翌日の昼間も、詠はいつもと変わらずに働いた。
それでも、夜になれば飛陽が訪れるかもしれないと思うと、これまでの辛さは少し減ったような気がする。
──あくまで少しではあるけれど。
「お姿を拝見したことはないけれど、とても美しい方と聞いたことはあるのよね」
手紙に書き付けてあった名前。
もしかしたら、名を騙る別の人間かもしれないが、さすがに帝の次に偉い人間の名だ。
危険を冒してまで、その名を騙ることはないだろう。
「ううん、それでも構わない」
母の他に、初めて詠の歌を褒めてくれた人。
もっと歌を聴きたいと、言ってくれた人。
例え相手が、本物の『陰陽司宮 飛陽』でなくても、詠にとっては関係がなかった。
むしろ本物ではない方が、現実的ですらあると思っている。
午後の繕い物を進めながら、詠は空を見上げた。
今日はどうやら、少し雲が多い。
「雨にならなければ良いけれど──」
昨夜見た影は、騎馬している姿だった。
雨の中、こんなにも奥まった場所に来るのは難儀なことだろう。
月の神に誓ったのだ。彼は来ないわけにはいかない。
ならば、できるだけ安全に、穏やかに来て欲しいと思うのは、自然なことだ。
などと、詠は自分で自分を弁護している。
「あと少しで、陽は月に変わるわ」
雲の向こう側にいるであろう太陽は、大きく傾き、夕暮れを示していた。
屋敷はどうやら宴会らしく、夜の支度にざわめいている。
そうした宴会の時には、詠は部屋にいるように指示をされていた。
貴人の前にうっかりとその姿を出させないためであろう。
「お前の売り時は、儂が決める」
以前、大上段からそう父──当主に言われたことを思い出し、苦い表情を浮かべる。
(もしも本当に、陰陽司宮家のお方ならば)
──私を、ここから攫ってくれないだろうか。
詠は希うように、空を見る。
朝焼けと夕焼けは似ているようで違う。
自らの命が満たされるような気持ちになるのは、夕焼けだ。
夜は月の一族の時間だから。
やがて夜の帳が下りる頃。
屋敷の表側では大規模な宴が催されていた。
華やかな音楽に、歌声。
笑い声に、楽器の音。
月に一度は催されるそれは、この神楽陽歌家が家格としては最底辺ではあるが、気概はそうではないと誇示したい当主の思惑だ。
(くだらない)
数百年前に、陽の一族の当主が月の一族を滅ぼした。
それにより、当時の陽の一族の当主は斬首。そして神楽陽歌家は神楽家の分家の中で、一番下の家格にまで落とされた。
(それでも、家が残っているだけ良いじゃない)
詠は月を見上げる。雲に隠れその向こう側に、僅かに光を広げていた。
(月の一族は、私だけ。誰も、いないんだもの)
「月の雫が 降りる夜に」
緩やかに口ずさむと、ゆっくりと雲が月から離れていく。月の光が辺りを照らす。
やがて生け垣の向こうの気配に、気が付いた。
近くに駆け寄り、詠は声をかける。
「あなた様は」
「しっ。ここでは名を口にせず」
飛陽の言葉に、頷く。
(確かに──誰が聞いているかわからないものね)
「また、歌を聴かせて頂けて嬉しいです」
「先ほどのは、歌にもなりません」
「いいえ。姫が言葉を音に乗せるだけで、それはもう歌なのです」
それは、詠にとって何よりもの褒め言葉だった。
一族があったのならば、世が世であるのならば、詠は神楽月歌家の姫として、神への歌を納める立場だ。
それは、音に乗せる言葉全てが神に捧げられる儀式で、歌を許可されると言うこと。
「……ありがとうございます」
消え入りそうな声で、涙を堪え返す。
その瞬間。
月の光を遮るように、雲が覆い被さり、一瞬の闇が訪れた。
