天狗山から見下ろす玖多留の海は、今日は普段より幾分穏やかだった。
そして、その海は、かつての海から少しずつ姿を変えている。
港町の傍から海に向かって灰色の線が伸びている。それこそがヒカリが作り続けてきた防波堤だった。こうして海の上に見えるのは、ヒカリが作ったコンクリートの箱の一部で、実際は海の底までずっと伸びているらしい。
ヒカリはそれを海の壁と表現していたけど、出来上がった部分はどちらかというと海の道のように見えた。
まるで、ヒカリの築いてきた歩みが、道として海へと伸び続けているような。というのは、流石に贔屓目が過ぎた表現かしら。
今日もその道を伸ばすために、大きなコンクリートの箱――ケーソンというらしい――が海へと漕ぎ出している。
「いやあ。こうやって建設現場を見るのも新鮮ですねえ」
そのヒカリは、私の隣でお弁当をぱくついている。この玖多留の港の建設の総責任者という立場になったヒカリだけど、こうしてみると出会った頃と何も変わらない。もっとも、十年近い年月は相応の皺をその顔に刻んでいたけど。
「所長ともあろう人が、完全に物見遊山気分なのね」
「仕方がないでしょう。部下たちが所長は山から現場を見ていろと言ってきかなかったんですよ」
苦笑を浮かべてはいるものの、ヒカリの顔にはまんざらでもない様子がにじみ出ている。
これまで、コンクリートの箱を海に沈めて据え付ける作業のときは、ヒカリは必ず現場の最前線で様子を見守り、何か起これば解決するまで指示を飛ばしていた。
玖多留の荒れる海では少しの想定外が事故につながるからそうせざるを得ないのらしいけど、最近は作業員たちも慣れてきたようで、働き詰めの所長に休みをあげようということになったらしい。
休めと言ってもきかないから、考え出した策が「山の上から現場を監督する」というものだったらしい。人間とは面倒くさいものだと思うけど、その面倒くささの裏に透ける互いの愛情が今は可愛く見えるから不思議だった。
「あのケーソンという箱を水に浮かせた状態で防波堤の端まで持っていって、箱の中に海水を入れて沈めた後、石や砂を詰めて安定させます」
海へと漕ぎ出していくケーソンを見ながらヒカリが語る。ヒカリがここで築き上げてきたものは諳んじることができるくらいに聞いてきたし、この場所から変化を見届けてきた。
何より、港について語っているヒカリはどこまでも楽しそうで、目を閉じればその表情をいつだって思い出すことができる。
「あ、この魚美味しい。ほんのり甘みがきいてますね」
「焼く前に一晩酒粕に漬け込んでみたの。母がよくやっていたわ」
「へえ、これならイカを漬けても旨みがでるかもしれませんね」
ヒカリはホクホク顔で弁当箱の中身をつまむ。昔からおにぎりと漬物はヒカリの役割だが、それ以外の具材は私が作るようになっていた。
こんな日々が来るなんて、夢にも思わなかった。柔らかい春の陽気のような日々に胸が暖かくなる。だけど、時折その陽だまり冬の忘れ物のような冷たい風が吹き込んでくる。不意打ちのような寒気に身がぶるりと震えた。
「ナギサさん、どうしました?」
いつの間にか、ヒカリが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
ああ、昔からかなわない。この人は、昔から胸に秘めようとした心の内をすくっと掬い上げてしまう。
「こんな時間がいつまでも続けばいいと思えば思うほど、その後の逃れられない日々のことを思って辛くなるの」
遠く、玖多留の海を見る。いつまでも変わらないと思った海には、荒波から港を守る壁ができている。やがて人はこの海にも大きく乗り出していくのかもしれない。
変わらないと思っていたものでさえ変わっていくのだから、移ろいゆく者の変化はきっとあっという間だろう。
「僕と一緒になったこと、後悔してますか?」
「まさか。きっと人は、永遠に冬の時代を生きていくことはできないわ。春の温かさを知っているから、寒さを絶え凌ぐことができるの」
ヒカリが私を抱き寄せる。その温もりに包まれると、胸のうちに吹き荒ぶ北風がゆるりとほどけていく。この暖かさがいつまでもともにあったならと思うけど、春はいつまでも続かない。
「ナギサさんに、一つお願いがあります。もしかしたら残酷なお願いになるかも知れません。だけどこれは、ナギサさんにしかお願いできないことなのです」
