「今宵の月の ひかりの降る先に」
詠は無礼を承知で、その場で立ち上がり歌を口にする。
その歌声は透き通るような音を奏で、静かな広間の空気を震わせた。
ゆるゆると月にかかる雲は去り、辺りがほの明るくなっていく。
立ち上がった詠を見て、飛陽は目を見開いた。
そして、彼もまた立ち上がる。
詠の横に純郷が立ち、飛陽の元へと先導しようとした。
「良い。俺がそこへ行く。そのまま歌を」
飛陽のその言葉に、詠は瞳を一度伏せ再度、彼を見た。
それは肯定の返し。
静かに歌い続けると、月の光は月光玉石を乗せた三方を持った飛陽を、まるで映し出すかのように照らす。
広間中央の飛陽の席から、詠がいる場所まではほんの少しの距離だ。
けれど、その間には多くの人がいた。
彼らは純卿の目線一つで道を作り、飛陽と詠の間にはまっすぐな通路ができあがる。
「あるは小さな あなたへの歌」
飛陽が詠の目の前に立ったその時、歌を終えた。
「そなたが、あの夜の」
「飛陽さま。あなた様が望まれたのは『神楽陽歌家の一の姫』ということで、お間違いないのでしょうか」
じっと彼の瞳を見る。
そこに映るのは、詠の顔だ。
「間違いない。そしてそれは、そなたのはずだ」
月の光が、二人の間にある月光玉石に注がれる。石はその光を受け、大きく輝くと、部屋中を照らし出した。
それは、飛陽の言葉をまるで肯定するかのように感じる。
広間にいる者たちはざわめく。
部屋中に満ちた月の光は、この部屋をまるで神域のように神聖なものにしてしまったのだ。
天才と呼ばれている飛陽であればそれは可能だが、それでも彼は今そのような儀式はしていない。
ただただ月の光と、そしてそれを呼び寄せたかのような歌。
歌でその場を神域とできるのは、神楽歌家の流れを汲む当主のみ。
詠が歌ったことでそれができたとすれば。
それが意味することと言えば。
「私は──神楽陽歌家当主と、神楽月歌家の姫の間にできた、一の姫です」
その言葉が部屋に響いた瞬間。
三方に乗っていた月光玉石が震え、すぐにばりんと割れてしまった。
その欠片は、飛陽の体にまるで吸い込まれるように消えていく。
主がなくなった三方は、純卿がそっと受け取った。
「石が……! 飛陽さま……」
目の前で起きた信じがたい出来事に、詠はただ言葉の端切れを零す。
そんな彼女を、飛陽はそっと抱きしめた。
(この腕は……あの夜と同じ)
詠は、飛陽の背に手を伸ばす。あの夜には、できなかったことだ。
「あなたが……。あなたが私の、愛する人だ」
耳元で囁かれたその言葉は、詠が心の奥底にしまい込んでいた、飛陽への思いの蓋を開ける。
お腹の底から、喉をかけあがり、指先、そして耳の尖った先から脳の奥の奥まで。
飛陽のことを好きだ、愛おしい、苦しい、そして愛している、と感情が駆け巡っていく。
「飛陽さま。飛陽さま……あなた様は、私を打ち捨てたかと」
震える言葉で告げれば、飛陽はすぐに彼女の顔をのぞき込む。
「すまない。あなたの名前も知らなく、神より下った神言には『一の姫』とあったため、てっきりあなたのことかと」
詠は己が名乗らなかったことを悔いた。
「あなたには、辛い思いをさせてしまった。どうか、俺を許してくれないだろうか」
「詠」
「え……い?」
「私の、名前です」
ここに至って、ようやく詠は自らの名を告げた。
「詠。美しい名だ。月の神の一部のようだ」
「はい。母がそう名付けてくれました。月詠の神の名をいただく、月の一族の末裔にございます」
飛陽は、詠を横抱きにして抱き上げ、広間の正面に戻った。
「いつまで、あれがそこの席にいる」
花嫁の席、そして両親の席に座っていた神楽陽歌家の三人をちらりと見た後、側に控える純卿に声をかける。
「これは失礼を」
純卿の目線で、すぐに陰陽司宮家の使用人が彼らを拘束した。
「なにをするの! 私は花嫁よ」
「あなた様は、神楽陽歌家の二の姫でございましょう。こちらの申し出は一の姫でございます」
「私が一の姫に決まっているでしょう。あれは姉でもなんでもないわ。下賤の者よ」
