新しい部屋に一人残され、突き出し廊下に出る。
 庭には立派な萩や桔梗が咲き誇っているが、生け垣ではなく壁が続いていた。
 今までいた部屋よりも広いが、詠に付けられた侍女などはいないので、逆に落ち着かない。

 ため息を一つ吐く。
 すると、一気に体から力が抜けていってしまった。

「……っ、ひ、っく」

 ずるずると体が床に吸い寄せられるように、頽れていく。
 頭が重く、背を伸ばすこともできない。
 腰が冷え冷えとする。
 足の指先から頭のてっぺんまで通っている何かが、ぷつりと途切れてしまい、まるで持ち主をなくした人形のようだ。

 大きな声を上げることもできず、は、は、と浅い呼吸を繰り返す。
 瞳からは涙が止まらない。
 腹の奥から、何かがこみ上げてきて、吐いてしまいそうな気がする。
 いっそ全てを吐き出し、捨て去れたら楽になれるのかもしれない。

「ひよ……ひよう……さま……」

 詠への手紙で告げられた名前。
 彼のことは、後ろ姿と、力強い腕、そして唇に触れた大きな指先しかしらない。
 それでも。

「それでも、私はお慕いしておりましたのに……」

 所詮、下賤の者と思っての戯れだったというのだろうか。
 衣の絹糸を渡したのも、手紙をくれたのも。

 もしかしたら。

 もしかしたら、神に伺う儀式まではそれでも詠のことを、真実想ってくれていたのかもしれない。
 だが。
 その神が、そして彼が、選んだのは蓉花だったのだ。

「神にまで、見放され、裏切られたということなのね」

 ぽつりと口にすると、まるで目の前が暗黒の世界になったかのように、光を失う。
 ただただこぼれ落ちる涙は、彼女の頬を伝い、これまで着たことのないような美しい着物に染みこんでいく。
 鮮やかで艶やかな色の着物も、今の詠にとっては無意味で無価値なものに感じていた。

 体中の水分が干からびてしまうほど泣ききり、詠は冷たい床の上で体を横たわらせる。
 そこから見えるのは、飛陽と交流をしていた生け垣のある庭先ではなく、冷たく外界と遮断する塀。
 庭には、白い花も咲いておらず、どこか冷え冷えとした空気が止まっている。

 瞳を閉じる。
 いつの間にか、月が昇ってきていた。
 月光は、詠の体に降り注ぎ、彼女の閉じた瞼を照らす。

 その光に、詠は体をピクリと動かした。
 ゆるりと起き上がり、月を見上げる。
 泣きはらした赤い目は、まるで月から降りてきた兎のようだ。

「私は何を、夢見ていたのか」

 口から零れた声は低い。

「お母さまから、そして祖先から、私が受け継いだものを守らねば」

 上に羽織っていた着物を脱ぎ、裾を引きずることのない丈の着物だけになると、庭に降りる。
 月の光を浴びた詠は、まるで高貴な姫のように美しい。

「許すものか、陽の一族。私を虐げ、私の母を拐かし、私の祖先を殺戮し。そして今なお、私を駒とする陽の一族の当主を」

 思い出す。
 母から託されていたことを。
 体の中の何かがざわめく。
 一族の復興を、と。

 そして。

 胸の奥の苦しみに蓋をする。
 この気持ちを忘れてしまえ、と──。