そして、その海は、かつての海から少しずつ姿を変えている。
港町の傍から海に向かって灰色の線が伸びている。それこそがヒカリが作り続けてきた防波堤だった。こうして海の上に見えるのは、ヒカリが作ったコンクリートの箱の一部で、実際は海の底までずっと伸びているらしい。
ヒカリはそれを海の壁と表現していたけど、出来上がった部分はどちらかというと海の道のように見えた。
まるで、ヒカリの築いてきた歩みが、道として海へと伸び続けているような。というのは、流石に贔屓目が過ぎた表現かしら。
今日もその道を伸ばすために、大きなコンクリートの箱――ケーソンというらしい――が海へと漕ぎ出している。
「いやあ。こうやって建設現場を見るのも新鮮ですねえ」
そのヒカリは、私の隣でお弁当をぱくついている。この玖多留の港の建設の総責任者という立場になったヒカリだけど、こうしてみると出会った頃と何も変わらない。もっとも、十年近い年月は相応の皺をその顔に刻んでいたけど。
「所長ともあろう人が、完全に物見遊山気分なのね」
「仕方がないでしょう。部下たちが所長は山から現場を見ていろと言ってきかなかったんですよ」
苦笑を浮かべてはいるものの、ヒカリの顔にはまんざらでもない様子がにじみ出ている。
これまで、コンクリートの箱を海に沈めて据え付ける作業のときは、ヒカリは必ず現場の最前線で様子を見守り、何か起これば解決するまで指示を飛ばしていた。
玖多留の荒れる海では少しの想定外が事故につながるからそうせざるを得ないのらしいけど、最近は作業員たちも慣れてきたようで、働き詰めの所長に休みをあげようということになったらしい。
休めと言ってもきかないから、考え出した策が「山の上から現場を監督する」というものだったらしい。人間とは面倒くさいものだと思うけど、その面倒くささの裏に透ける互いの愛情が今は可愛く見えるから不思議だった。
「あのケーソンという箱を水に浮かせた状態で防波堤の端まで持っていって、箱の中に海水を入れて沈めた後、石や砂を詰めて安定させます」
海へと漕ぎ出していくケーソンを見ながらヒカリが語る。ヒカリがここで築き上げてきたものは諳んじることができるくらいに聞いてきたし、この場所から変化を見届けてきた。
何より、港について語っているヒカリはどこまでも楽しそうで、目を閉じればその表情をいつだって思い出すことができる。
「あ、この魚美味しい。ほんのり甘みがきいてますね」
「焼く前に一晩酒粕に漬け込んでみたの。母がよくやっていたわ」
「へえ、これならイカを漬けても旨みがでるかもしれませんね」
ヒカリはホクホク顔で弁当箱の中身をつまむ。昔からおにぎりと漬物はヒカリの役割だが、それ以外の具材は私が作るようになっていた。
こんな日々が来るなんて、夢にも思わなかった。柔らかい春の陽気のような日々に胸が暖かくなる。だけど、時折その陽だまり冬の忘れ物のような冷たい風が吹き込んでくる。不意打ちのような寒気に身がぶるりと震えた。
「ナギサさん、どうしました?」
いつの間にか、ヒカリが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
ああ、昔からかなわない。この人は、昔から胸に秘めようとした心の内をすくっと掬い上げてしまう。
「こんな時間がいつまでも続けばいいと思えば思うほど、その後の逃れられない日々のことを思って辛くなるの」
遠く、玖多留の海を見る。いつまでも変わらないと思った海には、荒波から港を守る壁ができている。やがて人はこの海にも大きく乗り出していくのかもしれない。
変わらないと思っていたものでさえ変わっていくのだから、移ろいゆく者の変化はきっとあっという間だろう。
「僕と一緒になったこと、後悔してますか?」
「まさか。きっと人は、永遠に冬の時代を生きていくことはできないわ。春の温かさを知っているから、寒さを絶え凌ぐことができるの」
ヒカリが私を抱き寄せる。その温もりに包まれると、胸のうちに吹き荒ぶ北風がゆるりとほどけていく。この暖かさがいつまでもともにあったならと思うけど、春はいつまでも続かない。
「ナギサさんに、一つお願いがあります。もしかしたら残酷なお願いになるかも知れません。だけどこれは、ナギサさんにしかお願いできないことなのです」