手術がぶじ成功に終わり、病室に戻ったのは昼過ぎだったと思います。その間に私の病室には患者さんが増えていたようです。
見舞いにきていた父と母が帰り、ベッドでひとりきりになると、看護師さんが私のため以外にも頻繁に出入りしていることがわかりました。相変わらず隣や向かいに人の気配は感じられなかったのですが、斜め向かいのベッドが埋まったらしいのです。これで夜、金縛りに遭うことはないかなと安堵していたのも束の間のこと、私はすぐにひとりのほうがましだったのではないかと思うようになりました。
「あ、ああ~あー……」
「はいはい、痛いですね。少し我慢してください」
術後すぐなので上体は起こせなかったのですが、看護師さんとその患者さんがやり取りする声は聞こえてきました。私は天井を見つめながら、じわじわやってくる首の違和感を忘れるために耳をそばだてていました。
どうやら斜め向かいのベッドには、寝たきりの患者さんがいるようでした。衣擦れ音がしたのち、ぷうんと糞尿のにおいが漂ってきたので、オムツを交換しているのでしょう。
「この部屋はいやなんだよぅ」
「はいはい、もう少しで終わりますからね」
斜め向かいの患者さんは細くかすれた声をしていて、認知症が入っているのか、看護師さんとの会話が噛み合っていないことが多かったのです。看護師さんの対応もかなりお年を召された方を相手にするような感じだったので、相手はいわゆる〝おばあさん〟なのだと想像がつきました。
「この部屋はいやだ! なんかいやな感じがする!」
おばあさんは急に叫び出しました。
私は驚いて、ぼんやりしていた目をぱっちりと開けました。
看護師さんがおばあさんをなだめます。
「ほかの患者さんもいるから、静かにしましょうね」
するとおばあさんは、さらに叫び声を上げました。
「この部屋には女がいる! 女がいる!」
私は自分のことだと思って心臓を跳ねさせたのですが、看護師さんは慣れているのか落ち着いたものでした。
「そうですね。女の人の部屋ですから、女の人はいますよ」
しかしおばあさんは、なおも興奮した様子でした。
「そうじゃない! 女がいる! 女がいるんだ!!」
別の意味で怖くなった私は、手探りでサイドボードのイヤホンを取りました。この日は術後で疲れていたこともあり、テレビの音を聞きながら深い眠りに落ちていったのです。
ところで私の母は、毎日のように見舞いにきてくれました。その都度、私の欲しい物や差し入れを持ってきてくれるので本当にありがたかったです。
「おばあさん?」
「しー!!」
母の声は決して大きくはなかったのですが、私は強く制しました。耳を澄ませると、斜め向かいのベッドにいるおばあさんは寝ているようで、タンが絡まったようながらがらとした寝息が聞こえてきたので安心しました。
それでもリンゴの皮をむいていた母は手を止め、私に顔を寄せてきました。
「そのおばあさんがどうかしたの?」
「どうもこうも――」
私はこの数日、気が滅入っている理由を声を潜めて母に話して聞かせました。
認知症のおばあさんは、一日に何度も看護師さんを困らせていました。そのたびにあのやり取りが起こるので、私はうんざりしていました。おばあさんは今もまだ、しきりに「この部屋に女がいる」と訴え続けていたのです。そもそもここは整形外科の病棟なのに、認知症の人の対応をせざるを得ない看護師さんには心から同情してしまいます。またオムツ替えの際の糞尿のにおいも相変わらずで、これではひとりきりの部屋のほうがずっとよかったと私はすっかり辟易していました。
しかし母の答えは呆気ないものでした。
「ふうん。でも大部屋なんだから、仕方ないでしょう」
「まあ、そうなんだけど……」
「あともう少しで退院なんだから、我慢しなくちゃね」
母はそう私を励ますと、ウサギの形にむいてくれたリンゴを手渡してきます。愚痴を共有してくれない母にむっとしながらも、私は素直にリンゴを受け取りました。病院食は不味過ぎるということはなかったのですが、味気ないことは確かだったので、新鮮なフルーツはとてもおいしく感じられました。
そうしていくつかウサギのリンゴをほおばっていたところ、斜め向かいのベッドのほうから唐突に、すすり泣きが聞こえてきたのです。
「う……うぅ……」
いつの間にか、がらがらという寝息は消えていました。
