翌日の朝、私は完全に寝不足でした。昨夜の出来事があまりにも強烈で、忘れることができなかったからです。だけどあれはやはり夢だったのでしょう。目覚めたとき、斜め向かいのベッドからはあの、タンが絡まったようながらがらという寝息が聞こえていました。おばあさんが寝たきりだということを再確認した私は、自分が作り出した幻聴・幻覚に苦しめられていただけに違いありません。とんだ入院生活になってしまったわけですが、私はこれでようやく解放されることとなりました。
いよいよ退院です。入院したときと同じように、退院には母が付き添ってくれました。気味の悪い病室から一刻も早く出ようと、ナースステーションで母が退院手続きをしている間、私は手早く荷物をまとめていました。けれど視線は、斜め向かいのベッドにどうしてもいってしまいます。サイドボードの上の菓子や果物を片づけ終わったとき、なぜか罪悪感に駆られました。おばあさんのベッドは、相変わらずカーテンで覆われていました。
「終わったわよ。帰りましょう」
病室に入ってきた母は、なぜかちらりと斜め向かいのベッドを見ました。
「うん、ありがとう。早く行こう」
まさかおばあさんに挨拶でもするのではないかと気が気ではなかった私はそう言って、急かすように母を病室から追い立てました。
結局は私の金縛りが原因であり、おばあさんに罪はなかったのですが、最後までおばあさんに対する恐怖心を払拭することができなかったのです。二週間、病室を共にしてきたおばあさんには申し訳なく思いましたが、いちども姿を見てもいないのだから仕方ない、認知症なのだからどうせわからないと、自分を正当化するように言い聞かせていました。
本館に向かって整形外科病棟の廊下を歩きながら、しかし私は母から信じられないような話を聞かされていました。
「おばあさんが転んだ?」
私は怪訝と眉根を寄せ、足を止めました。
一歩前に出る形となった母が振り返ります。
「ええ。なんでもトイレで転んだらしいわ」
母が言うには、私と相部屋だったあのおばあさんが昨晩、トイレで転んで大変だったらしいのです。退院手続きをしているときに、ナースステーションでそう聞いたそうです。
私は顔を強張らせました。
「……そんなはずないよ」
冷や汗が額から、つうっと顎に向かって伝い落ちます。
「なんで?」
きょとんとする母に向かって、私は思わず金切り声を上げていました。
「あのおばあさんは背中を骨折していて自力では動けないんだから!」
荒い息をつきながら、恐怖に歪んだ顔で母を見つめます。それはあり得ないことだったからです。だって私は何度となく、オムツを取り替える際のおばあさんの糞尿のにおいを嗅がされていたのですから。そんなおばあさんが、トイレになど行けるはずがありません。
母はしばらく唖然としていましたが、ややあって我に返ったのか、私の肩を抱くように手を回してきました。
「落ち着いて……ね?」
気づけば廊下を行き交う患者さんや看護師さんたちが、何事かと私たちに視線を向けていました。私は恥ずかしくなり、顔をうつむけました。
「なんでもないことよ」
母は私を連れ、回廊に続く扉に向かって歩き始めました。私も無意識に足を踏み出していましたが、母が最後につぶやいた台詞は耳に残っていました。
「でも確かにそう聞いたんだけど……」
信じられませんでした。だからもうすぐ扉に差しかかるというところで、私はそっとうしろを振り返りました。そこで私はすぐに、自分の行いを後悔することになります。
私が二週間過ごした病室から、白髪を振り乱したおばあさんがこちらに向かって半身をのぞかせていたからです。
私は大きく息を呑みました。
遠目にしかわからなかったのですが、白地に青い模様の入った浴衣姿は忘れようがありません。間違いなく昨晩、私を襲ったおばあさんだったのです。
怖くなった私は母の手を引き、足早に入院病棟をあとにしました。もう関わりたくなかったので、母に何か言うこともありませんでした。
この話はあれ以来、初めて公開することになります。
