月が雲に覆われた暗い夜道。
陰陽司宮 飛陽は、随従と共にゆったりと馬を歩かせていた。
黒く短い髪に、涼しい目元。当代の男にしては高い背ではあるが、鍛えているのか細くもがっしりとした体つきだ。
年の頃は二十くらいであろう。
「ん……?」
ふと、暗闇の先から、かすかな歌声が聞こえる。
「純郷、聞こえるか?」
純卿と呼ばれた随従は、刈り上げた頭を一つ頷かせ同意を示す。
丸みのある鼻が、愛嬌のある表情を作り出していた。
「はい。この辺りは、神楽陽歌家の屋敷ですので、ご息女がお歌いになっているのでは」
「なるほど。歌声を近くで聞きたい。声の方へ行くぞ」
飛陽はその美しい狩衣を馬の背にひらめかせ、静かに声のする方へ向かっていった。
周囲は、背の高い生け垣に覆われている。
空に月はあるものの、雲が多く陰りが強い。
琴などの伴奏もなく、ただ歌声だけがやわらかに響く。
まるで夜の闇の中に、一筋の光が舞い降りたかのようなその声に、呼ばれるようにして飛陽は近付いていった。
歌声のすぐ近くにさしかかると、月にかかっていた雲は緩やかに去り、その光が辺りをほの明るく照らす。
緩やかに吹く風が、どうしたわけか生け垣の向こう側で、花びらを美しく舞わせている。
生け垣の向こう側にいる声の主の顔は見えないが、歌声はよく聞こえた。
「月のひかりと その色に」
聞こえたその歌詞に、飛陽は目を開く。その瞬間。
「なにっ」
飛陽の体がぶるりと震える。
その後すぐに、胸元に手をやり中から小さな光る石を取りだした。
「主様、それは」
「お前も知ってる通り、俺の半身である、この月光玉石が震えた」
その言葉に、純卿は改めてその石を見る。
月の光を集めたような、白銀色に鈍く光るそれは、今もなお小さく震えていた。
「今の歌の歌詞……」
純卿が小さく呟くと、飛陽は生け垣の向こう側を見る。
「誰か、いるの?」
人の気配を察したのであろう。歌声の主であろう女の声がした。
無論、歌声は止まっている。
「すまない。通りがかっただけだが、美しい歌声に惹かれしばし鑑賞していた」
「まぁ。お聞き苦しいことはありませんでしたか」
歌声の澄んだ音と同じだが、やや控えめな声音。
飛陽はそこに、穏やかで奥ゆかしい女性の姿を描く。
「いいや。胸が打ち震えるようだった。もしもあなたがよければ、これを」
懐から取り出した紙に歌を褒め称える言葉を書き付ける。
それを袖に縫い付けられていた美しい絹糸の束を抜き取ると、丸めた手紙に巻き付けた。
生け垣の隙間にそっとそれを差し込むと、少しだけそこから離れる。
敵意がないと、伝えるためだ。
手紙から人が離れたことを確認したらしい女は、中からそれを引き抜いた。
「こんなにも美しい糸を」
「私の衣の一部と思ってください」
飛陽の言葉に、女が生け垣の向こう側で息をのんだ。
純卿も同じように、瞬時息を止め、そうして飛陽を見てゆっくりと息を吐く。
「また……来てもよろしいだろうか」
「ぜひに。月の美しい夜、あなたをお待ちします」
顔も知らない女の声が、静かな夜に響いた。
陰陽司宮 飛陽は、随従と共にゆったりと馬を歩かせていた。
黒く短い髪に、涼しい目元。当代の男にしては高い背ではあるが、鍛えているのか細くもがっしりとした体つきだ。
年の頃は二十くらいであろう。
「ん……?」
ふと、暗闇の先から、かすかな歌声が聞こえる。
「純郷、聞こえるか?」
純卿と呼ばれた随従は、刈り上げた頭を一つ頷かせ同意を示す。
丸みのある鼻が、愛嬌のある表情を作り出していた。
「はい。この辺りは、神楽陽歌家の屋敷ですので、ご息女がお歌いになっているのでは」
「なるほど。歌声を近くで聞きたい。声の方へ行くぞ」
飛陽はその美しい狩衣を馬の背にひらめかせ、静かに声のする方へ向かっていった。
周囲は、背の高い生け垣に覆われている。
空に月はあるものの、雲が多く陰りが強い。
琴などの伴奏もなく、ただ歌声だけがやわらかに響く。
まるで夜の闇の中に、一筋の光が舞い降りたかのようなその声に、呼ばれるようにして飛陽は近付いていった。
歌声のすぐ近くにさしかかると、月にかかっていた雲は緩やかに去り、その光が辺りをほの明るく照らす。
緩やかに吹く風が、どうしたわけか生け垣の向こう側で、花びらを美しく舞わせている。
生け垣の向こう側にいる声の主の顔は見えないが、歌声はよく聞こえた。
「月のひかりと その色に」
聞こえたその歌詞に、飛陽は目を開く。その瞬間。
「なにっ」
飛陽の体がぶるりと震える。
その後すぐに、胸元に手をやり中から小さな光る石を取りだした。
「主様、それは」
「お前も知ってる通り、俺の半身である、この月光玉石が震えた」
その言葉に、純卿は改めてその石を見る。
月の光を集めたような、白銀色に鈍く光るそれは、今もなお小さく震えていた。
「今の歌の歌詞……」
純卿が小さく呟くと、飛陽は生け垣の向こう側を見る。
「誰か、いるの?」
人の気配を察したのであろう。歌声の主であろう女の声がした。
無論、歌声は止まっている。
「すまない。通りがかっただけだが、美しい歌声に惹かれしばし鑑賞していた」
「まぁ。お聞き苦しいことはありませんでしたか」
歌声の澄んだ音と同じだが、やや控えめな声音。
飛陽はそこに、穏やかで奥ゆかしい女性の姿を描く。
「いいや。胸が打ち震えるようだった。もしもあなたがよければ、これを」
懐から取り出した紙に歌を褒め称える言葉を書き付ける。
それを袖に縫い付けられていた美しい絹糸の束を抜き取ると、丸めた手紙に巻き付けた。
生け垣の隙間にそっとそれを差し込むと、少しだけそこから離れる。
敵意がないと、伝えるためだ。
手紙から人が離れたことを確認したらしい女は、中からそれを引き抜いた。
「こんなにも美しい糸を」
「私の衣の一部と思ってください」
飛陽の言葉に、女が生け垣の向こう側で息をのんだ。
純卿も同じように、瞬時息を止め、そうして飛陽を見てゆっくりと息を吐く。
「また……来てもよろしいだろうか」
「ぜひに。月の美しい夜、あなたをお待ちします」
顔も知らない女の声が、静かな夜に響いた。