私と母はぎょっとして、声の主に目を向けました。カーテンはぴっちりと閉じられていましたが、それは間違いなくあのおばあさんの声だったのです。
「うう……ぅ……お腹すいたよぅ……うう……」
ささやくような小さな声なのに、病室にほかに誰もいないせいか、何を言っているのかはっきりと私と母の耳に届きました。
どうやら糞尿のにおいがここまできていたように、リンゴの甘いにおいもあちらに漂っていたのでしょう。母は気まずそうに私を見てから、包丁やお皿を片づけ始めました。
数日間このおばあさんと同じ病室にいてわかったことですが、おばあさんに親族や身近な人はいないようでした。当然、見舞いにも誰もきません。背中を骨折しているらしく、一日ベッドに寝たきりなのです。さすがに夜中にまでわずらわされることはありませんでしたが、がらがらというタンが絡まったような寝息はやはり耳につきます。
私のほうは自分ひとりで歩き回れるまでに回復していましたが、おばあさんのベッドはなぜかいつもカーテンでしっかりと覆われているので、その姿を見たことはありませんでした。ただ九十代とは聞いていたので、思っている以上に〝おばあさん〟なのでしょう。
そんなおばあさんはいつもお腹を空かせているらしく、二言目には必ず空腹を訴えていました。食事が配られたとき、ガツガツと忙しなく食べる様子が伝わって、居たたまれない気持ちになります。いちどなど、あまりに急いで食べていたのか、斜め向かいにもかかわらず、おばあさんが落とした器がこちらにまで弾け飛んできたことがあったほどです。
私のサイドボードには父や母が持ってきてくれた菓子や果物がたくさん載っていましたが、おばあさんのサイドボードにはきっと必要最低限の物しか置かれていないのでしょう。トイレやリハビリでおばあさんのベッドを通り過ぎるたび、なんだか申し訳なく思いましたが、私にできることは何もないので、早く退院の日がきて欲しいと願っていました。
そうして二週間が経過していき、首も順調に回復していたので、私はいよいよ翌日に退院することが決まったのです。入院初日以来、いちども金縛りに遭うことがなかった私がしかし、一生忘れられない体験をすることになるとは……このときは考えてもいませんでした。
見舞いにきていた父と母が帰り、ベッドでひとりきりになると、看護師さんが私のため以外にも頻繁に出入りしていることがわかりました。相変わらず隣や向かいに人の気配は感じられなかったのですが、斜め向かいのベッドが埋まったらしいのです。これで夜、金縛りに遭うことはないかなと安堵していたのも束の間のこと、私はすぐにひとりのほうがましだったのではないかと思うようになりました。
「あ、ああ~あー……」
「はいはい、痛いですね。少し我慢してください」
術後すぐなので上体は起こせなかったのですが、看護師さんとその患者さんがやり取りする声は聞こえてきました。私は天井を見つめながら、じわじわやってくる首の違和感を忘れるために耳をそばだてていました。
どうやら斜め向かいのベッドには、寝たきりの患者さんがいるようでした。衣擦れ音がしたのち、ぷうんと糞尿のにおいが漂ってきたので、オムツを交換しているのでしょう。
「この部屋はいやなんだよぅ」
「はいはい、もう少しで終わりますからね」
斜め向かいの患者さんは細くかすれた声をしていて、認知症が入っているのか、看護師さんとの会話が噛み合っていないことが多かったのです。看護師さんの対応もかなりお年を召された方を相手にするような感じだったので、相手はいわゆる〝おばあさん〟なのだと想像がつきました。
「この部屋はいやだ! なんかいやな感じがする!」
おばあさんは急に叫び出しました。
私は驚いて、ぼんやりしていた目をぱっちりと開けました。
看護師さんがおばあさんをなだめます。
「ほかの患者さんもいるから、静かにしましょうね」
するとおばあさんは、さらに叫び声を上げました。
「この部屋には女がいる! 女がいる!」
私は自分のことだと思って心臓を跳ねさせたのですが、看護師さんは慣れているのか落ち着いたものでした。
「そうですね。女の人の部屋ですから、女の人はいますよ」
しかしおばあさんは、なおも興奮した様子でした。
「そうじゃない! 女がいる! 女がいるんだ!!」