あれは本当に相部屋のおばあさんだったのか、それともほかのおばあさんがあの部屋にはいたのか、寝たきりのおばあさんが本当に転んだのか――今でも謎のままですが、これだけは確かに言うことができます。
私はもう、あの病院の整形外科に入院することはないでしょう。
問題のN病院ですが、入院病棟は建て替えられたそうです。
<了>
いよいよ退院です。入院したときと同じように、退院には母が付き添ってくれました。気味の悪い病室から一刻も早く出ようと、ナースステーションで母が退院手続きをしている間、私は手早く荷物をまとめていました。けれど視線は、斜め向かいのベッドにどうしてもいってしまいます。サイドボードの上の菓子や果物を片づけ終わったとき、なぜか罪悪感に駆られました。おばあさんのベッドは、相変わらずカーテンで覆われていました。
「終わったわよ。帰りましょう」
病室に入ってきた母は、なぜかちらりと斜め向かいのベッドを見ました。
「うん、ありがとう。早く行こう」
まさかおばあさんに挨拶でもするのではないかと気が気ではなかった私はそう言って、急かすように母を病室から追い立てました。
結局は私の金縛りが原因であり、おばあさんに罪はなかったのですが、最後までおばあさんに対する恐怖心を払拭することができなかったのです。二週間、病室を共にしてきたおばあさんには申し訳なく思いましたが、いちども姿を見てもいないのだから仕方ない、認知症なのだからどうせわからないと、自分を正当化するように言い聞かせていました。
本館に向かって整形外科病棟の廊下を歩きながら、しかし私は母から信じられないような話を聞かされていました。
「おばあさんが転んだ?」
私は怪訝と眉根を寄せ、足を止めました。
一歩前に出る形となった母が振り返ります。
「ええ。なんでもトイレで転んだらしいわ」
母が言うには、私と相部屋だったあのおばあさんが昨晩、トイレで転んで大変だったらしいのです。退院手続きをしているときに、ナースステーションでそう聞いたそうです。
私は顔を強張らせました。
「……そんなはずないよ」
冷や汗が額から、つうっと顎に向かって伝い落ちます。
「なんで?」
きょとんとする母に向かって、私は思わず金切り声を上げていました。
「あのおばあさんは背中を骨折していて自力では動けないんだから!」
荒い息をつきながら、恐怖に歪んだ顔で母を見つめます。それはあり得ないことだったからです。だって私は何度となく、オムツを取り替える際のおばあさんの糞尿のにおいを嗅がされていたのですから。そんなおばあさんが、トイレになど行けるはずがありません。
母はしばらく唖然としていましたが、ややあって我に返ったのか、私の肩を抱くように手を回してきました。
「落ち着いて……ね?」
気づけば廊下を行き交う患者さんや看護師さんたちが、何事かと私たちに視線を向けていました。私は恥ずかしくなり、顔をうつむけました。
「なんでもないことよ」
母は私を連れ、回廊に続く扉に向かって歩き始めました。私も無意識に足を踏み出していましたが、母が最後につぶやいた台詞は耳に残っていました。
「でも確かにそう聞いたんだけど……」
信じられませんでした。だからもうすぐ扉に差しかかるというところで、私はそっとうしろを振り返りました。そこで私はすぐに、自分の行いを後悔することになります。
私が二週間過ごした病室から、白髪を振り乱したおばあさんがこちらに向かって半身をのぞかせていたからです。
私は大きく息を呑みました。
遠目にしかわからなかったのですが、白地に青い模様の入った浴衣姿は忘れようがありません。間違いなく昨晩、私を襲ったおばあさんだったのです。
怖くなった私は母の手を引き、足早に入院病棟をあとにしました。もう関わりたくなかったので、母に何か言うこともありませんでした。
この話はあれ以来、初めて公開することになります。
あれは本当に相部屋のおばあさんだったのか、それともほかのおばあさんがあの部屋にはいたのか、寝たきりのおばあさんが本当に転んだのか――今でも謎のままですが、これだけは確かに言うことができます。
私はもう、あの病院の整形外科に入院することはないでしょう。
問題のN病院ですが、入院病棟は建て替えられたそうです。
<了>