けたたましい笑い声でわたしは目を覚ました。

飛び起きたわたしはまっさきに、自分の手を確認した。
わたしの手は鎌など握っていなかった。ほっと胸を撫で降ろす。

 夢でとはいえ、殺人をしてしまった。
あれは人ではなくて幽霊だったかもしれない。
でも、鎌を刺した時の感覚が手のひらにしっかりと残っている。

「ただの、夢だろう」

 弱々しい呟き声に応えてくれる者はいない。
一人というのは、なんて孤独なのか。
誰でもいいから、嫁をとっておくべきだったかもしれない。

 すっかり凝り固まった肩を解そうと、わたしは首を回した。

 その時、きちんと閉めたはずの襖が数センチほど開いているのが見えた。

 隙間というのはよくないものの通り道になりがちだ。わたしは慌てて布団から這い出して、襖を閉めようとした。
 真っ黒な隙間に青いものが浮かんでいる。ビー玉、いや、違う、目玉だ。

「ひいっ」

 情けなく叫んだわたしを嘲笑うかのように、青い目玉は三日月に細められた。
その露悪的な笑みを見たとたん、わたしは意識を失ってしまった。

 
窓の外は光が溢れ、障子から光が透けている。
 いつのまにか、朝になっていた。

「す、隙間を。隙間を失くさねば」

 わたしは譫言のように呟き、目の前の襖に手を伸ばした。

 すると、襖はぴったりと隙間なく閉まっていた。
昨晩、あの隙間が開いていたのは夢だったのか。
夢の中の夢で、わたしは半開きの襖を締めようとして、青い目玉の怪異に出くわしたのだろうか。

 暑くもないのに額にびっしりと汗が浮かんでいた。

 わたしは汗を拭い、離れた場所で乱れている布団に戻った。
その時、奇妙なものに気付いた。枕元に何かが落ちている。

「なんだ、これは。櫛?」

 黒塗りの金の蝶が描かれた美しい櫛だった。

「アナタはもう、ワタシのもの」

 耳の奥で美しくもおぞましく、海の青を宿した瞳の女を思い出した。
紅の鮮やかな着物姿が脳裏に鮮やかに蘇る。

「憑かれたのだな」

 不意に自分の口から洩れた言葉が、心臓を凍えさせた。

 わたしは慌てて黒塗りの櫛を拾い、窓から外に放り投げた。
櫛は放物線を描いて、隣の家の植え込みに消えた。

 わたしは本格的に憑かれたのだ。

 鬼形村の山奥の社の座敷牢にいた、あの紅の着物の美しい女の霊に。
彼女は三鬼家当主の娘、千姫だったに違いない。
 千姫はわたしに憑りつき、何を成そうとしているのか。

「馬鹿な、単なる夢だ。あの櫛は、わたしが無意識のうちに持ち帰っただけだ。それがたまたま、枕元に落ちたのだ」

 釈然としなかった。だが、無理にでもそう納得した。
そうしなければ、狂ってしまいそうだったから。


 しかし、やはりわたしは捕まっていた。


 買い物から帰ってくると、机の上にぽつんと黒塗りの櫛が置いてあった。
わたしは愕然とした。

今朝、確かに捨てたはずだ。それなのに何故―…

 震える指で櫛を手に取った。

窓を開けて捨てるだけではまた戻ってくるかもしれない。
わたしは外に出ると、落ち葉を集めて火を点けた。赤々と燃える炎の中に櫛を放り投げる。

 ひょっとして、消えずに櫛だけ焼け残るのではないか。
戦々恐々としながら火が消えるまで様子を見守っていた。

 完全に火が消えると、燃えかすを火かき棒で掻き回した。そこには黒く焦げた塵があるだけだった。

ああ、よかった。わたしは胸を撫でおろして家に帰った。

 一人きりの家。それなのに気配を感じる。

誰もいない二階でぎしりと床を踏む音がした。筆を止めて、わたしはそそくさと二階に駆けつける。
だが、何もいない。
 気のせいだったかと、また書斎に戻って筆を手にする。すると、今度は台所から水音が聞こえた。
台所に行くと、蛇口から細く水が垂れていた。
きちんと締めたはずなのに。

 わたしの家はお化け屋敷と化してしまった。真昼から奇怪な現象が起きる。
一つ一つの異変は些細なものだ。しかし、こうも続くと気味が悪い。

 夜が来るのが恐ろしい。化け物の時間となったら、家の怪異はさらに激しさを増すのではないか。
不安な気持ちでわたしは夜を迎えた。


 窓の外は紺色の闇に覆われている。
頼りないか細い月と小さな星々が地上に光を注ぐが、なんの慰めにもならない。

わたしは豆電球を点けたまま、早々に床に入った。
いつもならば電気をすべて消して眠るのだが、今は暗闇が恐ろしい。電気を消すことができなかった。

 橙のぼんやりした明かりが闇を柔らかく照らしている。
そのことに安堵を覚えるほど、わたしの心は縮み上がっていた。

 さっさと寝てしまおう。

そう思っている矢先、物音がした。

 コンコンコン

 誰かが窓を叩いている。

こんな夜半に訪問してくるような知り合いはいない。
そもそも、今のわたしと縁のある人間など大川ぐらいだ。

 大川は飄々として破天荒に見えるが常識人だ。少なくとも夜中に突撃訪問してくるような男ではない。

 コンコンコン

 窓を叩く音がさっきよりも大きくなった。

「おるんやろ? あかりがついとるもん、おるんやろ?」

 見知らぬ声がした、幼い子供の声だ。

「ねえ、どうして。どうして?」

 わたしは口の中に溜まった唾を飲み込むと、そっと布団から出て電気を消した。
居留守を決め込むためだったが、これがよくなかった。

 バン、バン、バンッ

 窓を叩く音がきゅうに激しくなる。
 わたしは恐ろしくなり、布団を頭から被った。

「とうさま、とうさま。どうして。いたい、いたいわ。ひどいやん、とうさま」

 断罪する声。恐ろしさに震えていたわたしは、その声に耐えられなくなった。
布団を跳ねのけると、窓を乱暴に開ける。

「悪ふざけはやめろ!」

 叫んだわたしの声が闇に虚しく響いた。

そこには、誰もいなかった。

 首を傾げながら窓を閉め、布団に戻ろうとした。
しかし、奇妙なことが起きていた。布団が小さく膨らんでいるのだ。

「馬鹿な、空っぽに決まっている」

わたしは震える手で布団を捲った。

すると、顔が半分陥没したおかっぱの少女が仰向けに寝転がっていた。
少女は恨みがましい顔でこちらを見上げた。

「とうさま、なんであたしをころしたん?」

 くわっと目を見開き、おさげの少女がとびかかってきた。

わたしは間抜けな叫び声をあげながら後ろにひっくり返った。そのまま恐怖のあまり気を失ってしまった。
 気付くと、わたしは鎌を握っていた。

倒れ込んでなんていないし、場所も自宅の寝室じゃない。
うらびれた路地裏で、握りしめた鎌を無心に振り下ろしている。
ざくん、ざくん、ざくん。なにか分厚いものに刃が刺さる感触。

 わたしは振り上げた鎌から下へと視線を動かした。
冷たい土の上に、真っ赤に染まった大川が転がっていた。

「お前が憎い、お前のせいだ」

 わたしは呪いの言葉を吐きながら、大川に鎌を振り下ろしていた。