私は赤い本を閉じ、頭を振った。
「なんなの、これ。小説じゃないの?」
一人称の手記を模した怪奇小説かと思っていたけど、本の最初のページに記してあったように、本当の体験談なのだろうか。だとしたら、気味が悪い。
背筋が冷たくなり、私はぎゅっと自分を抱きしめた。
私が見た夢と同じ夢を悟朗も見ていた。
真っ暗なトンネル、凶器を持った黒頭巾の人物。
本を読んで私が同じ夢を見たのなら本の影響だが、あの夢を見てから本を読んだ。
これはただの夢じゃない。
「伝染鬼、このまま読んでも大丈夫なのかしら?」
私は恐怖に支配された。
とりあえず、赤い本を本棚に戻し、逃げるようにバイトに出掛けた。
夜遅くまで居酒屋で働くと、風呂に入って、本を読むことなくベッドに入った。
その晩、私は夢を見た。
私はあの田舎の村、鬼形村に居た。あたかもそこの住人であるかのように、どこかの家の囲炉裏の前でのんびりとくつろいでいる。
壁の日めくりカレンダーは一九三〇年九月一四日だった。
その時の私はそれがあの忌まわしい事件の日だなんて、まったく思い当らなかった。お茶を啜りながら、ぼんやりと一人で座っている。
窓の外は夜の帳が下りていた。不意に強烈な眠気を感じた。
そろそろ寝ようかと腰を上げて、私は土間に降りた。
そのことを可笑しいとは思わなかった。
土間を裸足で歩き、流しに近付く。そして、しっかり研ぎ澄まされた、洗い立ての刺身包丁を手にした。
それでもまだ、何も可笑しいことはないと思っていた。
刺身包丁を握り、私は家の中をうろつく。
襖の向こう、心地よさそうな鼾が聞こえてくる。私はそっと襖を開けて寝室に入った。
井草の香りがふわりと漂う。
布団の中では老女が心地よさそうに、ぐうぐうと眠っていた。
何故か、私は強烈な殺意を感じた。眠気はいつの間にか吹っ飛んで、意識がはっきりとしていた。それなのに、体がふわふわするような、変な感覚だった。
私は刺身包丁を高々と掲げた。そして、熟睡している老女の体に躊躇なく振り下ろした。
ぐさっ。確かな手ごたえが全身を駆け抜け、脳に伝わる。
「アハハハハハハハッ」
喉の奥から笑い声が迸った。とても爽快で愉快な気分だった。
その夢を見てからだ。私の日常が侵食されたのは。
一人きりの部屋に自分以外の声が聞こえる。はじめは他の階の人間の声が聞こえているのだと思った。
でも、すぐに違うとわかった。
「殺せ、やってしまえ」
キッチンで包丁を握っている時、嬉々とした声が私の耳元で囁いた。
「たすけて、たすけて、たすけて」
パソコンでネットサーフィンをしている時、すぐ背後で息も絶え絶えに誰かが呟いた。
風呂に入っている時、けたたましい笑い声が風呂場で響いた。
あきらかに、隣人の物音とは違う。
そうわかるほど、声は異様に近くで聞こえた。
まるで私の中から聞こえているかのような、そんな聞こえかただった。
それだけじゃない。ちゃんと締めたはずのドアが半開きになっている。
そして、半開きの闇からは何者かの気配が濃く漂っていた。
私は悟朗の体験したこと追体験するようになっていたのだ。
怖くなって、しばらくのあいだ赤い本を読むのをやめた。
前金の五万をもらえば十分だ、これ以上関わるべきではない。そう思ったのだ。
でも、本を読むのをやめても、怪現象は治まらない。日に日に酷くなっている。
いつの間にか、夢で拾ったあの黒塗りの櫛がメイクボックスに入っていた。
近所に買い物に行くときは常にスッピンで、長らく化粧なんてしていなかったから気付かなかった。
「気持ち悪いわね」
私は即座に櫛をゴミ箱に突っ込んだ。
翌朝燃えるごみとして回収された櫛は、気付くとまたメイクボックスにあった。
何度捨てても同じように櫛は戻ってきた。燃やしても、川に流しても櫛は戻ってきた。
次第に私は怖くなってきた。
悟朗はどうなったのだろう。この本を書き終えて製本に漕ぎつけたとなれば、彼は発狂する前、あるいはそれよりもっと恐ろしいことが起きる前に、何らかの解決策を見つけたのではないか。
私はそう期待して、再び本を読むことにした。