がさり、と生け垣の隙間に飛陽が手を入れる。
生け垣のすぐ近くにいた詠は、その手に身を囚われた。
飛陽の腕が、詠の頬に触れる。
詠の冷たい頬はけしてふくよかではなく、それでも触れる肌は、男のものとはまるで違う柔らかさがあった。
「あ……」
彼の人差し指が、唇をそっとなぞる。
詠の唇からは、小さな声が漏れた。
ゆっくりと雲が再び動き、光が戻る。
それにあわせ、飛陽も名残惜しげに手を引き抜く。
「すまない。強引なことをするつもりではなかったのだが」
「いいえ……」
詠の唇に触れた指先は硬く、大きなものだった。
屋敷の下男と話すことはあっても、手が触れあうことなどは勿論ない。
詠にとって、飛陽の手は初めて触れた男の手だ。
心音が大きく、聞こえてしまうのではないかと不安になる。
それを打ち消すためにも、と詠は唇を開いた。
「星月夜に 煌めくひかりの 遠き夜は」
詠の歌声に呼応するように、ざぁと風が吹き、金木犀の香りが立ちこめる。
甘いその香りが満ちると、詠はうっすらと笑った。
煌々と灯る月明かりに、飛陽は今夜も手紙を書き付ける。
それを生け垣に忍ばせると、詠もまた白い花に銀色の糸を巻き付けて渡す。
「明日は儀式があり、来れない。けれどまたすぐに。来れない間も、あなたを想っている」
「想ってくださるだけで、嬉しゅうございます」
生け垣の内と外で、二人は向かい合う。
姿は見えども、気配は感じ合っているのだ。
「どうぞ、良き夜をお過ごしになって」
「あなたも」
飛陽の気配が消えるまで見送ると、詠は手紙を開く。
月明かりの下で読む手紙には、詠の歌を褒め称え、そして彼女を想っているという言葉が綴られていた。
「どうぞ、迎えに来てください」
詠の呟きは、まるで月の一族の呟きのようだった。
それでも、夜になれば飛陽が訪れるかもしれないと思うと、これまでの辛さは少し減ったような気がする。
──あくまで少しではあるけれど。
「お姿を拝見したことはないけれど、とても美しい方と聞いたことはあるのよね」
手紙に書き付けてあった名前。
もしかしたら、名を騙る別の人間かもしれないが、さすがに帝の次に偉い人間の名だ。
危険を冒してまで、その名を騙ることはないだろう。
「ううん、それでも構わない」
母の他に、初めて詠の歌を褒めてくれた人。
もっと歌を聴きたいと、言ってくれた人。
例え相手が、本物の『陰陽司宮 飛陽』でなくても、詠にとっては関係がなかった。
むしろ本物ではない方が、現実的ですらあると思っている。
午後の繕い物を進めながら、詠は空を見上げた。
今日はどうやら、少し雲が多い。
「雨にならなければ良いけれど──」
昨夜見た影は、騎馬している姿だった。
雨の中、こんなにも奥まった場所に来るのは難儀なことだろう。
月の神に誓ったのだ。彼は来ないわけにはいかない。
ならば、できるだけ安全に、穏やかに来て欲しいと思うのは、自然なことだ。
などと、詠は自分で自分を弁護している。
「あと少しで、陽は月に変わるわ」
雲の向こう側にいるであろう太陽は、大きく傾き、夕暮れを示していた。
屋敷はどうやら宴会らしく、夜の支度にざわめいている。
そうした宴会の時には、詠は部屋にいるように指示をされていた。
貴人の前にうっかりとその姿を出させないためであろう。
「お前の売り時は、儂が決める」
以前、大上段からそう父──当主に言われたことを思い出し、苦い表情を浮かべる。
(もしも本当に、陰陽司宮家のお方ならば)
──私を、ここから攫ってくれないだろうか。
