飛陽の訪れなかった昨夜は、雨が降った。
「ちょうど良かったのかもしれないわね」
雨の中、馬を走らせて欲しいとは思わない。
それも夜だ。危険でしかない。
「それにしても、今日は何か騒がしいわね」
洗濯物を干し終えて、台所へ入ったところで、当主の大きな声がした。
「詠! 詠を呼べ!」
その大声に、体が一瞬竦んでしまう。
すぐに気を取り直し、当主のいる主寝殿へと向かった。
手前の突き出し廊下で手を突き、声がかかると中に入る。
中には父の左右に北の方と蓉花が座っていた。
その前まで進み、両手を突き、頭を床に付ける。
「おお、良く来た。実は蓉花に婚姻の申し込みが来てな」
「ふふ。どなたからだと思う?」
「──さて、私には想像も付きませぬ」
(誰でも良いわ。この屋敷から、嫌味な彼女がいなくなるのであれば)
詠はそう思っても、口には当然出さない。軽く眉を上げ、心の中でため息を吐いた。
許しがでていないので、顔も上げられないのだ。表情をどう浮かべても、ばれやしない。
「そうよね。お前のような者では想像も付かない程の、高貴な方よ。ねぇ、お父さま」
「ああ。お相手は陰陽司宮家のご当主、飛陽さまだ」
その名を聞いた途端、詠は気が遠くなりそうになった。
だが、ここで倒れるわけにはいかない。
丹田に力を入れ、体を、そして涙を堪えさせる。
「それでな。すぐにでも輿入れをということで、三日後に祝言を挙げる」
「そ、それは急なことにございますね」
「ああ。神言が降りたと言うことでな。なんでも、飛陽さまが娶る相手を神に伺ったそうだ」
当主の言葉に、詠は飛陽が言っていた「儀式がある」という発言を思い出す。
(そうか。あの『儀式』とはそういうことだったのか)
「その席に、詠も同席させる」
「お父さま?! こんな下賤の者をですか!」
「そうですよ。旦那さま。何故そんな」
当主のその言葉は、二人とも初めて聞いたようで、左右から彼を責め立てる。
だが、肝心の当主はにたりと笑った。
「詠、面をあげよ」
「はい」
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、詠の母である桂に良く似た、美しい面差しがあった。
「我が家も、陰陽司宮家の繋がりを持つのだ。今このタイミングで、どこぞの大臣の妾にでも出せば、我が家の利となろう」
太ましい指先で顎をかきながらそう言う当主の顔は、おぞましい何かのように見える。
「まぁ! それは良いことだわ。こんな娘、これ以上この家に置いておきたくもありませんもの」
「お母さまの言うとおりね。詠も良かったわね。きっとお前をかわいがってくれる、趣味の悪い男に召し抱えられるでしょうよ」
妾という言葉が気に入ったらしい蓉花は、満面の笑みで詠を見下ろした。
「三日後までにこの娘を磨いておけ。この薄汚いままでは、商品価値が足りないからな」
近くにいた侍女に声をかけると、年嵩の侍女頭は心得たとばかりに動き出し、詠をこの場所から連れ出していった。
そうして、詠は当主たちが入る大きな風呂に連れて行かれ、体中を磨かれる。
髪の毛を洗った後は、椿油を塗り込められ、体にはヘチマ水をたっぷりはたかれた。
顔の毛剃りをされ、花の香りのする水で保湿されると、今度は指先にどろりとした液体をかけられた後に、幾重もの布で包まれてしまう。
「詠さま、具合はいかがでしょう」
初めて侍女に敬称を付けて呼ばれ、驚いた顔を見せる。
「これより先、当家の姫君として遇するように、との指示をいただいております。部屋も、西の対の屋へと移動となりますので、そのおつもりで」
「えっ」
「なにか不都合でも?」
「い……いえ」
ぎろり、と見られれば、それ以上の言葉はでない。
姫として遇するのではないの? などと言いたくもなるが。
(でも──そうよね。結局飛陽さまが選んだのは、神さまがあの方の妻にとお選びになったのは、蓉花なのだから。あの部屋にいたところで、飛陽さまはきっと、二度といらっしゃらないわ)
詠がそう思っている間にも、どんどんと衣装を着付けられていく。
これまで着たことのないような、肌触りの着物。
つるりとしたこれは──絹。
「とても……軽いわ」
「これまでお召しになっていたのは、木綿でございますでしょう」
絹の着物と木綿の着物では、肌触りも重さも全く違う。
けれど、それは同じ枚数を着たときだけだ。
「……軽い布も、重ねると重くなるのね」
複数枚を着込ませられると、それなりに重くなる。
それでも、着た分だけ暖かくなるのだ。
だんだんと夜が寒い日になってきていた。寒さから抜けられるのであれば、ありがたいものだ。
「さぁ。荷物は西の対の屋へと移動してあります。この後はお部屋でお過ごしください」
どうやら食事も、蓉花たちと同じものが食べられるらしい。
ただし、共に食べることはなく、詠は自室で食べなければならないらしいが。
「その方が気が楽だし良かったわ。まともに食事ができて、暖かいと思いながら眠れるなら、もうそれだけで十分」
そう言う詠の瞳には、悲しみが浮かんでいた。
