夜、湯からあがった詠は部屋に戻り、月明かりに照らされていた。
 廂と呼ばれる縁側のような場所にゆるりと座り、小さな前庭に咲く白い花を見つめる。
 昼に割ってしまった茶碗の欠片を手にし、詠は月を見上げた。

「薄く光る月よ その優しさで 時を戻して」

 高く低くメロディに言葉を乗せて歌うと、詠の手元の茶碗はまるで何事もなかったかのように、元の姿に戻る。

「あ」

 ただ一箇所、拾い損なったのか欠けたままの縁はあったのだが。

「明日の朝、もう一度欠片を探しておきましょう。とりあえずは使えるようになったし」

 目を細め、茶碗を検分する。他は問題なく復旧しているようなので、そっとそれを部屋の隅に置いた。
 それと交換するように、文箱から手紙と色とりどりの絹糸の束を取り出す。

「美しい言の葉をくださっただけでなく、こんな美しい糸まで」

 あの日から数日、詠は夜になると小さな文箱にしまっていたこの絹糸を取り出しては、飽きることなく、これを見つめていた。
 月光に照らされた絹糸は、まるで何か不思議な術が掛かっているかのように、きらきらと輝いて見える。

「お母さま……」

 美しく輝くそれは、まるで詠の母親が歌を歌ったときのようだ。そう彼女は思う。
 緩やかに、記憶は過去に戻っていく。

    *

「詠。あなたは陽の歌の力は持っていないの」

 美しく、そして儚げな母は、それでも強い瞳を持っていた。

「私は、神楽陽歌家の当主の血を引いているのに?」

 母のその言葉を不思議に思った詠は、そう尋ねる。
 今考えれば、それがいかに母を傷つける言葉であったか。けれど幼い頃の彼女は、わからない。わからなくて当然だ。

 詠の母、(かつら)は、神楽陽歌家の当主が(かどわ)かして連れてきた女性だった。
 この家の当主は、庶民であれば好きにして良いと思っているような男だ。

 馬での移動中、彼女を道端で見つけた当主は、そのまま桂の腰を引き寄せ馬に乗せ走り去った。
 そうして、屋敷の一室に閉じ込め無体を働く。それは当主が飽きるまで続くと思われた。
 飽きればその辺にうち捨てる。当主にとっての庶民とは、そうした存在だった。

 だが、やがて桂は身ごもる。

 この家の当主の血を引いているのだ。おいそれと放り出すわけにはいかない。
 正妻を娶ったばかりの当主は、

「生まれた子に、当家の能力があれば子として遇してやろう。そうでなければ、見目が良ければ駒として使うときまで置いてやる。見目が悪ければ下男下女にすれば良い」

などと、酒の席で正妻に零したという。
 正妻もまた、その時点で腹に子がいたというのに。

 果たして生まれた子、詠は陽の歌の力を持っていなかった。
 生まれてから最初の朝の鳴き声で、力があれば某かが発動するはずだったからだ。

「ふん。やはり下賤の者には、我が家門の能力は継がれないのか」

 興味を失った当主ではあったが、赤子ながらに美しい顔をしていた詠を見て、にやりと笑う。

「これなら、金のある商人や地位のある大臣(おとど)の後妻か妾にでもして、縁を持つ駒にできよう」

 そうして詠と桂はこの主寝殿から遠く離れた部屋に、押し込められたのだ。
 桂が生きていた頃は、それでもまだ姫の扱いとして、多少は遇して貰えていた。
 母が死に、この部屋の物忌みが開けた頃には、詠の扱いは随分と変わってしまった。

 陽の歌の能力を持たない娘。
 当主の血を継いでいるだけの、下賤の者の娘。
 いつか家の為に売られていく娘。
 
 それが詠への評価だった。
 だが、詠が持っていなかったのは、陽の歌の能力。
 それは当然だ。

 彼女の母は、桂は、神楽陽歌家の一族にはるか昔に滅ぼされた、月の歌の能力を持つ神楽月家の末裔だったのだから。

 詠がまだ三歳ほどの頃に亡くなった母は、事あるごとに彼女に歌ってはその力を見せていた。まるで、使い方を、歌い方を、見て覚えろと言わんばかりに。
 そんな母も、やはり術が使えるのは夜だけだった。それが、月の一族の力だから。

 陽の一族である神楽陽歌家は、能力が使えるのは太陽の時間だけ。
 月の一族である神楽月歌家は、能力が使えるのは月の時間だけ。

 そうして、二つの家は共にあり、この国の神技を支えてきた。けれど数百年前に、時の神楽陽歌家の当主が神楽月歌家を滅ぼしてしまった。
 どうにか逃げ延びた姫がその血を繋ぎ、やがて桂へと辿り着いたのだ。

「まさか、神楽陽歌家の当主に連れ去られるとは思っていなかったけれど──良い? 詠は我が神楽月歌家の血を繋がないといけないの。けして、それを忘れないで」

 桂は、まるで呪詛のように彼女にその言葉を言い続けた。

「絶対に、私やあなたが、月の一族であるとこの家の者に知られてはだめ。殺され、血を絶やすことになるわ」

 桂もまた、連れ去られる前には、身内を亡くし一人きりだったのだ。だからこそ、例え憎むべき一族の相手に穢されたとしても、大人しく子を生むことにした。ここで打ち捨てられたら、一族は終わりだから。
 
 けれど、詠にとってはそれは呪詛ではなく言祝ぎだ。
 どんな環境下でも、生きていく希望はいつもそれだった。

「月の輝く 白い夜 雫の如く 落ちる光」

 母のことを思い出しつつ、手元の手紙をそっと抱きしめ、歌う。
 穏やかな風が前髪を揺らす。焚きしめる香など、渡して貰えないので庭に咲く金木犀の花の香りを、夜露に移し髪に浸していた。
 その香りが、風にのり緩やかに広がる。

「もうし。そこにいるのは、先日の君か」

 生け垣の向こう側から、聞いたことのある声がした。
 詠は、ゆっくりと息をのんだ。