小説家、東条京助は都内の一軒家の日本家屋に一人で住んでいた。

「こんな還暦を過ぎた老爺の家に若い子が三人も。嬉しいことだねぇ」

 白髪だが豊かな毛量に切れ長の瞳、着物姿の東条先生は年齢不詳で神秘的な雰囲気の人だった。
穏やかそうにも鋭そうにも見える目は、まるで仙人のように何もかも見通していそうで怖い。

「東条先生、すみませんお忙しいのに」
「敏腕編集の清水さんの頼みだからねぇ、いいってことさぁ」
「ありがとうございます」

 井草の香りが漂う和室で、囲炉裏を挟んで私たちは東条先生と向かい合った。

東条先生が優雅な手付きで煙管を吸う。紫煙を吐き出し、東条先生が切れ長の瞳でこちらを見た。

「さて、用件は『伝染鬼』のことだったかねぇ」

「はい。じつは、アタシがウェブ公開した『伝染鬼』の内容と読んだ体験談を記した小説を読んで、悟朗と同じ体験をしたり、呪われたという人が出てきているんです」

「ほほう、それはそれは―…」

「信じられないんですけど、彼女たち、涼花ちゃんと歩美ちゃんも怖い思いをしているみたいでして。先生、あの『伝染鬼』はどちらで手に入れたんですか?」

 清水さんの質問に、東条先生が唇の端を吊り上げる。

「あの本ねぇ」

「東条先生、あの本は御友人のオカルトマニアの方のものだと、おっしゃっていましたよね。その御友人とは誰ですか?」

「大川平助さぁ」
「え、大川。それって―…」

 それって、伝染鬼に出てきた悟朗の親友の男と同じ苗字ではないか。
 思わず名前を呟いた私を見て、東条先生はにぃと怪しい笑みを浮かべた。

「残念さねぇ、おじょうちゃん。あれは作り話じゃあない、ノンフィクションさぁ」

 うすうす、そうではないかと思っていた。だけど、本当にそうだと事実を突きつけられると、喉元に刃を当てられたような気分になった。

「と、東条先生。あの、仰る意味がわかりません。ど、どういうことでしょうか?」

 青褪めた顔で清水さんが尋ねると、東条先生は愉快そうに笑った。

「おたくの夢見出版じゃレムを創刊しているじゃあないかい。そこの編集さんがこんな様子とはねぇ。しっかりしなさいな」
「大川平助があの『伝染鬼』の登場人物の大川で、先生がその本を持っているって、友人だなんて、ありえないでしょう」
「大川平助は僕の父様で、よき友人なのよぉ」

 緩やかに笑った東条先生の顔は悪辣だった。

「大川って記者は、東条さんのお父さんはどうなったんですか?」

 私の質問に東条先生は少し悲しげに目を伏せた。

「父様はねぇ、僕が十歳の時に死んじまったのさぁ」
「東条さんが十歳の時ってことは、かなり若くして亡くなってる。どうしてですか?」

「父様が死んだのは、悟朗と同じ三十二歳の時さ。
悟朗は知っての通り、鬼形村に行って自分の身に起きた体験談を一冊の本にまとめて自殺した。
自分が亡きあと名誉の自殺が穢されないよう、友人で記者の大川平助に真実を語ってくれとその本を託してねぇ。
それを読んで父様は呪われちまったぁ。
あの手記に書き記された千姫の言葉は、知るだけで障りのある、危険な千姫の呪言だったってわけさぁ」

「じょ、冗談ですよね」

 清水さんが引き攣り笑いを浮かべる。

「いやいや、本当さぁ。父様が言っていた。千姫に呪われたとね。
悟朗の手記を一冊のノンフィクションにまとめて出版するつもりだったけど、父様は断念した。
自分の書いた記事をすべて削除し、悟朗の手記も葬ろうとした。でも、友の遺作を燃やすことはできず、父様は衰弱死する前に手記に『この本を読む人間は心するがいい。読めば最期を迎えることとなる』と一文を足し、僕と母様にもこの手記は大事にとっておくこと、でも決して読まないこと、そう告げて死んでいったよ」

