退院を翌日に控えた夜、私はなかなか眠ることができませんでした。早く家に帰りたくて、遠足前の子供のようにわくわくしてしまい、まったく寝つけなかったのです。
病室の中ではいつも通り、空調機の音と秒針を刻む時計の音、そしてタンが絡まったようながらがらというおばあさんの寝息が聞こえていました。おばあさんの寝息は今夜も例外なく耳につきましたが、最後だと思うとある意味では名残惜しくも感じられていました。
仰向けに寝そべっていた私は、もう見飽きた天井をなんとはなしに見つめていました。格子模様に黒の斑点のある天井もこれで見納めです。明日からは自室の天井を見上げられる――そう思うとうれしくて仕方がなく、余計に眠れなくなりました。
どのぐらいそうして天井を見上げていたかはわかりません。とにかく真夜中過ぎまで興奮していた私は突然、身体が動かせなくなったのです。
(私、いつ眠ったんだろう……?)
それは明らかに金縛りと似た症状でした。意識ははっきりしているのに、身体が休止状態にあるらしいのです。でも私は、自分が眠ったかどうか覚えていませんでした。むしろ天井の模様を記憶に留めるように見つめている最中だったので、起きているはずだとさえ断言できました。
さらにかろうじて目だけはなぜか動かすことができるようで、視野は狭かったのですが、周囲を見渡せました。それでも仰向けに寝そべっている状態なので、天井以外に見えるのは右側にある無機質な色のカーテンと、左側に置かれているサイドボードだけです。
目は動くにもかかわらず何もできないことにだんだんと怖くなってきた私は、看護師さんに助けを求めようと、ナースコールに手を伸ばそうとしました。けれどやはり手は動かせないようで、何度やっても何かに抑えつけられているような圧迫感が伴い、うまくいきません。
じわりと身体が熱くなっていき、汗腺という汗腺から汗が噴き出していることがわかりました。なぜなら私の耳に、入院初日の夜に感じたあの息づかいが聞こえてきたからです。
すう、はあ。すう、はあ。
呼吸は荒々しく、何か急いているようでした。
(おばあさん、起きたのかな?)
この時点では、私はまだこの症状を金縛りだとは決めつけていませんでした。自分が映し出す夢にしては現実的過ぎたのです。起きたらしいおばあさんに、ナースコールを押して欲しいと助けを求めようと思ったほどでした。だけど喉が詰まっているようで、声は声にならず、うめくこともできません。
すう、はあ。すう、はあ。
それはこの前と同じように、こちらに近づいている気がしました。
私はすぐに、この呼吸の主はおばあさんではないと思いました。おばあさんは背中を骨折して寝たきりなのだから、よく考えればわかることだったのです。
このとき私は、おばあさんが訴え続けていた「この部屋に女がいる」という言葉を思い出していました。やはりこの病室には、私とおばあさんのほかに何かいるのでしょうか。
恐怖を押し殺して耳を澄ませると、空調機のぶうんという音とカチコチ鳴る時計の音は確かに聞こえてきたのですが、何かが足りないのです。そうです、おばあさんの寝息がぴたりとやんでいました。やはりおばあさんは、間違いなく起きているらしいのです。
(じゃあこの息づかいは……やっぱりおばあさん――?)
すう、はあ。すう、はあ。
荒々しい呼吸に混じって、やがてぺたぺたという足音も聞こえるようになりました。おそらく裸足なのでしょう。
完全に怖くなった私は、無意識のうちに心の中で例の金縛りの際の儀式を行っていました。
(大丈夫、大丈夫)
すう、はあ。すう、はあ。
ぺた、ぺた。ぺた、ぺた。
(おばあさんが、こっちに向かってきている……!?)
恐怖が私を襲います。寝たきりのはずのおばあさんが、ゆっくりとではありますが、確実に私のベッドを目指して歩いてきているのです。
すう、はあ。すう、はあ。
ぺた、ぺた。ぺた、ぺた。
(大丈夫、大丈夫……これもきっと夢に違いないのだから)
自分の中にある矛盾を押さえ込み、私はこれを金縛りと決めつけることにしました。明日が楽しみ過ぎて、きっといつの間にか寝入っていたに違いありません。
すう、はあ。すう、はあ。
ぺた、ぺた。ぺた、ぺた。
(大丈夫、大丈夫、これは夢、これは夢!)
早く目を覚まそうともがきながら、私は念仏を唱えるように必死にそう繰り返していました。それでも呼吸音と足音は近づく一方です。
すう、はあ。すう、はあ。
ぺた、ぺた。ぺた、ぺた。
(大丈夫、大丈夫、これは夢、これは夢、大丈夫、大丈夫、これは夢、これは夢!!)
