「あら、今日の分はまだ終わらないの?」

 蓉花が住まう東の対の屋から、ここ南西の対の屋は随分と遠い。
 それに、詠が着ているようなくるぶしが見える丈の着物ではなく、裾が長く引きずるような着物を身につけている蓉花は、一歩の速度も詠とは比べものにならないほど遅く、移動に時間が掛かる。

 にも関わらず、彼女は乳母の娘で侍女の初恵(はつえ)と、他数名の侍女を引き連れて、わざわざここまでやってきた。
 こういうことは、数日に一度はある。

(わざわざ関わらなくても、良いのに)

 詠は心の中で、小首を傾げる。

「返事は?」
「失礼致しました。蓉花お嬢さまが、このような場所にお越しになるとは露も思わず」

 数日おきに来ていることは、あえて触れない。
 蓉花は床の上で両手をつき平身低頭の詠を、立ったまま見下ろすと、薄く笑った。

「詠はかわいそうね。能力がないばかりに、下女みたいな仕事をしないといけないなんて」

 そう言うと、手のひらを詠の頭の上あたりに伸ばす。

「水が流れる さらさらと」

 鈴を転がしたような、少し高い歌声を立てると、蓉花の手のひらから水が生まれる。
 それが、その下で頭を床に付けている詠の髪を濡らした。

「あははっ。詠の髪の毛はボサボサだものね。これで綺麗になるでしょうよ。ねぇ初恵」
「ええ、お嬢さま。このような下賤な者、この神楽陽歌家に置いていただけているだけ、ありがたいと思って欲しいですわ」

 初恵の母は、神楽陽歌家の遠縁だ。つまり血筋としては詠の方が上ではあるが、この屋敷に於いては蓉花の乳母の娘というだけで、それだけの扱いを受けることができた。

(せめてお湯にしてくれれば良いものを)

 頭からずぶ濡れにされた詠は、尚も額ずいたまま、密かにそう思う。けれど、けしてそれを表に出しはしない。
 少しでも反抗的になれば、打たれ、薄着で一晩外に放り出されてしまいかねないからだ。

「はぁ、つまらないわね。そろそろ戻るわよ」
「かしこまりまして、お嬢さま」
「そうそう。神楽舞家の北の方から、物語が届いたの。私たちはそれを楽しみましょう」

「素晴らしいですわ。もしかして、今人気のあの?」
「そうよ。──あぁかわいそうに詠は、物語を楽しむ時間なんてないのよね。もしも早くその繕い物が終われば、見せてやらないこともないわ」
「お嬢さま、こんな下賤の者に触れさせたら、汚れてしまいます」

 くすくすと笑う二人に追従し、他の侍女たちも笑う。
 水を被ってさえも、こうして貶められても、詠が身動きをしないのに興が覚めたのか、蓉花は初恵たちを連れて部屋を出ていった。

「ようやく出て行ったわ」
 
 足音が遠く消えたことを確認し、詠はゆっくりとその体を起こした。

「体が強ばってしまいそう」

 大きく伸びをすると、自由に使って良い布を引き出し、濡れそぼった髪を拭く。木綿の布は、良く水を吸い込む。
 格子を上げた先から見える空は、まだ青い空が見える。

「夜までに、この縫い物を終わらせないと」

 山のように積まれた縫い物は、蓉花の来訪のせいで手が止まっていた。
 がさがさの手では、糸が上手く扱けなかったり、布に引っかかったりとするが、それでも詠の裁縫の手は早い。
 小さい頃から慣れた作業と言うこともあるのだろう。

 外から吹く風が室内に入り、詠の濡れた髪に触れていく。
 ひやりとした寒気が体に伝わり、目を顰めた。

「風邪をひいてしまいそう。今日は少し早くお湯に入らせて貰えないか、聞いてみようかな」

 下女のような仕事をさせられていても、詠は風呂などには使用人や下女のなかでは一番最初に入らせて貰える。
 残念ながら、蓉花たちが入るような広い風呂ではないが、それでも体を温められるのはありがたい。

 閑話ではあるが、この国は上下水道が整っているため、例え庶民であっても、共同浴場などが用意されていた。
 これこそが、他の国からもこの国を『神の国』と言わしめる一つの偉業でもある。

「零れる陽の光よ 冷えたる体を あたためて」

 詠は歌う。
 蓉花のような高音の音ではなく、耳に聞き心地のよい穏やかで柔らかな声だ。
 けれど、歌えども何も起きない。
 再びため息を吐き、太陽を見上げる。

「早く、夜にならないかしらね」

 夜になれば、きっと──。