別の意味で怖くなった私は、手探りでサイドボードのイヤホンを取りました。この日は術後で疲れていたこともあり、テレビの音を聞きながら深い眠りに落ちていったのです。
ところで私の母は、毎日のように見舞いにきてくれました。その都度、私の欲しい物や差し入れを持ってきてくれるので本当にありがたかったです。
「おばあさん?」
「しー!!」
母の声は決して大きくはなかったのですが、私は強く制しました。耳を澄ませると、斜め向かいのベッドにいるおばあさんは寝ているようで、タンが絡まったようながらがらとした寝息が聞こえてきたので安心しました。
それでもリンゴの皮をむいていた母は手を止め、私に顔を寄せてきました。
「そのおばあさんがどうかしたの?」
「どうもこうも――」
私はこの数日、気が滅入っている理由を声を潜めて母に話して聞かせました。
認知症のおばあさんは、一日に何度も看護師さんを困らせていました。そのたびにあのやり取りが起こるので、私はうんざりしていました。おばあさんは今もまだ、しきりに「この部屋に女がいる」と訴え続けていたのです。そもそもここは整形外科の病棟なのに、認知症の人の対応をせざるを得ない看護師さんには心から同情してしまいます。またオムツ替えの際の糞尿のにおいも相変わらずで、これではひとりきりの部屋のほうがずっとよかったと私はすっかり辟易していました。
しかし母の答えは呆気ないものでした。
「ふうん。でも大部屋なんだから、仕方ないでしょう」
「まあ、そうなんだけど……」
「あともう少しで退院なんだから、我慢しなくちゃね」
母はそう私を励ますと、ウサギの形にむいてくれたリンゴを手渡してきます。愚痴を共有してくれない母にむっとしながらも、私は素直にリンゴを受け取りました。病院食は不味過ぎるということはなかったのですが、味気ないことは確かだったので、新鮮なフルーツはとてもおいしく感じられました。
そうしていくつかウサギのリンゴをほおばっていたところ、斜め向かいのベッドのほうから唐突に、すすり泣きが聞こえてきたのです。
「う……うぅ……」
いつの間にか、がらがらという寝息は消えていました。
私と母はぎょっとして、声の主に目を向けました。カーテンはぴっちりと閉じられていましたが、それは間違いなくあのおばあさんの声だったのです。
「うう……ぅ……お腹すいたよぅ……うう……」
ささやくような小さな声なのに、病室にほかに誰もいないせいか、何を言っているのかはっきりと私と母の耳に届きました。
どうやら糞尿のにおいがここまできていたように、リンゴの甘いにおいもあちらに漂っていたのでしょう。母は気まずそうに私を見てから、包丁やお皿を片づけ始めました。
数日間このおばあさんと同じ病室にいてわかったことですが、おばあさんに親族や身近な人はいないようでした。当然、見舞いにも誰もきません。背中を骨折しているらしく、一日ベッドに寝たきりなのです。さすがに夜中にまでわずらわされることはありませんでしたが、がらがらというタンが絡まったような寝息はやはり耳につきます。
私のほうは自分ひとりで歩き回れるまでに回復していましたが、おばあさんのベッドはなぜかいつもカーテンでしっかりと覆われているので、その姿を見たことはありませんでした。ただ九十代とは聞いていたので、思っている以上に〝おばあさん〟なのでしょう。
そんなおばあさんはいつもお腹を空かせているらしく、二言目には必ず空腹を訴えていました。食事が配られたとき、ガツガツと忙しなく食べる様子が伝わって、居たたまれない気持ちになります。いちどなど、あまりに急いで食べていたのか、斜め向かいにもかかわらず、おばあさんが落とした器がこちらにまで弾け飛んできたことがあったほどです。
私のサイドボードには父や母が持ってきてくれた菓子や果物がたくさん載っていましたが、おばあさんのサイドボードにはきっと必要最低限の物しか置かれていないのでしょう。トイレやリハビリでおばあさんのベッドを通り過ぎるたび、なんだか申し訳なく思いましたが、私にできることは何もないので、早く退院の日がきて欲しいと願っていました。
そうして二週間が経過していき、首も順調に回復していたので、私はいよいよ翌日に退院することが決まったのです。入院初日以来、いちども金縛りに遭うことがなかった私がしかし、一生忘れられない体験をすることになるとは……このときは考えてもいませんでした。