右側に眼球を動かせば、無機質な色のカーテンがふわりと揺らいだ気がしました。
途端に間近に迫っていた呼吸音がやみ、足音も聞こえなくなったのです。
私はほっと息をつきました。未だに身体は動かせませんでしたが、どうやら儀式が効いて恐怖は去ってくれたようです。あとは目を覚ますときを待つだけ――そう思っていた私は左側に気配を感じて目を向けました。
もし声が出たならば、病院中に届く悲鳴を上げていたでしょう。
私の隣に、いつの間にかおばあさんが寝ていたのです。おばあさんはシミと皺だらけの顔を悪鬼のように歪め、私を見つめていました。
(なんで!? どこから入ったの!?)
私は混乱していました。まったくもってあり得ない事態だったからです。白髪を振り乱したおばあさんの頬はげっそりとこけていて、今にも死んでしまいそうな様相を呈していました。明らかに斜め向かいのおばあさんと同じくらい、九十代に見えました。
(でも、おばあさんが歩けるはずない! なら、この人は誰!?)
すう、はあ。すう、はあ。
おばあさんは真横で呼吸をしており、私の顔に生温かい息を吹きかけてきます。やはりあの呼吸音の主はおばあさんだったのでしょうか。しかし入院初日にはおばあさんはいなかったはずなので、不思議なことだらけでした。
「う……うぅ……」
私が思考をフル回転させている間に、おばあさんの口が開き、ぽっかりと開いた真っ黒の空洞から、うめき声が漏れ出てきました。血管の浮いた目をかっと見開き、恨みがましくわたしを見つめています。
(おばあさん、お願い! あっちへ行って!)
「うぅ……う、うう……」
私の願いも虚しく、おばあさんはうめきながらゆっくりと身体をこちらに向けてきました。そして枯れ木のようにしなびた腕をこちらに伸ばしてきたのです。浴衣の寝間着の袖からのぞくおばあさんの腕はとても細く、今にも折れてしまいそうなほどがりがりでした。
「うう……ぅ……う……」
(おばあさん……いや……やめて――!!)
おばあさんは骨張った手を私の首にかけました。そして老婆にはあり得ないような力で、ぐっと締めつけてきたのです。
(くぅっ……!?)
痛くて苦しくて、身体を動かせないとわかっていても、私は懸命にもがきました。手足を必死にばたつかせ、動かそうとします。
「ううぅ……!!」
けれどおばあさんは、さらに力を込めてきます。
(苦しっ……お願いっ……やめ……て……!!)
私は出せない声を必死に振り絞りました。
いつの間にか馬乗りになっていたおばあさんは、左手で私の首を締めながら、右手をなぜかサイドボードに伸ばしていました。
「うう……う……う……」
おばあさんも苦しそうに見えるのは、気のせいだったかもしれません。とにかく私はこの状態を解くことに必死だったので、ひたすらにもがき続けていました。悪鬼のごときおばあさんの顔が怖くて怖くて、一刻も早く抜け出したかったのです。
(大丈夫、大丈夫!)
「うぅ……っ」
(これは夢、これは夢!)
金縛りだと信じて、私は儀式を再開しました。ほかの言葉は苦しくてなかなか言えなかったのですが、儀式の言葉だけはすんなりと言うことができました。
「ううぅ……う……ぅ……」
ぎゅうっと、おばあさんが私の首をさらに強く締めつけてきます。白地に青い模様の入った浴衣を着たおばあさんは、首筋も鎖骨部分もげっそりと痩せこけていました。そして相変わらず私のサイドボードに腕を伸ばしているのです。まるで何かを取ろうとしているかのようにも見えました。でも私はそれどころではありません。
(大丈夫、大丈夫、これは夢、これは夢!!)
「大丈夫、これは夢!!」
声に出して言えるようになった途端、ぱっとおばあさんの姿が消えました。
私は荒い息をつきながら、動かせるようになっていた手で首をさすります。確かにおばあさんの指が食い込んだ痕跡があり、私の背筋はぞっと寒くなりました。
上体を起こした私は、サイドボードの上を確認しました。そこには父と母が毎日のように持ってくる差し入れの菓子や果物が載ったままです。
(まさかいつもお腹を空かせているおばあさんが、これを取ろうとしていたのでは……?)