詠は希うように、空を見る。
朝焼けと夕焼けは似ているようで違う。
自らの命が満たされるような気持ちになるのは、夕焼けだ。
夜は月の一族の時間だから。
やがて夜の帳が下りる頃。
屋敷の表側では大規模な宴が催されていた。
華やかな音楽に、歌声。
笑い声に、楽器の音。
月に一度は催されるそれは、この神楽陽歌家が家格としては最底辺ではあるが、気概はそうではないと誇示したい当主の思惑だ。
(くだらない)
数百年前に、陽の一族の当主が月の一族を滅ぼした。
それにより、当時の陽の一族の当主は斬首。そして神楽陽歌家は神楽家の分家の中で、一番下の家格にまで落とされた。
(それでも、家が残っているだけ良いじゃない)
詠は月を見上げる。雲に隠れその向こう側に、僅かに光を広げていた。
(月の一族は、私だけ。誰も、いないんだもの)
「月の雫が 降りる夜に」
緩やかに口ずさむと、ゆっくりと雲が月から離れていく。月の光が辺りを照らす。
やがて生け垣の向こうの気配に、気が付いた。
近くに駆け寄り、詠は声をかける。
「あなた様は」
「しっ。ここでは名を口にせず」
飛陽の言葉に、頷く。
(確かに──誰が聞いているかわからないものね)
「また、歌を聴かせて頂けて嬉しいです」
「先ほどのは、歌にもなりません」
「いいえ。姫が言葉を音に乗せるだけで、それはもう歌なのです」
それは、詠にとって何よりもの褒め言葉だった。
一族があったのならば、世が世であるのならば、詠は神楽月歌家の姫として、神への歌を納める立場だ。
それは、音に乗せる言葉全てが神に捧げられる儀式で、歌を許可されると言うこと。
「……ありがとうございます」
消え入りそうな声で、涙を堪え返す。
その瞬間。
月の光を遮るように、雲が覆い被さり、一瞬の闇が訪れた。
がさり、と生け垣の隙間に飛陽が手を入れる。
生け垣のすぐ近くにいた詠は、その手に身を囚われた。
飛陽の腕が、詠の頬に触れる。
詠の冷たい頬はけしてふくよかではなく、それでも触れる肌は、男のものとはまるで違う柔らかさがあった。
「あ……」
彼の人差し指が、唇をそっとなぞる。
詠の唇からは、小さな声が漏れた。
ゆっくりと雲が再び動き、光が戻る。
それにあわせ、飛陽も名残惜しげに手を引き抜く。
「すまない。強引なことをするつもりではなかったのだが」
「いいえ……」
詠の唇に触れた指先は硬く、大きなものだった。
屋敷の下男と話すことはあっても、手が触れあうことなどは勿論ない。
詠にとって、飛陽の手は初めて触れた男の手だ。
心音が大きく、聞こえてしまうのではないかと不安になる。
それを打ち消すためにも、と詠は唇を開いた。
「星月夜に 煌めくひかりの 遠き夜は」
詠の歌声に呼応するように、ざぁと風が吹き、金木犀の香りが立ちこめる。
甘いその香りが満ちると、詠はうっすらと笑った。
煌々と灯る月明かりに、飛陽は今夜も手紙を書き付ける。
それを生け垣に忍ばせると、詠もまた白い花に銀色の糸を巻き付けて渡す。
「明日は儀式があり、来れない。けれどまたすぐに。来れない間も、あなたを想っている」
「想ってくださるだけで、嬉しゅうございます」
生け垣の内と外で、二人は向かい合う。
姿は見えども、気配は感じ合っているのだ。
「どうぞ、良き夜をお過ごしになって」
「あなたも」
飛陽の気配が消えるまで見送ると、詠は手紙を開く。
月明かりの下で読む手紙には、詠の歌を褒め称え、そして彼女を想っているという言葉が綴られていた。
「どうぞ、迎えに来てください」
詠の呟きは、まるで月の一族の呟きのようだった。