────話が違うじゃないか。
楓子は怒っていた。
けれど何より不安で心配で焦っていた。
いつも通り授業を受け、いつも通り食事を取り、弓未が眠るのを待ってから図書館にやってきたが、内心は焦っている。
今日は医学書を読んでいる場合ではない。
便箋を前にして書かなければならないことがあると思ったが、うまく言葉を組み立てようとすると却って何も伝わらない気がした。
いつもは開けたりしない図書館の窓に手をかけると、想像以上に重たい。
でもこの窓なら楓子の身一つくらい簡単に外に出せそうだった。
窓が開くと強い夜風が一気に図書館の中に入り込む。
袴の裾を踏まないように気をつけながら窓の桟に足をかける。
────よし、今なら抜け出せる。伝えたいことを伝えて、朝までに帰ってくれば大丈夫だ。
「何をしてるんですか!?」
よじ登る楓子の肩が大きな手につかまれ、背中から落ちる。
「深」
「見つかったら校則違反で退学ですよ!?」
落ちる楓子を深が身体全体で受け止めた。
楓子の細い身体を抱き上げ、無我夢中に責める。
楓子もまた、窓の外にばかり意識が向いていつものように図書館へ入ってくる深に気づかなかったのだ。
「だって、帰らなきゃ」
「なぜ!」
いつにない深の剣幕に楓子の焦りはしぼんでいく。
「だって、兄が…。
妖は、一度あの銃で撃たれればもう一生見ることはないとばかり…」
とある数年前のあの日、兄が見た妖を撃ってくれたあの人は確かに言ったのだ。
『大丈夫。これで撃ったから、もう苦しむことはない』
そう言って、カナリアが使う専用銃をしまいながら笑ってくれた。
これで兄は救われたのだと思った。
その英雄の背中が輝いて見え、心底憧れた。
「私には妖が見えない。
人の痛みが、見えない」
私は、あの人のようにはなれない。
今頃兄が妖を見ていたらどうしよう。
そう考えると居ても立っても居られなかったのだ。
楓子の瞳からつうと涙がこぼれた。
「だからって抜け出そうとするなんて危険ですよ」
「深はどうしてまたここに来たの?
私は見えないから平気なのに。規則だから?」
楓子は泣きながら訴えた。
深にはもう来ないでと、はっきり伝えたはずだった。
見える人間の恐怖心、それに共感できない自分が、楓子は許せなかった。
苦しかった。
深がどう返答をしようか迷っていたその時、窓の外から声が聞こえた。
「なんだ、誰か喧嘩でもしてるのか!」
「まずい、先生だ」
深が呟く。
窓を開け放ったまま大きな声を出してしまったからだ。
深は涙を流す楓子の手を取り、二人で本棚の陰にしゃがみ込んで身を潜める。
「なんで隠れたの?」
楓子が鼻をすすりながら尋ねた。
夜に図書館にいることは、特に禁止されていることではないのだ。
これから深はどうするつもりなのか、不思議そうに見つめる目が暗闇の中でキラキラ輝いている。
「わかりません。咄嗟に間違えました」
楓子のその目があまりに綺麗で、深は動揺し視線を逸らす。
楓子はその動きを見て、思いのほか自分たちの体が密着していることに気づき離れようと動いた。
「楓子さん」
楓子の思考がわかったのか深もゆっくりと体を動かした。
向き合う体を起こし立ち上がろうとしたその時だった。
深の腕が、楓子の体を包み込む。
抱きしめられていると理解するのに時間を要した。
「もう来ないくていいなんて、そんな寂しいこと言わないでください」
楓子の頭の中は一瞬で真っ白になる。
「すみません。もう少しこのまま」
しばらく、楓子は深の腕の中にいた。
開いた窓から吹き込む風の冷たさの中、その小さな空間だけ温かくて、不思議と安心していた。
近くに感じられる深の鼓動が耳に優しく響く。
「ううん、気にしないわ」
楓子が小さく答えると、深はゆっくりお互いの体を剥がした。
窓枠によじ登ったときについた埃をはたきながら、
楓子は深の方を向くことができなかった。