そして毎日のように見舞いのくる私に対して恨みを抱いていたのではないか――そう思うと怖くなり、私は布団を頭から被りました。これで金縛りが起きようと起きまいと、布団の中なら安全だと思ったからです。おばあさんの寝息がやはり聞こえないままであることも、私は無視することに決めました。そうしてほとんど眠れないままに、時間だけが過ぎていったのです。
病室の中ではいつも通り、空調機の音と秒針を刻む時計の音、そしてタンが絡まったようながらがらというおばあさんの寝息が聞こえていました。おばあさんの寝息は今夜も例外なく耳につきましたが、最後だと思うとある意味では名残惜しくも感じられていました。
仰向けに寝そべっていた私は、もう見飽きた天井をなんとはなしに見つめていました。格子模様に黒の斑点のある天井もこれで見納めです。明日からは自室の天井を見上げられる――そう思うとうれしくて仕方がなく、余計に眠れなくなりました。
どのぐらいそうして天井を見上げていたかはわかりません。とにかく真夜中過ぎまで興奮していた私は突然、身体が動かせなくなったのです。
(私、いつ眠ったんだろう……?)
それは明らかに金縛りと似た症状でした。意識ははっきりしているのに、身体が休止状態にあるらしいのです。でも私は、自分が眠ったかどうか覚えていませんでした。むしろ天井の模様を記憶に留めるように見つめている最中だったので、起きているはずだとさえ断言できました。
さらにかろうじて目だけはなぜか動かすことができるようで、視野は狭かったのですが、周囲を見渡せました。それでも仰向けに寝そべっている状態なので、天井以外に見えるのは右側にある無機質な色のカーテンと、左側に置かれているサイドボードだけです。
目は動くにもかかわらず何もできないことにだんだんと怖くなってきた私は、看護師さんに助けを求めようと、ナースコールに手を伸ばそうとしました。けれどやはり手は動かせないようで、何度やっても何かに抑えつけられているような圧迫感が伴い、うまくいきません。
じわりと身体が熱くなっていき、汗腺という汗腺から汗が噴き出していることがわかりました。なぜなら私の耳に、入院初日の夜に感じたあの息づかいが聞こえてきたからです。
すう、はあ。すう、はあ。
呼吸は荒々しく、何か急いているようでした。
(おばあさん、起きたのかな?)
この時点では、私はまだこの症状を金縛りだとは決めつけていませんでした。自分が映し出す夢にしては現実的過ぎたのです。起きたらしいおばあさんに、ナースコールを押して欲しいと助けを求めようと思ったほどでした。だけど喉が詰まっているようで、声は声にならず、うめくこともできません。
すう、はあ。すう、はあ。
それはこの前と同じように、こちらに近づいている気がしました。
私はすぐに、この呼吸の主はおばあさんではないと思いました。おばあさんは背中を骨折して寝たきりなのだから、よく考えればわかることだったのです。
このとき私は、おばあさんが訴え続けていた「この部屋に女がいる」という言葉を思い出していました。やはりこの病室には、私とおばあさんのほかに何かいるのでしょうか。
恐怖を押し殺して耳を澄ませると、空調機のぶうんという音とカチコチ鳴る時計の音は確かに聞こえてきたのですが、何かが足りないのです。そうです、おばあさんの寝息がぴたりとやんでいました。やはりおばあさんは、間違いなく起きているらしいのです。
(じゃあこの息づかいは……やっぱりおばあさん――?)
すう、はあ。すう、はあ。
荒々しい呼吸に混じって、やがてぺたぺたという足音も聞こえるようになりました。おそらく裸足なのでしょう。
完全に怖くなった私は、無意識のうちに心の中で例の金縛りの際の儀式を行っていました。
(大丈夫、大丈夫)
すう、はあ。すう、はあ。
ぺた、ぺた。ぺた、ぺた。
(おばあさんが、こっちに向かってきている……!?)
恐怖が私を襲います。寝たきりのはずのおばあさんが、ゆっくりとではありますが、確実に私のベッドを目指して歩いてきているのです。
すう、はあ。すう、はあ。
ぺた、ぺた。ぺた、ぺた。
(大丈夫、大丈夫……これもきっと夢に違いないのだから)
自分の中にある矛盾を押さえ込み、私はこれを金縛りと決めつけることにしました。明日が楽しみ過ぎて、きっといつの間にか寝入っていたに違いありません。
すう、はあ。すう、はあ。
ぺた、ぺた。ぺた、ぺた。
(大丈夫、大丈夫、これは夢、これは夢!)
早く目を覚まそうともがきながら、私は念仏を唱えるように必死にそう繰り返していました。それでも呼吸音と足音は近づく一方です。
すう、はあ。すう、はあ。
ぺた、ぺた。ぺた、ぺた。
(大丈夫、大丈夫、これは夢、これは夢、大丈夫、大丈夫、これは夢、これは夢!!)
