「そのお声は、先日の」
詠は慌てて、庭に出る。
月の光が柔らかく広がり、生け垣の隙間から見える地面には、男の影が伸びていた。
馬に乗ってきたのであろう。馬の影と、その手綱を持つ男の影。
それが二対見える。片方は、従者だろうか。
慌てたせいで、庭に少しだけ土埃が立った。
素足で履いた下駄が、土で汚れる。
(生け垣があって良かった。こんなみっともない姿、お見せしたら、がっかりさせてしまう)
自らの足下を見る。
常時裸足なので足の爪が汚れ、丈の短い着物のせいで、くるぶしが丸見えだ。
貴族女性は、くるぶしが見えるなどみっともないと言われて当然で、普段から裾を長くとり足下を隠す。
詠のそんな不安な気持ちなど、男には当然伝わることもない。
生け垣の向こう側から、少し低い男の声が聞こえた。
「もしよろしければ、また歌って貰えないだろうか」
「ええ……喜んで。どのような歌をご所望で」
あのような良い絹糸を、狩衣に縫い付けているということは、彼は身分が高い者なのだろう。
詠はそう感じていた。
けれど、そんなことはどうでも良く、自分の歌を聴きたいと言って貰えている。
そのことだけで、心が満たされていった。
「できれば、月を称える歌を」
「月を」
ここが神楽陽歌家の屋敷であることは、わかっているだろう。
その上で、男は陽を称える歌ではなく、月を称える歌を所望した。
「月影の 草木の影の 光を求め」
ゆったりとしたペースで、歌い上げる。
男──飛陽はその歌声を聞きながら、手にしている月光玉石をじっと見ていた。
その石は震え、そして銀色にうっすらと光っている。
瞳を閉じると、詠の歌声が心に、体に染みこんでいく。
風が小さくそよぎ、まるで歌の伴奏のように、木々の葉が音を鳴らした。
「やはり……」
小さく呟くと、再び手紙に文字を書き付けた。
詠の歌が終わると、その手紙を生け垣に差し込む。
それを引き抜いた詠は、すぐに言葉を返す。
「今日は少々お待ちを」
すぐに去ろうとした飛陽は、その言葉に立ち止まった。
再び風が、柔らかく吹く。
「あの……これをどうぞ」
手紙の返事を書き付けるような紙を、詠は持っていない。
けれど、己の気持ちをどうにか伝えたくて、庭に咲く小さな白い花を一輪。
その茎に、繕い物で使っていた銀糸をそっと巻いた。
生け垣の中から差し出された花を受け取ると、ちらりとひび割れた指先が目にとまる。
けれどこの場でそれに触れることは、礼儀に反する行為になってしまう。
「ありがとう。嬉しい」
今宵の手紙には、飛陽は自らのことも書き付けた。
素性の分からない男からの手紙など、気持ちが悪いと思われると考えたのだ。
その手紙を見る前に、詠は花に銀糸を巻いて手渡してくれた。
銀糸は『月の神に誓う』という意味。そして、この白い花は『私を見つけて』という意味を持つ。
「姫君。あなたの歌声は、本当に美しい。まるで月の神の化身のようだ」
「畏れ多いことを。けれど、そのお言葉は私の光です」
生け垣の向こう側で、詠が笑った。
飛陽には、それが見えないはずなのに、何故だかまるで姿が見えたかのように、伝わる。
「明日」
「え?」
「明日も訪れて良いだろうか」
この国の夜は暗い。
貴人がそう易々と暗がりに出歩くことは難しい。こう言っても、実際は来ないかもしれない。
それでも、男がそう告げてくれることに、詠は目を見張り、そして驚きはすぐに喜びに変わった。
「もしも、あなた様が厭わないのであれば、私の歌を明日もまた」
「約束をしよう。あの月に誓って」
太陽や月に誓うことは、この国では神に誓うことと同等だ。
それに何かを返そうかと詠が口を少しだけ開いたところで、飛陽はさらに言葉を重ねる。
「また明日。どうかそれまで息災で」
「──あなた様も」
詠は、生け垣に近付く。
隙間から、今度は彼の姿がしっかりと見れないかとのぞき込んだ。
飛陽とその随従である純郷が馬に乗り去って行く後ろ姿だけが見える。
(あの方は、私のことをこの家の姫と思っているのでしょうね)
確かに姫なのかもしれないが、少なくとも当主を始め家人誰もが、そうは思っていない。
都合良く手駒にするためだけに、生きながらえさせているのだ。
(私が月の一族の血を繋ぐために生きていくのであれば、どうせなら、あの方の御子を生みたい)
渡された手紙には、伽羅の香りがする。
月明かりの下でその文を開けば、詠は小さく悲鳴を上げそうになった。
「陰陽司宮家飛陽……さま……って、陰陽司宮家のご当主さまじゃない」
