淋しい道をひとり歩くこと十五分、すっかり潮の匂いが遠ざかり、目の前に山が立ち塞がった。

 山のど真ん中には黒い口のようなトンネルがある。

 トンネルの前に立つと、異様に冷たい空気が漂ってきた。
九月とは思えない、真冬のような無機質でしんとした冷気だ。

 トンネルの長さは不明だ。向こう側がまったく見えない。
ともすれば、永遠に続いているのではないかと思える、不気味な黒く濃い闇が待ち構えている。

 なるほど、肝試しの連中が二の足を踏むのも理解できる。

「まあ、怪奇小説家には恐れるに足りずだがな」

 わたしは軽やかな足取りでトンネルに足を踏み入れた。

 濃密な闇が全身を包み込む。
昼を過ぎたばかりだが、電灯が点いていないトンネルの中は真っ暗だ。
足元はガタガタな上にところどころぬかるんでいる。懐中電灯を持ってくればよかった。

 ワイドラペルの濃茶のテーラードジャケットのポケットから、ライターを取りだす。
ほんの小さな灯だが、いくぶんか心強い。
わたしは後退しかけた歩を前に進めた。

 歩いているうちに急速に時間の感覚が失われていった。
何メートル歩いたのか、いつから歩いているのかわからなくなる。
もうずっと前から、混迷の道を歩んでいるような気がして、胸に隙間風が吹いた。

 戻れなくなる、そんな予感がしたのだ。

「おいで、こっちへ。おいで」

 不意に誰かの声がした。高く美しいが、幽かな女の声だった。

 立ち止まって辺りを見回すが、誰もいない。
トンネルを吹き抜ける風の音だったのだろうか。孤独を紛らわそうと、脳が錯覚を起こしたのかもしれない。

 呼ばれているのならば、いかねばならない。

 奇妙な勇気を得たわたしは、勇み足でトンネルを更に進んだ。

 すると不思議なことに、終わりが見えなかったトンネルに光が差した。出口が見えたのだ。
 トンネルを抜けると、過去にタイムスリップしたかのような村が現れた。

「ここが鬼形村か」

 真壁造りの民家、草葺き屋根、広々とした田畑、舗装されていない狭い砂地の道。森に囲まれ、高低差のある鬼形村の風景はあまりに古めかしく、どこか忌まわしい光景に映った。

 人の気配どころか生き物の気配がない、死んだような村。それなのに、何故だがわたしは何者かの息遣いを感じていた。

 空が遥か遠くに感じる。太陽が燦々としているというのに、透明な黒いフィルムを被せたかのように、すべてがいつもよりもワントーンほど薄暗く見える。

 わたしは砂利道をのそのそと歩き、点在する家をいくつか見送って、庭に琵琶の木がある一軒の平屋に入った。ぱっと見荒れておらず、ほどよい広さだったので、そこを今晩の宿にすることにした。

玄関には鍵がかかっていなかった。

中に入って驚いた。家具は座布団から桐箪笥までそろっており、食器棚には茶碗や湯呑みまである。茶の間の隣の部屋には布団まで敷いてあった。埃が落ちているが、長いあいだ無人だったにしてはきれいで、まるで少し前まで誰かが暮らしていたようだ。

水道からは透明な水がでた。食器棚から湯呑みを拝借して軽く濯ぎ、一口水を飲んでみた。美味しい水だった。

「無料の宿としては上出来じゃないか」

 わたしは荷物を置いて、上機嫌で外に出掛けた。

 さて、怪奇現象に襲われるにはまだ日が高い。
村全体が歴史博物館みたいでなかなか面白いし、ひとまずいろんな建物に入ってみようか。

 そう、わたしは作家なんぞとして活躍していたにも関わらず、愚かにも創造力が不足していたのだ。
 日が高いイコール怪異は起こらない。
そんなの、先入観に過ぎなかったというのに。

 ぶらぶらと村を歩き、背よりも高い犬柘植の生垣に囲まれた大きな屋敷に入った。

小さいが池があり、荒れているけど躑躅や馬酔木などの花もたくさん植わっている。
狭苦しい都会の一軒家に引き籠っていたわたしは、久しぶりに触れる自然にすっかり浮足立っていた。

