砂はもうすっかり落ち切っていた。

深はその楓子の視線に自分の視線も重ねた。

「それは?」

「大切な人が贈ってくれた。これの、この砂が落ちる間、会いに来ると」

「砂時計」

「これ、すなどけいって言うの?」

「はい。砂時計」

「そうか。砂時計…知れてよかった。
砂時計を逆さにすると会いに来る、か。ふふ」

楓子は初めて聞く宝物の名前に微笑んだ。

「楓子さん。って呼んでもいいですか」

そして、深からの提案にまた微笑み、頷いた。