「こんな広い部屋に移ったの。へぇ」

 婚儀を明日に控え、蓉花はわざわざ詠の部屋にやってきた。

(どうしていちいち、こちらに関わろうとするのかしらね)

 あと一日耐えれば、蓉花はこの家からいなくなる。
 そして、その行き先は飛陽の元だ。
 できれば彼女の顔など、今は一番見たくないのに。

「ほら、私は明日陰陽司宮家の妻として、飛陽さまに嫁ぐでしょう?」
「おめでとうございます」

 部屋は変わっても、着ているものが変わっても、詠に求められるのは従順な態度だけ。
 それは変わらない。

 床に座り、両手をつき額を下げる。
 顔をあげたところで、蓉花の人を見下した瞳を見ることになるので、このままで十分だ。

「顔を上げなさい」

 なのに、今日はどうしてか顔を上げさせられる。
 仕方がなく、ゆっくりとした動作で蓉花を見た。
 この数日、いつもよりも入念に手入れをされている蓉花の肌つやはとても良く、髪もしっとりと輝いている。

「お前も、明日の婚儀でお父さまが嫁に出すと言っていたわ。せいぜい我が家の役に立つようになさい」
「明日……?」
「そうよ。かわいそうに、お前はどうせ金だけしかなくて下品な商人か、年を重ねたどこぞの貴族の妾になるのでしょうねぇ」

 駒として嫁に出されるとは言われたが、まさか明日だとは思わなかった。
 嫁ぐことで、この神楽陽歌家の役に立ってしまうことは業腹だが、それでも血を繋ぐことができるのであれば、それを優先したい。
 詠は、何も言わずにただ蓉花を見据えていた。

「何よその目。生意気ね。そうだ──初恵」
「はい」
「この部屋の荷物を検めて、纏めてあげなさい。どうせ碌なものはないでしょうけど、我が家の大切な品でも持ち出されたら、大変だわ」
「左様にございますね」

 蓉花の乳母の娘、初恵が得たりとすぐに部屋を見渡す。
 持ち出すことのできない調度品ばかりだが、文箱と裁縫の箱が彼女たちの目にとまる。
 その視線の先に気付いた詠は、立ち上がりそれを手にした。

「その箱の中に、何かを入れているの?」

 蓉花は鋭い声で問う。

「なにも……」

 そう言いながら文箱を抱える詠の腕を、初音が引き上げる。

「ぃやっ!」
「その文箱を渡しなさい!」
「嫌です。これは私のでございます」
「中身を蓉花お嬢さまが検めたら返すわ」

 片手を引き剥がされても、もう片方の手で必死に文箱を抱える詠は、そのまま背を丸めこむ。
 詠がどうしても渡そうとしないその様に、蓉花も文箱の中身に興味を持ってしまう。
 
「初音、顔以外は打っても良いわ」

 口の端を歪ませ、口角を上げて笑う蓉花は、とてもこの家の姫とは思えない表情をした。

「それ、その文箱を渡しなさい!」
「痛い!」

 初音が持っていた扇子で、詠の背中を打つ。

「痛い! 痛い! おやめください!」

 何度も何度も打ち、やがて詠の体から力が抜けていった。

「早く渡せば良いものを」

 くたりとした手元から、文箱を抜き取ると、初恵は蓉花にそれを恭しく手渡す。
 蓋を引き上げると空気が入る音がする。
 その中には、詠が飛陽から貰った手紙と絹糸が丁寧にしまわれていた。
 最初は何の手紙かと、一通ずつ読み進めた蓉花は、二通目に書かれていた名前に表情を変える。

「詠。お前、この手紙はなに? どうして飛陽さまのお手がここにあるの?」

 震える手で手紙を持ち、蓉花はその名前の文字を何度も見直す。
 幾度見ても、それは蓉花が明日婚儀を交わす、相手の名前だ。

「お前は飛陽さまと知り合い、あまつさえ、あのお方に……」
「いいえ!」

 詠は殊の外大きな声で否定する。

「いいえ! それはかのお方の名を騙ったどなたかでしょう。どうして明日の婚儀を前に、心を乱される必要がございますか」

 本当は知っている。
 それは、まごうことなく本物の陰陽司宮飛陽の手紙であることを、詠は知っているのだ。
 それでも今は、そう口にする。
 そして、そうすることで、詠は詠自身の心をも守っていく。

 彼女に手紙を書いたのは、彼ではないことを。
 明日、二度と会うことのできなくなる、彼ではないということを。
 もしかしたら、いつかまた巡り会うことができるかもしれない相手であることを。

 それを祈って口にする。

「私の前に、かのお方が現れることなど、ありえないことでしょう」

 詠のその言葉に、蓉花は頷かざるを得ない。
 ここでこれが、飛陽本人の手であると認めてしまえば、それは下賤の者としている詠が、己よりも先に飛陽に愛を囁かれたということになるのだ。

「……それもそうね。でも、お前は明日嫁ぐの」

 ひりひりとした空気の中、蓉花はその手紙を上下に裂いていく。
 静かな部屋に、紙の破れる音が妙に大きく響く。
 縦に裂いたら今度は横に。

「飛陽さまが求めているのは、お前ではないのよ。私よ」

 蓉花自身が、何かを確認するかのように、そう詠に告げる。
 そうして、ちぎった全てを部屋にばらまいた。

 詠はそれを呆然と眺める。
 ひらひらと舞う紙切れは、まるで雪のように美しく見えた。
 それは、詠の心の切れ端なのかもしれない。

「太陽より別れし 小さき炎の」

 蓉花がそう歌えば、その切れ端が宙でちり、と燃えてしまう。
 炎は紙が燃え尽きれば消え、辺りには紙が燃えたにおいと灰だけが残った。

「こんなものは不要でしょ。あぁ、この糸は素敵ね。貰っていくわ。初音、これを明日の髪留めに混ぜて」
「素晴らしい糸にございますね。畏まりました」

 ちら、と詠を見遣り、二人は部屋を出る。
 部屋を後にする瞬間、今一度振り返り蓉花は顔を歪めて笑った。

「お前みたいな下賤の者、飛陽さまが相手にするわけがないわ」

 二人の足音が去った後、詠は燃え尽きた灰の塊の一つにそと手を伸ばす。

「そうね。私にはもう……不要なものなのかもしれないわね……」

 それでも。
 それでも、捨てきれぬ気持ちが心の奥底にある。
 詠はそれを捨て去ろうと、燃え尽きた灰を手のひらに掬い、見つめ続けた。