観光気分で、仁連打ちの飛び石を歩いて離れの茶室に向かう。
 茶室の中を見て、わたしは言葉を失った。

 茶室の炉には釜が置いてあり、茶碗が一つ置いてあった。
茶碗のなかには濃い抹茶が白い湯気を立てている。

「ど、どういうことだ……」

 無人の村のはずだ。それなのに、何故。

 歓迎されているのか。それとも悪意か。どちらにせよ、恐ろしい。

 わたしは茶室を飛び出した。とくに恐ろしいものを見たわけじゃない。それなのに、心臓が早鐘を打っていた。

 落ち着け、誰かの悪戯に違いない。

 そう言い聞かせて自分を宥めようとしたが、気持ちはいっこうに落ちつかない。

誰が、何の目的で。そもそもこの村に人などいるのか。
おもてなしだと受け止めるべきか。
あの茶は飲んでも大丈夫なのか。
様々な疑問が胸中に渦巻く。

 見なかったことにするんだ。

 最終的にはなにもかも放棄して去るのが正しいと判断し、茶室に背を向けた。


 その時、ぎい、ぎいと奇妙な音がした。

 振り返ってはいけない。
そう思う心と裏腹に、わたしの首は後ろを向いていた。
茶室から見える場所に、一本の立派な松が植わっている。

 太い松の枝に、だらんとなにかがぶら下がっていた。

 松からぶら下がっていたのは、白い着物姿の人間だった。

白髪まじりの長い髪が風に靡いて、隠れていた顏が露わになる。

飛び出した眼球、ぽかんと開いた口、紫色の唇からだらんと垂れ下がった青紫の舌。
世にも醜く恐ろしい顔に身の毛がよだつ。

「あ、あ……」

 思わず呻き声が漏れた。

 わたしの声を聞きつけたかのように、虚空を見ていた目玉がぎょろりと動いた。
目玉がはっきりとわたしを見つめる。

「おぉ、く、に、くる……くく、るぅ!」

 首を吊った女が大音量で叫んだ。

「わああぁぁぁぁぁっ」

 雷鳴のような女の野太い声が怖くて、わたしは転げるように庭から逃げ去った。
 ずらりと続く犬柘植の生垣を走り抜け、さっきの屋敷から遠く離れた田んぼ道でわたしは足を止めた。

 荒い息を宥め、わたしはまた歩き出した。

 まさか、いきなり怪異に出くわすとは。

 怪奇小説を得意とする小説家だというのに、あんなに驚いてしまって情けない。
あの体験を小説にするつもりで、もっと怪異を見極めればよかった。

 ジャケットのポケットから手帳をだし、胸ポケットのペンを手に取るとわたしはすぐにさっきの出来事をメモし、自分の感情を書き留めた。
怖い経験はきっと小説の糧になる。もっと、集めなければ。

 奇妙な高揚を感じ、足取りが軽くなる。

恐ろしい目に遭ったばかりだというのにあんな気持ちになったということは、わたしはあの時、もう既に魔に魅入られていたのかもしれない。

だが、久しぶりに創作の神様が降臨しそうだと浮かれていたわたしの頭は、身の危険を察知する能力を完全に失っていた。

 
 次に通りかかった家は小さなあばら家だった。玄関の木戸は大きな獣に引っかかれたかのような四本の傷があった。

「巨大な熊でも出たのか?」

 この傷の位置からすると、二メートル以上の熊が出たことになる。
だが、熊が引っ掻いたにしてはきれいだ。熊の仕業なら、何か所もひっかき傷があるだろう。

 いったい何の仕業か。

 その疑問はすぐに解けた。玄関の木戸を開けたところに、備中鍬が立てかけてあったのだ。
その刃先はどす黒く汚れていた。棒の部分にも黒い手の痕がある。
鍬を手に玄関の外に出る。木戸の傷に合せてみると、刃の感覚が一致した。

 この備中鍬は凶器だ。

 わたしは備中鍬を放り捨てて、早々にあばら屋を立ち去った。


 その後も、嫌なものをいくつも見た。

 犬柘植に囲まれた大きな屋敷で見たような奇妙な怪異には出くわさなかったものの、いくつもの民家で、不吉な血痕を発見したのだ。

 台所の竈の夥しい血、どす黒く汚れた手毬サイズの庭石、血の染みが広がった寝室の布団、赤黒い染みのある卓袱台。こんな小さな村で、血生臭い事件が起こったであろう民家を何軒も目撃するなんて。

「鬼形村では昭和初期、村中で人が死んだ。刺殺された人、撲殺された人、病死した人が多数出たんだとさ。
残った村人は半数を切っていたらしい。
いったい何が起こったのかさっぱりだそうだ。
隣町の警察が通報を受けて出動すると、村人は鬼が出たって真っ青な顔で口をそろえて言ったんだそうだ。
事件以来、村は怪奇まみれになって、とうとう誰もなくなっちまったのさ」

