陰陽司宮家の主寝殿では、飛陽がぼんやりと月をが眺めていた。
側には乳兄弟で随従の純郷が、じっと彼を観察している。
「純卿、そんなに俺を見るな。穴が空く」
「少しくらい空いた方が良いのです。どうするのですか、かの女性を」
手元に置かれた猪口を手にすると、純卿はすぐに近付き徳利を傾けた。
心地よい音が等間隔で鳴り、酒が注がれていく。
「月光玉石が、彼女の歌に共鳴しているんだ。彼女が俺の相手だろう」
「主様はどうも、その月光玉石を言い訳にしているようにしか見えないのですが」
純卿の言葉は、言外にもっと素直に話せと告げている。
それに気付いた飛陽は、苦笑いを浮かべた。
「二十も生きてきて、初めて胸が苦しくなったんだ」
「へぇ。それは病で」
「分かっているんだろ」
「何の病か、ということをわかっておりますよ」
うんうん、と何度も頷く純卿に、飛陽は飲み終えた猪口を胸元に向けて緩く投げつける。
狩衣の膨らみでぽさりと跳ね落ちたそれは、コロコロと円を描きながら、ゆっくりと動きを止めた。
「お前はそういうことは、経験が?」
「妻がおります」
「そうだったな。やはり病になったのか、お前も」
純卿は半年ほど前に、親戚筋の娘と婚姻を結んだ。
政略結婚と言えばそうだが、お互い会ってすぐに恋に落ちたという。
「大病でしたけどね。共に過ごせる日々は、恋という病をすぐに愛情という特効薬が癒やしてくれました」
「羨ましいことだ」
おや、と純卿は思う。
飛陽の立場であれば、正妻でなければいくらでも召し抱えることは可能だ。
すぐにでも、かの家に連絡を取り娘を召し上げてしまえば良い。
それをしない、ということは、正妻にしたいのか、それとも恋を楽しみたいのか。
はたまた──。
「彼女は、俺の半身かもしれないんだ。きちんと手順を踏まねばなるまい」
「では、儀式を?」
「ああ」
近くにあった紙の束に手を伸ばす。
そこには日付と何事かの書き付けが、びっしりとされていた。
飛陽が年の初めに神に問い、一年の内にいつなにをすべきかを纏めたものだ。
これが、歴代当主の中でも、飛陽のものは出来が良いと言われている。
「明後日だ。そこで儀式を行う」
転がった猪口に手を伸ばせば、純卿が拾い上げ酒を注いで手渡す。
受け取り、空を見上げた。
黄色い月が浮かぶ。
「このあと、朝に手紙を届けるのはどうだろうか」
「さすがにそれは辞めてください。かの姫君が、知らぬ間に男を通わせたと、あの家の当主に誤解されてしまいます」
男女の仲を初めて成した後は、男が朝手紙をしたためる。
最初の夜を過ごし、朝日が上がる前に男は褥を去り、朝日と共に手紙を持ち再び訪い女を起こす。
それがこの国の習慣だった。
「彼女の指先が、ガサガサだったんだ」
「そんなまさか。姫君でしょう?」
「ああ。だが、本当に」
飛陽は言いつのるが、しかし暗い夜のことだ。
手を繋いだわけでもないので、気のせいかもしれない。
「彼女が何も難儀していなければ良いが……」
「本当に、初めての恋をした男とは、かくも無様な発想しかできないのですね」
「お前、主君に対して失礼じゃないか?」
「主を諫めるのも、私の役割ですからね。それにしても」
純卿は、改めて飛陽を見る。
いつもと変わらずに、澄ました顔で少しだけ腹が立つ。
「あなたは、普段は素晴らしい才を見せて、人をひれ伏させるくせに」
歴代の中でも天才陰陽師と呼ばれている飛陽は、半身である月の能力を手に持たずに生まれてきた。
陽の──太陽の能力は溢れんばかりに持つ彼だが、当主としては陰陽、つまり月の力と太陽の力の両方を持っていないといけない。
陰陽司宮家の当主はそうして両方の力を得て生まれてくるのだ。
だが飛陽は、太陽の力を月の力の分まで取り込んだのか、恐ろしいほどの陽の力を得て生まれてきた。
反面、一切の月の力をその身に宿しはしていなかった。ただ、生まれたその手には、月光玉石と後に呼ばれる、月の力を秘めた宝石を持って母の胎から出てきたのだ。身の中に力を持たない代わりに。