「ほう。わかっていて、あの席に座った、ということですか」
蓉花の言葉に、純卿は声を沈めて返す。
迂闊なことを言ってしまったと蓉花が気付くも、時は遅い。
無論、一の姫が誰かを分かった上で蓉花を嫁にと出したのは、神楽陽歌家の当主も妻も同じだ。
「ひっ! や、やめろ!」
「神楽陽歌家の正妻に、失礼な!」
「私は悪くないのよぉ」
三人がそれぞれ喚く中、使用人たちは彼らを部屋から退出させる。
神言を、それとわかっていながら偽ったのだ。
この国では、重罪となる。
このまま、彼らは陰陽司宮家の地下牢に繋がれるが、その待遇は飛陽の言葉一つで変わるだろう。
一方飛陽に横抱きに抱き上げられたままの詠は、小さく首を横にして、いやいやと恥ずかしさを告げる。
その所作が、飛陽にはかわいくて仕方がない。
「ひ、飛陽さま、下ろしてくださいませ」
「嫌だ」
「いやだ?」
まるで駄々っ子のような口ぶりに詠は驚くも、思わず彼の顔を見て、笑ってしまった。
彼女のその笑みを見て、飛陽は柔らかく笑う。
それは、この部屋にいる者──純卿ですら見たことがない、笑みだった。
「皆の者。我が花嫁にして、神楽月歌家の当主である、詠だ」
詠を抱きしめながら、高らかに宣言する飛陽の言葉に、広間中が沸く。
拍手がおき、皆が立ち上がった。
(あぁ──陽の一族の信用はこれで失墜するわね。そして今)
飛陽の言葉を、詠はゆっくりと反芻する。
(お母さま。我が月の一族は今ここに、復活をいたしました)
ゆっくりと詠を下ろし、飛陽は彼女の手を取る。
飛陽が羽織っている、薄絹の装束を彼女の頭にそっと被せた。
すると、不思議なことに詠の瞳に銀色の光が浮かび上がる。
「詠。そなたは、誠に月の神の化身なのやもしれん」
「どういうことでしょう」
自らの体に起きた変化がわからず、小首を傾げる詠を、飛陽は優しく抱きしめ、そして──。
「詠。やっとあなたに並ぶことができる」
柔らかな詠の唇に、飛陽のそれがゆっくりと重なった。
詠は無礼を承知で、その場で立ち上がり歌を口にする。
その歌声は透き通るような音を奏で、静かな広間の空気を震わせた。
ゆるゆると月にかかる雲は去り、辺りがほの明るくなっていく。
立ち上がった詠を見て、飛陽は目を見開いた。
そして、彼もまた立ち上がる。
詠の横に純郷が立ち、飛陽の元へと先導しようとした。
「良い。俺がそこへ行く。そのまま歌を」
飛陽のその言葉に、詠は瞳を一度伏せ再度、彼を見た。
それは肯定の返し。
静かに歌い続けると、月の光は月光玉石を乗せた三方を持った飛陽を、まるで映し出すかのように照らす。
広間中央の飛陽の席から、詠がいる場所まではほんの少しの距離だ。
けれど、その間には多くの人がいた。
彼らは純卿の目線一つで道を作り、飛陽と詠の間にはまっすぐな通路ができあがる。
「あるは小さな あなたへの歌」
飛陽が詠の目の前に立ったその時、歌を終えた。
「そなたが、あの夜の」
「飛陽さま。あなた様が望まれたのは『神楽陽歌家の一の姫』ということで、お間違いないのでしょうか」
じっと彼の瞳を見る。
そこに映るのは、詠の顔だ。
「間違いない。そしてそれは、そなたのはずだ」
月の光が、二人の間にある月光玉石に注がれる。石はその光を受け、大きく輝くと、部屋中を照らし出した。
それは、飛陽の言葉をまるで肯定するかのように感じる。
広間にいる者たちはざわめく。
部屋中に満ちた月の光は、この部屋をまるで神域のように神聖なものにしてしまったのだ。
天才と呼ばれている飛陽であればそれは可能だが、それでも彼は今そのような儀式はしていない。
ただただ月の光と、そしてそれを呼び寄せたかのような歌。
歌でその場を神域とできるのは、神楽歌家の流れを汲む当主のみ。
詠が歌ったことでそれができたとすれば。
それが意味することと言えば。
「私は──神楽陽歌家当主と、神楽月歌家の姫の間にできた、一の姫です」
その言葉が部屋に響いた瞬間。
