鬼形村から戻ると、わたしは自分の体験と村で見知ったことをもとに小説の執筆にとりかかった。

 だが、思うように執筆は進まない。机に向かって一時間経っても、広げた原稿用紙のマス目は埋まらない。

 筆を動かしていないと自分が本格的に堕落していく気がして、小説執筆の傍ら、わたしは鬼形村の旅について詳しく書くことにした。

 原稿用紙を見るのが苦痛だったので、鬼形村の旅行記は別紙に書くことにした。
日記帳サイズの白い紙に、体験を書いていく。
書き終えたら表紙をつけて紐で綴じて、一冊の本に纏めてみるのも面白いだろう。

 体験談の執筆は驚くほど捗った。

「このくらいにしておくか」

 意図的に体験談の執筆を中断し、また原稿用紙を広げた。
筆を握っているうちに、だんだんと意識が研ぎ澄まされていく。

書ける、今なら書けるぞ。

気分が盛り上がってきた時、パッと目の前が暗闇に包まれた。

「な、なんだ?」

いきなり部屋の電気が消えたのだ。でも、何故?

窓の外は暗闇だが星が煌めいているし、周囲の家の窓は煌々と光を放っている。雷や強風で電線が切れたわけじゃない。かといって、ブレーカーがいきなり落ちたとも考えにくい。

暗闇にねっとりと絡みつくような、嫌な気配を感じた。

トンネル。ここは、あの幽鬼の村に続くトンネルなのか。
ふと、そんなふうに思った自分にぞっとする。

冗談じゃない、あんな恐ろしい体験は二度とごめんだ。

筆を置いて立ち上がった。
バチッと音がして、部屋の天井に再び電気が灯る。

「なんだ、ただの故障だな」

 殊更明るく呟くと、わたしは再び筆を執った。

 しばらくして、今度は奇妙な笑い声を聞いた。
鈴を転がすような、女の高く美しい笑い声だ。
しかし、その笑い声はどこか悪辣な響きを孕んでおり、耳にしているだけで頭痛がしてきた。

 笑い声に混じって耳鳴りがした。奇妙な雑音が耳の中でしている。
まるで、頭の中に何者かが侵入して呟いているような、そんな音の聞こえかただった。

 背筋がざわざわとする。足の指の先や背中がむず痒いような気がして、わたしは肌を掻き毟った。
だが、掻くとむずむずは違う場所に移動してしまい、いつまでたっても奇妙な痒みはおさまらない。
 おまけに雑音は次第に大きくなっていき、それに比例して搔痒感も増す。

「○×△■■〇×」

 奇妙な言葉が聞こえた。どこかで聞いたことがある、奇妙な言葉。

「○×△■■〇×」

 ああ、そうだ。鬼形村の山の中、橋を渡った向こうにポツンとある奇妙な社にいた、美しい女が呟いた言葉だ。

「○×△■■〇×」

 いつの間にか、わたしはそう呟いていた。
すると、鬱陶しい掻痒感は消え去り、雑音も止んでしまった。
 再びわたしは筆を執り、字句を記す。

 小説じゃない。わたしが書き綴っていたのは鬼形村での恐怖体験と、今起きている奇怪な出来事だった。
ほとんど無意識で手が動いている、自動書記のようだ。体験を書き記せと見えない何かに命じられているのかもしれない。


 その晩、わたしは奇妙な夢を見た。

夢の中のわたしは、あのトンネルにいた。
無明の闇の中、わたしはぽつねんと立ち尽くしていた。

 何をしているのか、どうしてここにいるのか、わからない。どのくらいの時間、この暗闇に抱かれていたかも。
 真っ暗闇を光が切り裂いた。

これは希望の光ではない、終末だ。何故だか、わたしはそう感じた。

光はチカチカと点いたり消えたりを繰り返す。

その感覚がどんどん狭まっていき、やがて頼りない橙色の光として闇に居ついた。
ふと、光の中に何かが浮かんでいる。

青白く細長い何か。蛇、いや、違う。あれは人だ。頭の部分がないので蛇に見えたけれど、手足がある。

それにわたしが気付いた瞬間、それもわたしに気付いたようだ。
ぬううっと滑るような奇妙な動きでそれはわたしに肉薄した。

心臓がバクバクと音を立てる。それの手には、大きな鎌が握られていた。その鎌には見覚えがあった。
そうだ、あれは働き者だったわたしの母が愛用していた、草刈り鎌だ。

しかし、近付いてきたそれはわたしの母ではなさそうだ。
母のような、枯れ木の体格ではない、もっといかつい、幽霊とは思えない健全な体格をしている。

頭に黒い頭巾を被っていて顔を隠しているが、恐らく男だろう。肌は病的に青白く乾いている。健全な体格とその肌の差がかえって気味悪さを増していた。

黒頭巾が鎌を振り上げた。

殺される。恐怖したわたしはとっさに叫び声をあげ、黒頭巾の幽霊に飛びかかった。いつの間にか、わたしの手にはそれが持っていた鎌が握られていた。

ざくん。

肉を切る感触が手のひらから全身に伝わる。

「はははははははっ、はははははははっっ!」

 笑い声がトンネルに木霊した。
 笑っていたのは他でもない、わたし自身だった。