神楽陽歌(かぐらひのうた)家とは、この日灯国(ひともすこく)に於いては下級の貴族となる家だった。
 貴族たちの、いや、この国の頂点には天統べる(すめらぎ)と呼ばれる帝がおり、その次席として陰陽司宮(おんみょうつかさのみや)家がある。

 神託を受け政を進めるこの国に於いては、神の直系と言われる帝の次に、神とのやりとりができると言われている陰陽司宮家が遇されているのだ。

 その陰陽司宮家の当主は、当代きっての天才陰陽師と言われている。
 神からのお告げも、神への祈りも、どれも外すことがない。

「まぁ、こんな季節なのに蝶々が」

 ひらりと庭に飛ぶのは、青と白の羽を持った大きな蝶。秋から冬に向かうこの時期には珍しい。
 神楽陽歌(かぐらひのうた) (えい)は蝶を目で追いながら、洗濯物を竿にかける。
 
「何か良いことでもあるのかしらね」

 蝶は吉事の知らせと、言われている。

「陰陽司宮家から何か、知らせでも来るかしら」

 吉事があれば、全ての家に陰陽司宮家から通達が出のだ。
 その陰陽司宮家の配下には、神に遣えるための機関として多くの貴族家が存在している。
 ここ神楽陽歌家もその一つではあるが、その家格は数百年前に、貴族の中では底辺に落とされてしまっていた。

 神楽陽歌家は神楽家の分家で、他には神楽舞家、神楽器楽家、神楽司式家などがある。
 いずれも神楽陽歌家よりも家格は上だ。

 そしてこの神楽一門は、それぞれの分野に特化して、不思議な力を持つ子が生まれてくる。
 まるで、不思議な術を使っているかのように、他の者には映るそれは、神に遣えるための力と言われていた。

「晴れたる空に 光とぞ舞う」

 詠は歌を口にしながら、手元の洗濯物を全て干し終えた。
 その手はあかぎれでひび割れており、秋とはいえ、寒さが走り始めた今の季節には、辛いだろうと考えるに余りあった。

 黒く長い髪の毛は、艶もなく乱雑にひとまとめにしてある。
 少し垂れた大きな瞳には、少し疲れが見えていた。
 彼女の歌は、ただ歌として空に消え、空気が揺らぐこともなければ、不可思議なことが起きることもない。

「今朝は殊の外、寒いわね」

 はぁ、と指先に息を吹きかける。まだ日が昇りたての時刻では、空気も温まってはいない。
 水を絞った後とはいえ、水分を含んだ洗濯物は、空気に触れてさらに冷たくなっている。

「詠! 何をのんびり干しているんだい」
「はぁい。今参ります」

 名を呼ばれた彼女は、洗濯物を入れていた盥を抱え、台所へと向かっていった。

「これを旦那様と北の方(おくがた)さま、蓉花お嬢さまに」

 高さのある台に載せられた見目美しい食事に、詠は小さく喉を鳴らす。
 今日も日の出前から働いていて、酷く空腹だった。

「ほら、早く! 私たちは皆様方の御前にでるわけにはいかないんだよ!」

 指示を出す台所番の下女は、先にそれらを運び始めている使用人たちを見ながら、詠を追いやる。
 小さく頷き、詠はその一つを手にして、渡殿(ろうか)を進む。

 その先で待つ侍女たちは、美しい着物を身につけている。
 彼女たちへの食事は、手前の部屋に並べられた。
 詠は近くまで使用人が運んだ台を、一つずつ、部屋の上座にいる三人の男女の前に置いていく。

「あら、詠ったら今日もそんな格好で働いているのね」

 クスクスと笑うのは、神楽陽歌(かぐらひのうた) 蓉花(ようか)。この神楽陽歌家の正妻の娘だ。
 花のように華やかな顔に、丁寧に手入れをせれて輝く黒く長い髪は、詠と比較する必要がないほど美しい。

「およしなさい、蓉花。そんな下賤の者を気にする必要などないわ」

 蓉花を咎め、詠を貶めるのは北の方と呼ばれる正妻。
 神楽陽歌家よりも格上の神楽舞家の三の姫だったが、家同士の取り決めでこの家に嫁いできた。

 そんな妻と娘を、笑みを浮かべて見る恰幅の良い男は、蓉花と詠の父であり、この神楽陽歌家の当主。
 ──そう、詠もこの家の娘であった。

「下がりなさい」

 詠の名を呼ぶこともなく、父は、神楽陽歌家の当主は、そう告げる。

「……はい」

 それ以外に返す言葉は許されず、詠はそのまま部屋を出た。そうして台所へと戻る。
 そこには、使用人や下男下女が食べる為の食事が鍋に入ったまま置かれていた。

 詠は自分でそれを掬い、割れかけた器に盛る。
 貴人が使う高さのある台とは違う、みすぼらしい盆に載せて、彼女は自分にあてがわれている部屋にそれを運んでいった。

(やっと食事の時間。今日もお腹が空きすぎて、倒れてしまいそう)

 朝から働き通していた詠がようやく口にできたのは、骨にこびりついていた魚の身の欠片を共に煮込んだ薄い粥と切れ端の漬物。
 十六という年に見合わない細く華奢な体は、しかし貴族の令嬢のようなものではなく、貧相なだけ。このような食事を続けていれば、それも当然だろう。

 調度品もほとんどないこの部屋は、詠が母親と共に過ごしてきた南西の対の屋だ。
 正妻やその娘、当主の部屋からは一番遠く、一番狭い。
 それでも、侍女も使用人も宛がわれずに、そして本人はまるで下女のように働かされていても、立場はこの家の娘というものとなっている。

(いつか、この生活から抜け出せるのかしら……。いえ、抜け出して、私は子を生まねばならない)

 漬物で茶碗の縁を綺麗にこそげ落とし、口に運ぶ。
 蓉花が食べていたものとの落差に、涙が出そうになったこともあった。
 今ではもう、何もかもを受け入れて、ただ時が来るのを待つ。

 いつかは、当主が詠をどこぞに嫁にだすだろう。
 そのための駒として、こうして生きながらえさせているのだから。
 そのときには、さすがに今よりはマシな生活を過ごせると期待はしている。
 
「あっ」

 疲れ切っていたのか、指先から急に力が抜けた。そのすきに、手にしていた茶碗を落としてしまう。

「中身を食べ終えていて、良かった……」

 ころころと転がる茶碗は、そのまま突き出し廊下を超えて地面に落ちてしまう。落ち所が悪かったようで、カチャンと音を立てて割れてしまった。

「困ったわね」

 急いで立ち上がり、地面に降りる。割れたそれを手にして、詠は小さく歌った。
 柔らかな声が、言葉が、ゆったりとしたメロディにのる。

「割れし器の 時の戻りよ」

 けれど、手の中にある陶器の欠片は、ぴくりとも動かない。

「……そうよね。まだ陽の時間だもの」

 詠は、それらを古い布の切れ端に包み、部屋の隅にそっと置いた。

「夜を待ちましょう」

 空を見上げ、目を細める。他の食事の器を載せた盆を手に、台所へ戻る。
 視界の隅には、午後彼女がするべき仕事の繕い物の山が、ちらりと見えていた。