詠は慌てて、庭に出る。
月の光が柔らかく広がり、生け垣の隙間から見える地面には、男の影が伸びていた。
馬に乗ってきたのであろう。馬の影と、その手綱を持つ男の影。
それが二対見える。片方は、従者だろうか。
慌てたせいで、庭に少しだけ土埃が立った。
素足で履いた下駄が、土で汚れる。
(生け垣があって良かった。こんなみっともない姿、お見せしたら、がっかりさせてしまう)
自らの足下を見る。
常時裸足なので足の爪が汚れ、丈の短い着物のせいで、くるぶしが丸見えだ。
貴族女性は、くるぶしが見えるなどみっともないと言われて当然で、普段から裾を長くとり足下を隠す。
詠のそんな不安な気持ちなど、男には当然伝わることもない。
生け垣の向こう側から、少し低い男の声が聞こえた。
「もしよろしければ、また歌って貰えないだろうか」
「ええ……喜んで。どのような歌をご所望で」
あのような良い絹糸を、狩衣に縫い付けているということは、彼は身分が高い者なのだろう。
詠はそう感じていた。
けれど、そんなことはどうでも良く、自分の歌を聴きたいと言って貰えている。
そのことだけで、心が満たされていった。
「できれば、月を称える歌を」
「月を」
ここが神楽陽歌家の屋敷であることは、わかっているだろう。
その上で、男は陽を称える歌ではなく、月を称える歌を所望した。
「月影の 草木の影の 光を求め」
ゆったりとしたペースで、歌い上げる。
男──飛陽はその歌声を聞きながら、手にしている月光玉石をじっと見ていた。
その石は震え、そして銀色にうっすらと光っている。
瞳を閉じると、詠の歌声が心に、体に染みこんでいく。
風が小さくそよぎ、まるで歌の伴奏のように、木々の葉が音を鳴らした。
「やはり……」
小さく呟くと、再び手紙に文字を書き付けた。
詠の歌が終わると、その手紙を生け垣に差し込む。
それを引き抜いた詠は、すぐに言葉を返す。
「今日は少々お待ちを」
すぐに去ろうとした飛陽は、その言葉に立ち止まった。
再び風が、柔らかく吹く。
「あの……これをどうぞ」
手紙の返事を書き付けるような紙を、詠は持っていない。
けれど、己の気持ちをどうにか伝えたくて、庭に咲く小さな白い花を一輪。
その茎に、繕い物で使っていた銀糸をそっと巻いた。
生け垣の中から差し出された花を受け取ると、ちらりとひび割れた指先が目にとまる。
けれどこの場でそれに触れることは、礼儀に反する行為になってしまう。
「ありがとう。嬉しい」
今宵の手紙には、飛陽は自らのことも書き付けた。
素性の分からない男からの手紙など、気持ちが悪いと思われると考えたのだ。
その手紙を見る前に、詠は花に銀糸を巻いて手渡してくれた。
銀糸は『月の神に誓う』という意味。そして、この白い花は『私を見つけて』という意味を持つ。
「姫君。あなたの歌声は、本当に美しい。まるで月の神の化身のようだ」
「畏れ多いことを。けれど、そのお言葉は私の光です」
生け垣の向こう側で、詠が笑った。
飛陽には、それが見えないはずなのに、何故だかまるで姿が見えたかのように、伝わる。
「明日」
「え?」
「明日も訪れて良いだろうか」
この国の夜は暗い。
貴人がそう易々と暗がりに出歩くことは難しい。こう言っても、実際は来ないかもしれない。
それでも、男がそう告げてくれることに、詠は目を見張り、そして驚きはすぐに喜びに変わった。
「もしも、あなた様が厭わないのであれば、私の歌を明日もまた」
「約束をしよう。あの月に誓って」
太陽や月に誓うことは、この国では神に誓うことと同等だ。
それに何かを返そうかと詠が口を少しだけ開いたところで、飛陽はさらに言葉を重ねる。
「また明日。どうかそれまで息災で」
「──あなた様も」
詠は、生け垣に近付く。
隙間から、今度は彼の姿がしっかりと見れないかとのぞき込んだ。
飛陽とその随従である純郷が馬に乗り去って行く後ろ姿だけが見える。
(あの方は、私のことをこの家の姫と思っているのでしょうね)
確かに姫なのかもしれないが、少なくとも当主を始め家人誰もが、そうは思っていない。
都合良く手駒にするためだけに、生きながらえさせているのだ。
(私が月の一族の血を繋ぐために生きていくのであれば、どうせなら、あの方の御子を生みたい)
渡された手紙には、伽羅の香りがする。
月明かりの下でその文を開けば、詠は小さく悲鳴を上げそうになった。
「陰陽司宮家飛陽……さま……って、陰陽司宮家のご当主さまじゃない」