「いらっしゃい、美桜先輩」
巽の家に行くと、満面の笑顔で迎えてくれる。
「上がって、お茶でも飲みます?」
「お願い。喉渇いてたの」
そう言いながら巽とすれ違った時だ。
「……他の男の臭いがする」
巽が低く言う。何のことかすぐに思いつかなくて固まっていると、彼はぐるると低く唸りはじめた。
顔つきが人のそれから、どんどん獣に変わっていく。
「待って待って、狼が出てきてるから! びっくりするから!」
突然のことに驚いて大声が出る。
巽は神狼の血筋で、感情が昂ぶると狼になってしまうのだ。
「何で他の男の臭いがする」
めちゃくちゃキレていらっしゃる。
美桜は今日あったことを必死に思い出す。男性、男性と接触。あれだ!
完全に狼の姿になってしまった巽を前に何とか弁解する。
「今日、お姉ちゃんの婚活の日で付き添いに行ってたの。そしたらお相手の方が視覚障害者の方で危ないところだけ誘導のお手伝いをしたのよ。そのときだわ!」
「美佳さんの、婚活……?」
とりあえず怒りのピークは過ぎたらしい。
「そう、あなたに養われるくらいなら養ってくれる伴侶を見つけてやるって意気込んでるわ」
「なんだ、そうか……」
心底安堵したように呟く。
「どうしよう、かなり怒っちゃったんで人間の姿に戻るのに時間掛かりそうです」
「ごめんなさい。私もシャワー浴びてくれば良かったわね。借りてもいいかしら?」
お泊まりセットは持ってきている。
「もちろんです。待ってる間に戻ると思います」
愛情表現として頭を撫で首に抱きつく。
「よし、待っててね。タオル借りるわ」
物干し竿に干されているタオルを拝借し、シャワーを浴びる。
身体を洗いながら、巽が神狼だと知った時のことを思い出す。
八百万の神様が実在して、この日本で一緒に暮らしていることは知識として知っていた。しかし彼らは滅多と正体を明かさない。唯一伴侶と認めたもの――番と呼ばれる存在にだけ教えるのだという。
美桜は巽の番だそうだ。いまいちピンときていないのだが、巽は初めて一緒に仕事をしたときに気がついたのである。
愛情表現が時に苛烈で、美佳のことを養うと言ったのも、それを楯に結婚を迫ったのもその一環だろう。
二回目に仕事をした後、三本の赤いバラを渡されて告白された。
意味は「愛しています」「告白」である。とにかく驚いた。自分好みの後輩からいきなり告白されて舞い上がりもした。
その時に聞かされたのだ。八百万の神々の一柱、神狼の血筋であると。実際に狼の姿になってみせてくれて更に驚いた。
そして自分が巽に釣り合うか悩み、結局告白を受け入れたのである。
付き合ってからこの半年、美佳が不安定でとにかくジェットコースターのような精神状態だった。番というのは見定めたら一生離すことはないという習性に感謝しながら、治療のため多少おざなりに対応してしまった。
その時には姉のことを話すという選択肢はなかった。巽は良家のお坊ちゃんでもある。家のごたごたを耳に入れたくなかったのだ。
偶然にではあるが事情を説明出来たお陰で話が進展している。美佳も好きな人が見つかるといいな、と思った。
シャワールームから出て部屋着に着替えスキンケアをしていると、人間の姿に戻った巽に抱き締められる。
「お茶用意しました。ご飯も用意しましょうか」
「そうね、お腹減ってきたかも。ご飯はなに?」
「ローストビーフです」
えっ、と思った。あんな手間の掛かるものをと巽の顔を見る。
「ふっふっふ、先輩。我が家にはなんと電気調理鍋があります。低温調理ばっちこいです。準備するんで座っててください」
お言葉に甘え、ダイニングテーブルに座りお茶をいただく。
巽の1LDKのマンションは親の持ち物だそうで、キッチンが広くて使いやすそうだった。
彼はローストビーフをカットして野菜とソースと一緒にさらに盛り付けている。パンがトーストされていい匂いがしていた。最後にスープを用意している。
「お待たせしました。本日のディナーです」
「うわあ、美味しそう。いただきます!」
「召し上がれ」
ローストビーフとレタスをフォークで口に運ぶ。ほどよい食感とソースの味がとてもいい。
「美味しいわ! 白狼くんすごいのね」
「電気調理鍋のお陰ですよ」
「私も欲しくなっちゃうなぁ」
目の前の席で食べていた巽がふっと笑う。
「美桜先輩が結婚してくれたら使いたい放題ですよ」
「お姉ちゃんの婚活が一段落してからね」
そう言うと、巽はリビングのチェストからビロードの小箱を取り出した。これは、もしかしなくても。
「結婚は後でもいいです。でも正式に申し込みさせてください。坂本美桜さん、好きです。結婚してください」
リングケースに入っていたのは大粒の石をあしらった指輪だった。
「これ、婚約指輪?」
「はい。家に伝わるものを美桜先輩に合わせて直してもらいました」
綺麗な指輪だ。平々凡々の顔の美桜に似合うだろうか。
「左手、貸してください」
左手を差し出すと、すっと薬指に指輪を通される。
ひどく満足そうな巽に胸が熱くなった。
「指輪、大切にするわ。お受けします」
食事が残っているので続きを食べる。
「思ったんだけど、美佳さんの本交際決まったら俺らとグループデートしませんか?」
「いいけど、またどうして」
そういう付き合いにはあまり興味がないように思っていた。
「すごい烏滸がましいこと言いますけど、先輩と美佳さんにはご両親や頼れる親族がいません。俺が美佳さんの義弟として、美佳さんのお相手が本当にいい人か見極めたいです。そうじゃないと美桜さん、俺と安心して結婚してくれなさそう」
「それは、すごく、そう」
もう美桜がいなくても大丈夫だと思える人ではないと安心出来ない。姉を犠牲にしたままひとり幸せになることは無理だ。
「なので、グループデートです」
「わかったわ。お姉ちゃんにも言っておく」
とても良い提案に思える。
正直美桜も美佳も男性慣れしていない。いい人と思って変なのを掴まされるくらいなら、巽にあれこれ口出ししてもらった方が安心だと思った。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
シンクへ食べ終わった皿を下げる。このマンションにはビルドイン食洗機があり、予洗いして放り込めば後始末は完了だ。
「白狼くん、シャワー浴びておいでよ。洗い物やっておくから」
「え、なんか悪いです」
洗い物をしようとする巽を脱衣所に押しやる。
「いいのよ、そういうことしたいんでしょ」
上目遣いで見つめると、巽は真っ赤になって脱衣所のドアを閉めた。
「ど、ど、ど、どこで覚えてきたんです、そんなこと!」
「あなたが教えたんじゃない」
高校と大学をなるべく姉に負担を掛けないよう通うため、給付型奨学金を目指し努力した。結果は振るわなかったが、ガリ勉とバイトで恋愛をしたことはなかったのである。
大抵の巽に刺さる仕草は、彼を見て勉強した。方向性は間違っていなかったようで安堵する。
キッチンに戻ると洗い物をした。食洗機のスタートボタンを押したところで、巽がシャワーから出てくる。全裸で。
はいはい仕方ないわね、と一歳だけの姉さん風を吹かしふたりは寝室に消えた。