右側に眼球を動かせば、無機質な色のカーテンがふわりと揺らいだ気がしました。
途端に間近に迫っていた呼吸音がやみ、足音も聞こえなくなったのです。
私はほっと息をつきました。未だに身体は動かせませんでしたが、どうやら儀式が効いて恐怖は去ってくれたようです。あとは目を覚ますときを待つだけ――そう思っていた私は左側に気配を感じて目を向けました。
もし声が出たならば、病院中に届く悲鳴を上げていたでしょう。
私の隣に、いつの間にかおばあさんが寝ていたのです。おばあさんはシミと皺だらけの顔を悪鬼のように歪め、私を見つめていました。
(なんで!? どこから入ったの!?)
私は混乱していました。まったくもってあり得ない事態だったからです。白髪を振り乱したおばあさんの頬はげっそりとこけていて、今にも死んでしまいそうな様相を呈していました。明らかに斜め向かいのおばあさんと同じくらい、九十代に見えました。
(でも、おばあさんが歩けるはずない! なら、この人は誰!?)
すう、はあ。すう、はあ。
おばあさんは真横で呼吸をしており、私の顔に生温かい息を吹きかけてきます。やはりあの呼吸音の主はおばあさんだったのでしょうか。しかし入院初日にはおばあさんはいなかったはずなので、不思議なことだらけでした。
「う……うぅ……」
私が思考をフル回転させている間に、おばあさんの口が開き、ぽっかりと開いた真っ黒の空洞から、うめき声が漏れ出てきました。血管の浮いた目をかっと見開き、恨みがましくわたしを見つめています。
(おばあさん、お願い! あっちへ行って!)
「うぅ……う、うう……」
私の願いも虚しく、おばあさんはうめきながらゆっくりと身体をこちらに向けてきました。そして枯れ木のようにしなびた腕をこちらに伸ばしてきたのです。浴衣の寝間着の袖からのぞくおばあさんの腕はとても細く、今にも折れてしまいそうなほどがりがりでした。
「うう……ぅ……う……」
(おばあさん……いや……やめて――!!)
おばあさんは骨張った手を私の首にかけました。そして老婆にはあり得ないような力で、ぐっと締めつけてきたのです。
(くぅっ……!?)
痛くて苦しくて、身体を動かせないとわかっていても、私は懸命にもがきました。手足を必死にばたつかせ、動かそうとします。
「ううぅ……!!」
けれどおばあさんは、さらに力を込めてきます。
(苦しっ……お願いっ……やめ……て……!!)
私は出せない声を必死に振り絞りました。
いつの間にか馬乗りになっていたおばあさんは、左手で私の首を締めながら、右手をなぜかサイドボードに伸ばしていました。
「うう……う……う……」
おばあさんも苦しそうに見えるのは、気のせいだったかもしれません。とにかく私はこの状態を解くことに必死だったので、ひたすらにもがき続けていました。悪鬼のごときおばあさんの顔が怖くて怖くて、一刻も早く抜け出したかったのです。
(大丈夫、大丈夫!)
「うぅ……っ」
(これは夢、これは夢!)
金縛りだと信じて、私は儀式を再開しました。ほかの言葉は苦しくてなかなか言えなかったのですが、儀式の言葉だけはすんなりと言うことができました。
「ううぅ……う……ぅ……」
ぎゅうっと、おばあさんが私の首をさらに強く締めつけてきます。白地に青い模様の入った浴衣を着たおばあさんは、首筋も鎖骨部分もげっそりと痩せこけていました。そして相変わらず私のサイドボードに腕を伸ばしているのです。まるで何かを取ろうとしているかのようにも見えました。でも私はそれどころではありません。
(大丈夫、大丈夫、これは夢、これは夢!!)
「大丈夫、これは夢!!」
声に出して言えるようになった途端、ぱっとおばあさんの姿が消えました。
私は荒い息をつきながら、動かせるようになっていた手で首をさすります。確かにおばあさんの指が食い込んだ痕跡があり、私の背筋はぞっと寒くなりました。
上体を起こした私は、サイドボードの上を確認しました。そこには父と母が毎日のように持ってくる差し入れの菓子や果物が載ったままです。
(まさかいつもお腹を空かせているおばあさんが、これを取ろうとしていたのでは……?)
そして毎日のように見舞いのくる私に対して恨みを抱いていたのではないか――そう思うと怖くなり、私は布団を頭から被りました。これで金縛りが起きようと起きまいと、布団の中なら安全だと思ったからです。おばあさんの寝息がやはり聞こえないままであることも、私は無視することに決めました。そうしてほとんど眠れないままに、時間だけが過ぎていったのです。