「ちょうど良かったのかもしれないわね」
雨の中、馬を走らせて欲しいとは思わない。
それも夜だ。危険でしかない。
「それにしても、今日は何か騒がしいわね」
洗濯物を干し終えて、台所へ入ったところで、当主の大きな声がした。
「詠! 詠を呼べ!」
その大声に、体が一瞬竦んでしまう。
すぐに気を取り直し、当主のいる主寝殿へと向かった。
手前の突き出し廊下で手を突き、声がかかると中に入る。
中には父の左右に北の方と蓉花が座っていた。
その前まで進み、両手を突き、頭を床に付ける。
「おお、良く来た。実は蓉花に婚姻の申し込みが来てな」
「ふふ。どなたからだと思う?」
「──さて、私には想像も付きませぬ」
(誰でも良いわ。この屋敷から、嫌味な彼女がいなくなるのであれば)
詠はそう思っても、口には当然出さない。軽く眉を上げ、心の中でため息を吐いた。
許しがでていないので、顔も上げられないのだ。表情をどう浮かべても、ばれやしない。
「そうよね。お前のような者では想像も付かない程の、高貴な方よ。ねぇ、お父さま」
「ああ。お相手は陰陽司宮家のご当主、飛陽さまだ」
その名を聞いた途端、詠は気が遠くなりそうになった。
だが、ここで倒れるわけにはいかない。
丹田に力を入れ、体を、そして涙を堪えさせる。
「それでな。すぐにでも輿入れをということで、三日後に祝言を挙げる」
「そ、それは急なことにございますね」
「ああ。神言が降りたと言うことでな。なんでも、飛陽さまが娶る相手を神に伺ったそうだ」
当主の言葉に、詠は飛陽が言っていた「儀式がある」という発言を思い出す。
(そうか。あの『儀式』とはそういうことだったのか)
「その席に、詠も同席させる」
「お父さま?! こんな下賤の者をですか!」
「そうですよ。旦那さま。何故そんな」
当主のその言葉は、二人とも初めて聞いたようで、左右から彼を責め立てる。
だが、肝心の当主はにたりと笑った。
「詠、面をあげよ」
「はい」
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、詠の母である桂に良く似た、美しい面差しがあった。
「我が家も、陰陽司宮家の繋がりを持つのだ。今このタイミングで、どこぞの大臣の妾にでも出せば、我が家の利となろう」
太ましい指先で顎をかきながらそう言う当主の顔は、おぞましい何かのように見える。
「まぁ! それは良いことだわ。こんな娘、これ以上この家に置いておきたくもありませんもの」
「お母さまの言うとおりね。詠も良かったわね。きっとお前をかわいがってくれる、趣味の悪い男に召し抱えられるでしょうよ」
妾という言葉が気に入ったらしい蓉花は、満面の笑みで詠を見下ろした。
「三日後までにこの娘を磨いておけ。この薄汚いままでは、商品価値が足りないからな」
近くにいた侍女に声をかけると、年嵩の侍女頭は心得たとばかりに動き出し、詠をこの場所から連れ出していった。
そうして、詠は当主たちが入る大きな風呂に連れて行かれ、体中を磨かれる。
髪の毛を洗った後は、椿油を塗り込められ、体にはヘチマ水をたっぷりはたかれた。
顔の毛剃りをされ、花の香りのする水で保湿されると、今度は指先にどろりとした液体をかけられた後に、幾重もの布で包まれてしまう。
「詠さま、具合はいかがでしょう」
初めて侍女に敬称を付けて呼ばれ、驚いた顔を見せる。
「これより先、当家の姫君として遇するように、との指示をいただいております。部屋も、西の対の屋へと移動となりますので、そのおつもりで」
「えっ」
「なにか不都合でも?」
「い……いえ」
ぎろり、と見られれば、それ以上の言葉はでない。
姫として遇するのではないの? などと言いたくもなるが。
(でも──そうよね。結局飛陽さまが選んだのは、神さまがあの方の妻にとお選びになったのは、蓉花なのだから。あの部屋にいたところで、飛陽さまはきっと、二度といらっしゃらないわ)
詠がそう思っている間にも、どんどんと衣装を着付けられていく。
これまで着たことのないような、肌触りの着物。
つるりとしたこれは──絹。
「とても……軽いわ」
「これまでお召しになっていたのは、木綿でございますでしょう」
絹の着物と木綿の着物では、肌触りも重さも全く違う。
けれど、それは同じ枚数を着たときだけだ。
「……軽い布も、重ねると重くなるのね」
複数枚を着込ませられると、それなりに重くなる。
それでも、着た分だけ暖かくなるのだ。
だんだんと夜が寒い日になってきていた。寒さから抜けられるのであれば、ありがたいものだ。
「さぁ。荷物は西の対の屋へと移動してあります。この後はお部屋でお過ごしください」
どうやら食事も、蓉花たちと同じものが食べられるらしい。
ただし、共に食べることはなく、詠は自室で食べなければならないらしいが。
「その方が気が楽だし良かったわ。まともに食事ができて、暖かいと思いながら眠れるなら、もうそれだけで十分」
そう言う詠の瞳には、悲しみが浮かんでいた。