三方に乗っていた月光玉石が震え、すぐにばりんと割れてしまった。
その欠片は、飛陽の体にまるで吸い込まれるように消えていく。
主がなくなった三方は、純卿がそっと受け取った。
「石が……! 飛陽さま……」
目の前で起きた信じがたい出来事に、詠はただ言葉の端切れを零す。
そんな彼女を、飛陽はそっと抱きしめた。
(この腕は……あの夜と同じ)
詠は、飛陽の背に手を伸ばす。あの夜には、できなかったことだ。
「あなたが……。あなたが私の、愛する人だ」
耳元で囁かれたその言葉は、詠が心の奥底にしまい込んでいた、飛陽への思いの蓋を開ける。
お腹の底から、喉をかけあがり、指先、そして耳の尖った先から脳の奥の奥まで。
飛陽のことを好きだ、愛おしい、苦しい、そして愛している、と感情が駆け巡っていく。
「飛陽さま。飛陽さま……あなた様は、私を打ち捨てたかと」
震える言葉で告げれば、飛陽はすぐに彼女の顔をのぞき込む。
「すまない。あなたの名前も知らなく、神より下った神言には『一の姫』とあったため、てっきりあなたのことかと」
詠は己が名乗らなかったことを悔いた。
「あなたには、辛い思いをさせてしまった。どうか、俺を許してくれないだろうか」
「詠」
「え……い?」
「私の、名前です」
ここに至って、ようやく詠は自らの名を告げた。
「詠。美しい名だ。月の神の一部のようだ」
「はい。母がそう名付けてくれました。月詠の神の名をいただく、月の一族の末裔にございます」
飛陽は、詠を横抱きにして抱き上げ、広間の正面に戻った。
「いつまで、あれがそこの席にいる」
花嫁の席、そして両親の席に座っていた神楽陽歌家の三人をちらりと見た後、側に控える純卿に声をかける。
「これは失礼を」
純卿の目線で、すぐに陰陽司宮家の使用人が彼らを拘束した。
「なにをするの! 私は花嫁よ」
「あなた様は、神楽陽歌家の二の姫でございましょう。こちらの申し出は一の姫でございます」
「私が一の姫に決まっているでしょう。あれは姉でもなんでもないわ。下賤の者よ」
「ほう。わかっていて、あの席に座った、ということですか」
蓉花の言葉に、純卿は声を沈めて返す。
迂闊なことを言ってしまったと蓉花が気付くも、時は遅い。
無論、一の姫が誰かを分かった上で蓉花を嫁にと出したのは、神楽陽歌家の当主も妻も同じだ。
「ひっ! や、やめろ!」
「神楽陽歌家の正妻に、失礼な!」
「私は悪くないのよぉ」
三人がそれぞれ喚く中、使用人たちは彼らを部屋から退出させる。
神言を、それとわかっていながら偽ったのだ。
この国では、重罪となる。
このまま、彼らは陰陽司宮家の地下牢に繋がれるが、その待遇は飛陽の言葉一つで変わるだろう。
一方飛陽に横抱きに抱き上げられたままの詠は、小さく首を横にして、いやいやと恥ずかしさを告げる。
その所作が、飛陽にはかわいくて仕方がない。
「ひ、飛陽さま、下ろしてくださいませ」
「嫌だ」
「いやだ?」
まるで駄々っ子のような口ぶりに詠は驚くも、思わず彼の顔を見て、笑ってしまった。
彼女のその笑みを見て、飛陽は柔らかく笑う。
それは、この部屋にいる者──純卿ですら見たことがない、笑みだった。
「皆の者。我が花嫁にして、神楽月歌家の当主である、詠だ」
詠を抱きしめながら、高らかに宣言する飛陽の言葉に、広間中が沸く。
拍手がおき、皆が立ち上がった。
(あぁ──陽の一族の信用はこれで失墜するわね。そして今)
飛陽の言葉を、詠はゆっくりと反芻する。
(お母さま。我が月の一族は今ここに、復活をいたしました)
ゆっくりと詠を下ろし、飛陽は彼女の手を取る。
飛陽が羽織っている、薄絹の装束を彼女の頭にそっと被せた。
すると、不思議なことに詠の瞳に銀色の光が浮かび上がる。
「詠。そなたは、誠に月の神の化身なのやもしれん」
「どういうことでしょう」
自らの体に起きた変化がわからず、小首を傾げる詠を、飛陽は優しく抱きしめ、そして──。
「詠。やっとあなたに並ぶことができる」
柔らかな詠の唇に、飛陽のそれがゆっくりと重なった。