「その月光玉石は、月の力が十二分に込められている」
「何が言いたい」
純卿の言葉に、飛陽はじろりと彼を見る。
「あなたのお相手になる女性がどんな方でも、その月光玉石があれば、何の問題もないでしょう」
「気になったのはこの石がきっかけだが、今は」
「わかっておりますよ。ええ、この純卿は十二分にね」
だからこそ、早く手を回すべきだと言いたいのだろう。
月光玉石は間違いなく、彼女の歌声に反応していたのだ。
「儀式の結果を、違うことはないでしょうね」
「当然だ。俺を誰だと思っている」
「そういうところですよ。才があるから許されますが、才があるからこそ、腹立たしい」
くつくつと笑い合いながら、飛陽は詠から貰った白い花に口づける。
その瞬間、花びらが銀色に輝いた。
「今の、見たか?」
「確かにこの目で。やはりあの姫は」
「だからこそ、俺の気持ちを先に伝えておきたい」
力で手に入れるのではなく。
彼女にも望まれたい。
飛陽は、愚かにもそう思ってしまった。
この国の、帝の次に権力を持っている男であるのに。
恋に悩む姿は、ただの一人の弱い人間だ。
「笑ってしまうだろ。さっきだって本当は──」
詠との僅かな時間の、生け垣越しの逢瀬に、思いを馳せる。
本当ならば、今すぐにでも生け垣をかき分けて、彼女の姿を確認したい。
抱きしめたい。
できることならば、攫っていきたい。
そう心が、体が、叫んでいた。
その衝動をどうにか抑え、彼女を怯えさせないよう、できる限り穏やかに、言葉を伝える。
自分の中に、そんな激情があるだなんて、飛陽は知りもしなかった。
手元の猪口には、空にあがる月が映る。
それを一息に飲み込んだ。
「あぁ。月を飲み込んでも、あなたを飲み込むことはできないのか」
呟く飛陽の言葉に、純卿は曖昧な表情を浮かべる。
(ずいぶんと面倒な男になったものよ)
遅い初恋に悩む乳兄弟の姿に、純卿はこの男の恋の成就を静かに祈ったのだった。
側には乳兄弟で随従の純郷が、じっと彼を観察している。
「純卿、そんなに俺を見るな。穴が空く」
「少しくらい空いた方が良いのです。どうするのですか、かの女性を」
手元に置かれた猪口を手にすると、純卿はすぐに近付き徳利を傾けた。
心地よい音が等間隔で鳴り、酒が注がれていく。
「月光玉石が、彼女の歌に共鳴しているんだ。彼女が俺の相手だろう」
「主様はどうも、その月光玉石を言い訳にしているようにしか見えないのですが」
純卿の言葉は、言外にもっと素直に話せと告げている。
それに気付いた飛陽は、苦笑いを浮かべた。
「二十も生きてきて、初めて胸が苦しくなったんだ」
「へぇ。それは病で」
「分かっているんだろ」
「何の病か、ということをわかっておりますよ」
うんうん、と何度も頷く純卿に、飛陽は飲み終えた猪口を胸元に向けて緩く投げつける。
狩衣の膨らみでぽさりと跳ね落ちたそれは、コロコロと円を描きながら、ゆっくりと動きを止めた。
「お前はそういうことは、経験が?」
「妻がおります」
「そうだったな。やはり病になったのか、お前も」
純卿は半年ほど前に、親戚筋の娘と婚姻を結んだ。
政略結婚と言えばそうだが、お互い会ってすぐに恋に落ちたという。
「大病でしたけどね。共に過ごせる日々は、恋という病をすぐに愛情という特効薬が癒やしてくれました」
「羨ましいことだ」
おや、と純卿は思う。
飛陽の立場であれば、正妻でなければいくらでも召し抱えることは可能だ。
すぐにでも、かの家に連絡を取り娘を召し上げてしまえば良い。
それをしない、ということは、正妻にしたいのか、それとも恋を楽しみたいのか。
はたまた──。
「彼女は、俺の半身かもしれないんだ。きちんと手順を踏まねばなるまい」
「では、儀式を?」
「ああ」
近くにあった紙の束に手を伸ばす。
そこには日付と何事かの書き付けが、びっしりとされていた。