「酷いです、先生! そんな危険な本、アタシに読ませようとするなんて!」

 清水さんがショックを受けた顔で、東条先生に詰め寄った。

「いやいやぁ、最初から呪われた本だって僕は言ったはずだよ。読むことを強要してもいないしねぇ」

「アタシがあの本を読んで『赤い本』をウェブ公開するの、ぜひそうしろって勧めたじゃないですか!」

 清水さんに責め立てられても、東条先生は笑顔を崩さない。

 清水さんはショックに打ちひしがれ、歩美は怯えて真っ青な顔で黙っている。

私も自分の置かれた状況が心底怖かったが、怖がっていても死が近付いてくるだけだと必死に心を奮い立たせた。
何か助かる方法があるはずだ。

「東条さんは、あの本の呪いの言葉を知らないんですか?」
「知ってるさ「○×△■■〇×」だろう。僕も本を読んだからねぇ」
「でも、ちゃんと生きています。清水さんも歩美もそう。助かる方法があるのかも」
「ほうほう。それを探るのは面白いかもしれないねぇ」

 私は必死に考えた。私や真鈴と、歩美や清水さんとの違いを。
 ふっと脳裏に金色の蝶が描かれた黒い櫛が浮かぶ。

「そうだ、金色の蝶の黒塗りの櫛かも」
「黒塗りの櫛って?」
「歩美、最初に見た牢屋の中に千姫がいる夢を見たことを覚えてる?」
「う、うん、覚えてるよ」
「あの時、歩美は足元に落ちている櫛を拾った?」
「拾ってないよ」
「清水さんはどうですか?」
「よく覚えてないけど、ないと思う。少なくとも、その櫛に見覚えがないから」

 東条先生がぽん、と膝を打って楽しそうに笑った。

「なるほどねぇ。僕も櫛を拾ってやらなかった。怪異に畏怖の念を示しているから、彼らのモノには触れないようにしているからねぇ。そうか、櫛を拾った親切者は千姫に呪われちまうってわけだ」

「じゃ、じゃあ、その櫛を除霊してもらえば助かるかもっ!」

 清水さんが明るい声で言ったが、東条先生は鼻で嗤った。

「父様も夢で櫛を拾ってやったと言っていた。その櫛が夢を通じて現に現れた。
悟朗の時とおんなじさぁ。そんで高名な霊能力者様や神社でお祓いしようとしたが、どこも邪悪過ぎて扱ってくれなかったのよぉ。
その櫛は父様の死後、いつの間にか家から消えちまっていたねぇ」

「そ、そんな。で、でも、探せば何とかしてくれる霊能力者さんがいるんじゃないでしょうか。先生、そういうお知り合いはいらっしゃいませんか?」

「霊能力者は何人か知っているけど、いないねぇ」
「ひ、一人ぐらいいませんか?」

「昔ですらいなかったんだよ。科学科学で怖いもんが超自然的なものから逸脱しちまった今、強力な呪物の櫛をどうにかできる者なんざいないさ。ふふ、諦めなぁ」

 怪異小説家でオカルトに詳しい東条先生の重みは真実味を持っていた。

「どうして……」

 思わず呟いた私を、東条先生の切れ長の瞳がじっと見る。

「何故、自分がこんな目に遭うのかってことかい?」

「そ、それもあるけど。どうして、そんな危険なものを、世に出すようなことを貴方はしたんですか?」

 クククククッ。喉の奥から絞り出すように東条先生が笑った。
顔には妖艶な笑みが浮かんでいた。

「怪異は恐ろしいものだと、再び世に知らしめたかったのよぉ」
「そんなこと、どうして」
「人は欲深い生き物だってことだねぇ」

 そう言って笑った彼は、もはや人間には見えなかった。