「なんなの、これ。小説じゃないの?」
一人称の手記を模した怪奇小説かと思っていたけど、本の最初のページに記してあったように、本当の体験談なのだろうか。だとしたら、気味が悪い。
背筋が冷たくなり、私はぎゅっと自分を抱きしめた。
私が見た夢と同じ夢を悟朗も見ていた。
真っ暗なトンネル、凶器を持った黒頭巾の人物。
本を読んで私が同じ夢を見たのなら本の影響だが、あの夢を見てから本を読んだ。
これはただの夢じゃない。
「伝染鬼、このまま読んでも大丈夫なのかしら?」
私は恐怖に支配された。
とりあえず、赤い本を本棚に戻し、逃げるようにバイトに出掛けた。
夜遅くまで居酒屋で働くと、風呂に入って、本を読むことなくベッドに入った。
その晩、私は夢を見た。
私はあの田舎の村、鬼形村に居た。あたかもそこの住人であるかのように、どこかの家の囲炉裏の前でのんびりとくつろいでいる。
壁の日めくりカレンダーは一九三〇年九月一四日だった。
その時の私はそれがあの忌まわしい事件の日だなんて、まったく思い当らなかった。お茶を啜りながら、ぼんやりと一人で座っている。
窓の外は夜の帳が下りていた。不意に強烈な眠気を感じた。
そろそろ寝ようかと腰を上げて、私は土間に降りた。
そのことを可笑しいとは思わなかった。
土間を裸足で歩き、流しに近付く。そして、しっかり研ぎ澄まされた、洗い立ての刺身包丁を手にした。
それでもまだ、何も可笑しいことはないと思っていた。
刺身包丁を握り、私は家の中をうろつく。
襖の向こう、心地よさそうな鼾が聞こえてくる。私はそっと襖を開けて寝室に入った。
井草の香りがふわりと漂う。
布団の中では老女が心地よさそうに、ぐうぐうと眠っていた。
何故か、私は強烈な殺意を感じた。眠気はいつの間にか吹っ飛んで、意識がはっきりとしていた。それなのに、体がふわふわするような、変な感覚だった。
私は刺身包丁を高々と掲げた。そして、熟睡している老女の体に躊躇なく振り下ろした。
ぐさっ。確かな手ごたえが全身を駆け抜け、脳に伝わる。
「アハハハハハハハッ」
喉の奥から笑い声が迸った。とても爽快で愉快な気分だった。
その夢を見てからだ。私の日常が侵食されたのは。
一人きりの部屋に自分以外の声が聞こえる。はじめは他の階の人間の声が聞こえているのだと思った。
でも、すぐに違うとわかった。
「殺せ、やってしまえ」
キッチンで包丁を握っている時、嬉々とした声が私の耳元で囁いた。
「たすけて、たすけて、たすけて」
パソコンでネットサーフィンをしている時、すぐ背後で息も絶え絶えに誰かが呟いた。
風呂に入っている時、けたたましい笑い声が風呂場で響いた。
あきらかに、隣人の物音とは違う。
そうわかるほど、声は異様に近くで聞こえた。
まるで私の中から聞こえているかのような、そんな聞こえかただった。
それだけじゃない。ちゃんと締めたはずのドアが半開きになっている。
そして、半開きの闇からは何者かの気配が濃く漂っていた。
私は悟朗の体験したこと追体験するようになっていたのだ。
怖くなって、しばらくのあいだ赤い本を読むのをやめた。
前金の五万をもらえば十分だ、これ以上関わるべきではない。そう思ったのだ。
でも、本を読むのをやめても、怪現象は治まらない。日に日に酷くなっている。
いつの間にか、夢で拾ったあの黒塗りの櫛がメイクボックスに入っていた。
近所に買い物に行くときは常にスッピンで、長らく化粧なんてしていなかったから気付かなかった。
「気持ち悪いわね」
私は即座に櫛をゴミ箱に突っ込んだ。
翌朝燃えるごみとして回収された櫛は、気付くとまたメイクボックスにあった。
何度捨てても同じように櫛は戻ってきた。燃やしても、川に流しても櫛は戻ってきた。
次第に私は怖くなってきた。
悟朗はどうなったのだろう。この本を書き終えて製本に漕ぎつけたとなれば、彼は発狂する前、あるいはそれよりもっと恐ろしいことが起きる前に、何らかの解決策を見つけたのではないか。
私はそう期待して、再び本を読むことにした。