飛陽が年の初めに神に問い、一年の内にいつなにをすべきかを纏めたものだ。
これが、歴代当主の中でも、飛陽のものは出来が良いと言われている。
「明後日だ。そこで儀式を行う」
転がった猪口に手を伸ばせば、純卿が拾い上げ酒を注いで手渡す。
受け取り、空を見上げた。
黄色い月が浮かぶ。
「このあと、朝に手紙を届けるのはどうだろうか」
「さすがにそれは辞めてください。かの姫君が、知らぬ間に男を通わせたと、あの家の当主に誤解されてしまいます」
男女の仲を初めて成した後は、男が朝手紙をしたためる。
最初の夜を過ごし、朝日が上がる前に男は褥を去り、朝日と共に手紙を持ち再び訪い女を起こす。
それがこの国の習慣だった。
「彼女の指先が、ガサガサだったんだ」
「そんなまさか。姫君でしょう?」
「ああ。だが、本当に」
飛陽は言いつのるが、しかし暗い夜のことだ。
手を繋いだわけでもないので、気のせいかもしれない。
「彼女が何も難儀していなければ良いが……」
「本当に、初めての恋をした男とは、かくも無様な発想しかできないのですね」
「お前、主君に対して失礼じゃないか?」
「主を諫めるのも、私の役割ですからね。それにしても」
純卿は、改めて飛陽を見る。
いつもと変わらずに、澄ました顔で少しだけ腹が立つ。
「あなたは、普段は素晴らしい才を見せて、人をひれ伏させるくせに」
歴代の中でも天才陰陽師と呼ばれている飛陽は、半身である月の能力を手に持たずに生まれてきた。
陽の──太陽の能力は溢れんばかりに持つ彼だが、当主としては陰陽、つまり月の力と太陽の力の両方を持っていないといけない。
陰陽司宮家の当主はそうして両方の力を得て生まれてくるのだ。
だが飛陽は、太陽の力を月の力の分まで取り込んだのか、恐ろしいほどの陽の力を得て生まれてきた。
反面、一切の月の力をその身に宿しはしていなかった。ただ、生まれたその手には、月光玉石と後に呼ばれる、月の力を秘めた宝石を持って母の胎から出てきたのだ。身の中に力を持たない代わりに。
「その月光玉石は、月の力が十二分に込められている」
「何が言いたい」
純卿の言葉に、飛陽はじろりと彼を見る。
「あなたのお相手になる女性がどんな方でも、その月光玉石があれば、何の問題もないでしょう」
「気になったのはこの石がきっかけだが、今は」
「わかっておりますよ。ええ、この純卿は十二分にね」
だからこそ、早く手を回すべきだと言いたいのだろう。
月光玉石は間違いなく、彼女の歌声に反応していたのだ。
「儀式の結果を、違うことはないでしょうね」
「当然だ。俺を誰だと思っている」
「そういうところですよ。才があるから許されますが、才があるからこそ、腹立たしい」
くつくつと笑い合いながら、飛陽は詠から貰った白い花に口づける。
その瞬間、花びらが銀色に輝いた。
「今の、見たか?」
「確かにこの目で。やはりあの姫は」
「だからこそ、俺の気持ちを先に伝えておきたい」
力で手に入れるのではなく。
彼女にも望まれたい。
飛陽は、愚かにもそう思ってしまった。
この国の、帝の次に権力を持っている男であるのに。
恋に悩む姿は、ただの一人の弱い人間だ。
「笑ってしまうだろ。さっきだって本当は──」
詠との僅かな時間の、生け垣越しの逢瀬に、思いを馳せる。
本当ならば、今すぐにでも生け垣をかき分けて、彼女の姿を確認したい。
抱きしめたい。
できることならば、攫っていきたい。
そう心が、体が、叫んでいた。
その衝動をどうにか抑え、彼女を怯えさせないよう、できる限り穏やかに、言葉を伝える。
自分の中に、そんな激情があるだなんて、飛陽は知りもしなかった。
手元の猪口には、空にあがる月が映る。
それを一息に飲み込んだ。
「あぁ。月を飲み込んでも、あなたを飲み込むことはできないのか」
呟く飛陽の言葉に、純卿は曖昧な表情を浮かべる。
(ずいぶんと面倒な男になったものよ)
遅い初恋に悩む乳兄弟の姿に、純卿はこの男の恋の成就を静かに祈ったのだった。