楓子は怒っていた。
けれど何より不安で心配で焦っていた。
いつも通り授業を受け、いつも通り食事を取り、弓未が眠るのを待ってから図書館にやってきたが、内心は焦っている。
今日は医学書を読んでいる場合ではない。
便箋を前にして書かなければならないことがあると思ったが、うまく言葉を組み立てようとすると却って何も伝わらない気がした。
いつもは開けたりしない図書館の窓に手をかけると、想像以上に重たい。
でもこの窓なら楓子の身一つくらい簡単に外に出せそうだった。
窓が開くと強い夜風が一気に図書館の中に入り込む。
袴の裾を踏まないように気をつけながら窓の桟に足をかける。
────よし、今なら抜け出せる。伝えたいことを伝えて、朝までに帰ってくれば大丈夫だ。
「何をしてるんですか!?」
よじ登る楓子の肩が大きな手につかまれ、背中から落ちる。
「深」
「見つかったら校則違反で退学ですよ!?」
落ちる楓子を深が身体全体で受け止めた。
楓子の細い身体を抱き上げ、無我夢中に責める。
楓子もまた、窓の外にばかり意識が向いていつものように図書館へ入ってくる深に気づかなかったのだ。
「だって、帰らなきゃ」
「なぜ!」
いつにない深の剣幕に楓子の焦りはしぼんでいく。
「だって、兄が…。
妖は、一度あの銃で撃たれればもう一生見ることはないとばかり…」
とある数年前のあの日、兄が見た妖を撃ってくれたあの人は確かに言ったのだ。
『大丈夫。これで撃ったから、もう苦しむことはない』
そう言って、カナリアが使う専用銃をしまいながら笑ってくれた。
これで兄は救われたのだと思った。
その英雄の背中が輝いて見え、心底憧れた。
「私には妖が見えない。
人の痛みが、見えない」
私は、あの人のようにはなれない。
今頃兄が妖を見ていたらどうしよう。
そう考えると居ても立っても居られなかったのだ。
楓子の瞳からつうと涙がこぼれた。
「だからって抜け出そうとするなんて危険ですよ」
「深はどうしてまたここに来たの?
私は見えないから平気なのに。規則だから?」
楓子は泣きながら訴えた。
深にはもう来ないでと、はっきり伝えたはずだった。
見える人間の恐怖心、それに共感できない自分が、楓子は許せなかった。
苦しかった。
深がどう返答をしようか迷っていたその時、窓の外から声が聞こえた。
「なんだ、誰か喧嘩でもしてるのか!」
「まずい、先生だ」
深が呟く。
窓を開け放ったまま大きな声を出してしまったからだ。
深は涙を流す楓子の手を取り、二人で本棚の陰にしゃがみ込んで身を潜める。
「なんで隠れたの?」
楓子が鼻をすすりながら尋ねた。
夜に図書館にいることは、特に禁止されていることではないのだ。
これから深はどうするつもりなのか、不思議そうに見つめる目が暗闇の中でキラキラ輝いている。
「わかりません。咄嗟に間違えました」
楓子のその目があまりに綺麗で、深は動揺し視線を逸らす。
楓子はその動きを見て、思いのほか自分たちの体が密着していることに気づき離れようと動いた。
「楓子さん」
楓子の思考がわかったのか深もゆっくりと体を動かした。
向き合う体を起こし立ち上がろうとしたその時だった。
深の腕が、楓子の体を包み込む。
抱きしめられていると理解するのに時間を要した。
「もう来ないくていいなんて、そんな寂しいこと言わないでください」
楓子の頭の中は一瞬で真っ白になる。
「すみません。もう少しこのまま」
しばらく、楓子は深の腕の中にいた。
開いた窓から吹き込む風の冷たさの中、その小さな空間だけ温かくて、不思議と安心していた。
近くに感じられる深の鼓動が耳に優しく響く。
「ううん、気にしないわ」
楓子が小さく答えると、深はゆっくりお互いの体を剥がした。
窓枠によじ登ったときについた埃をはたきながら、
楓子は深の方を向くことができなかった。