 大川が飄々と語った物語を思い出し、背筋が冷たくなった。

 鬼が出て滅んだといわれている村に今、わたしはいる。

 この村で何が起きたのだろうか。この村の奇談とわたしの体験を小説にしたら、いい作品になるのではないだろうか。大川はそれを狙って、わたしをこの村に導いたのか。

 期待に応えなければならない。

わたしは決意を新たに、村の散策を続けた。

 民家の日記、村役場に残った資料、尋常小学校に併設された図書室の書物を漁り、わたしは村について調べた。

 そして、千姫《ちひめ》の話に辿り着いた。
千姫は鬼形村で一、二を争う名家の三鬼(みき)家の末娘であり、その身に鬼を宿していたそうだ。

 わたしが現地調査で知り得た情報をここに記す。


 千姫は幼少期より異様に聡明であり、生まれたと同時にもう喋れたそうだ。
半年もすれば立って歩き回り、二歳になれば文字の読み書きをこなせるようになった文武両道の才女であり、容姿も非常に美しかったという。

 彼女の大きな瞳は海の青を閉じ込めていた。
赤子の頃はその瞳は魔物の化身だ、鬼だと恐れられていたが、五歳ともなれば、才能と美しさ故に神の目と神聖視され、恐れられることは少なくなっていた。

 彼女の周りではよく人が狂った。
彼女と同じ年頃の大人しい性格だった子が凶暴になって友人を怪我させたり、発狂したりすることが何度も起きた。
彼女が十歳にもなると、男女問わず彼女の美しさに惑わされ、彼女にかしずいたり、彼女を奪い合って血みどろの争いを広げたりしたそうだ。

 自分のせいで狂っていく人々を前にしても、千姫は優美な笑みを崩さなかった。

 やがて、彼女は鬼の子なのではないかという噂が蔓延した。
普段は淑やかだが、ひとたび自分に害をなした相手には容赦なく、彼女に噛みついた野犬や猫を殺したり、気に喰わない人に暴力を振るったりすることがたびたびあったの加えて、彼女の特異な瞳の色が彼女は鬼子であるという噂に信憑性を持たせた。

 千姫が十五歳の頃、村で流行り病が起きた。
そこかしこで死者が出た中、三鬼家だけは親戚筋も含めて誰一人として病に倒れることはなかった。

 村人は千姫を怪しんだ。千姫は妖怪や妖術に興味を持ち、怪異に関する書物を取り寄せては読みふけっていた。
それらの書物を通して神通力が開花したか、あるいは妖術を身に着けたのかは分からないが、とにかく千姫が流行り病の原因だという噂が流布され、あっという間に狭い村は三鬼家に対する疑心暗鬼に染まった。

「娘はやはり鬼に憑かれた鬼子であった、神の手に委ねる」

 三鬼家当主の千姫の父は家や他の家族を守るため、千姫を切り捨てることにした。

そして千姫は十五歳の初秋、山奥にある吊り橋を渡った先の小さな社に監禁されることになったのだ。

 そうして何年もの時が流れた。
村人の日記によると、風の静かな日は、深い山から千姫の歌声が聞こえてくる。
その歌声に魅せられて、何人もの村人が千姫のいる座敷牢を訪れたそうだ。

わたしが読んだ日記の主の息子も、何度叱っても千姫の元を訪れるのをやめなかったと、愚痴混じりに記してあった。

 一九三〇年九月十四日の夜、奇怪な事件が起きた。村中で同時刻に何件もの殺人事件が起き、殺人が起きた数だけ突然死が起きて、村人の三分の二に近い人間が一晩で死亡する、世にも奇妙な事件だった。

 日記の主の息子も、その日に父親(日記の主の夫)と殺し、間もなく病死した。

 怪事件の同日、千姫も死亡していた。座敷牢の中で美しい姿のまま、眠ったように死んでいたそうだ。



 これ以上詳しいことは書いていなかったので、わたしにはわからない。

一九三八年五月二十一日に岡山県で起きたかの有名な津山三十人殺しについての知識はあったが、M県で一九三〇年九月十四日にこんな奇妙な大量殺人と死が起きていたことなど、はじめて知った。

きっとこの事件はあまりにも奇抜で、箝口令が敷かれたのだろう。
でなければ、怪異小説を愛し、自らも手掛けてきたわたしが知らないはずがない。

消滅した鬼形村の噂など、大川はどこで手に入れたのだろうか。
流石は全国を飛び回る敏腕記者だ。わたしは大川の手腕に改めて感心した。

村人が残した手記からしか情報は得られなかったが、わたしは大川が知る以上の情報を手に入れた。
これを教えたら、やつはきっと喜ぶだろう。

「疲れたな、そろそろ戻るか」

 わたしは根城とした家に向かった。