数年後、月が――月に基づく暦が変わったのは、海の向こうからもたらされた、新しい文明によるものだった。
 月の居場所に取って代わって国を統べる暦の役目を担うようになったのは、太陽だ。
 明るく正しく、闇を打ち払う光。
 海辺に住むようになった者たちから伝えられる知識は、今まで宵の紗に隠されていた物事の仕組みを白昼の下に引きずり出した。
 神秘は解きほぐされ、信仰は迷信へと堕ちる。
 月の理を生きるよすがとし、人々の畏れを糧としていたあやかしたちは行き場を失い、残された闇を己の棲みかとしようと争っては諍いをやめない日々が続いている。
 
「お父様、またお怪我なさってる」
「ああ……保護しようとしたんだがな、引っ掻かれた」
 
 縁側で新聞を読んでいた父の腕を見咎めた小夜子に、苦笑いが返ってきた。袖から覗く肌には猫又にやられた生傷がくっきりと赤く残っている。小夜子はお神酒を含ませた綿を当てて手当てを始めた。
 いとけない幼子から少女へと成長した小夜子の手際が良いのは彼女の生来の気質に加え、何度もこうした治療を繰り返しているからだ。
 
「あまりご無理なさらないで」
「けどなあ……人間の都合で行き場を失ったあやかしたちだ。せめて、俺にできることがあるならしてやりたいのさ」
 
 イテテ、と顔をしかめる父は小夜子が心配して覗き込んだ途端に明後日の方角を向いて口笛を吹く。
 
「もう、ふざけないで」
「ふざけてなんかいないさ。まあ、格好つけたことを言ったが、俺の――いや、お前のためでもあるからな」
 
 小夜子は手早く包帯を巻きながら視線で続きを促す。
 
「畏れを失ったあやかしはごく一部の強いものを覗いて消えてしまう。俺たち香々瀬の家だって、星神様が信仰を失ったら淫祠邪教の類と一緒くたにされてお取り潰しだ。そういう意味でも夜に生きるもの同士、一蓮托生だ。いわば夜という同じ家に棲む家族さ」
「家族……」
「そう、家族だ。ああ、今のは外にコレ、な」
 
 父は人さし指を立てて口元に添えた。内緒話を示す仕草に、小夜子は言わずもがなと頷く。
 あやかしや信仰がひとを惑わせる流言蜚語の類と一緒くたにされる世の中において、こんな話を耳ざとく聞き付けられてはたまったものではないだろう。
 
「まあ猫又なんてちょっとばかり特技が多くて長生きするだけの猫だし、俺が面倒みてやらなくてもちゃんと生きていけるとは思うんだが……そうも言ってられないのが多いからなあ」
「それらすべてをお父様がどうにかしてあげようだなんて無理なお話よ」
「わかってるさ。ただなあ……恐ろしいものが、本当に追い詰められたら何をするかわからん。だからこれは――そう、先回りのお節介だ」
 
 そう低く続けた父親の横顔に刻まれた皺がひどく深刻に見える。お神酒を含んだ綿は冷たく、小夜子の体温を奪っていく。
 
「……元から恐ろしいものって?」
「ん……人間に悪さをするあやかしは多いが……まあ――この場合は鬼、かな」
「鬼」
 
 おうむ返しに呟いた小夜子の脳裏に過ぎったのは、昔話で語られる角を生やした巨大な体躯だ。
 確かに恐ろしい存在ではあるが、猫又や女郎蜘蛛と違って、力も強く伝承も多彩な鬼はそう易々と窮地に陥るあやかしではないだろう。
 そう考えた小夜子の思考を読み取ったのか、父は「桃太郎の鬼みたいにただの腕っぷしが強い乱暴者ならいいんだがな」と一言加えた。
 
「鬼は賢い。そして一度目をつけられると厄介だ。だから関わらないに越したことはない。だが、俺たちは香々瀬だ。鬼の星とて粗略にはできんさ」
「鬼の星?」
「そうさ。あの星に月が宿る日、それは――」
 
 言いかけて、父は言葉を切った。
 
「と、父様……」
「小夜子?」
  
 小夜子が泣き出しそうな情けない声で父を呼んだからだ。
 立ち上がりかけた父はぎこちなく足元を指す小夜子の指を追って訝しげに下を向いた。「あ」と発して小夜子の意図を理解する。
 尻尾が二股に分かれた仔猫が、小夜子の足にすりすりと顔を寄せていたのだ。
 
「猫又だ」
「さっき引っ掻かれた?」
「わからん。とりあえず保護だっ」
 
 言うや否や、ばっと両腕で仔猫を確保した父の勢いに乗せられて動けるようになった小夜子も慌てて手拭いを掻き集めて手伝いに入る。
 
「小夜子は凄いな! 俺の頑張りはなんだったんだ。さてはお前……またたびでも持ってるな?」
「もう! そんなわけないじゃないですか! あっ父様、増えてる! おっきいのとちっちゃいの!」
「おい、こりゃ猫又とは違うような……」
「きゃああ、足、足に、いっぱい、すりすりって」
「もしかしてスネコスリか?」
「知らないっ」
 わらわらと集まり始めたあやかしに囲まれて、小夜子と父はあっちこっちに駆け回る。
 何かを聞きそびれてしまったことすら忘れて、小夜子はこけつまろびつ父の後をついて走った。