これは数年前、私が実際に体験した出来事です。
 頸椎に問題が見つかった私は、手術が必要になりました。Sクリニックから紹介されたN病院は近所でいちばん大きな総合病院でしたが、ちょうど入院病棟の建て替え案が上がっていた頃で、私は不運なことに外観も内装も古めかしく時代遅れなこの病院で二週間も過ごすはめになったのです。
 夏も盛りの昼下がり、私は母と共に車でN病院を訪れました。外はうだるような暑さで、セミがひっきりなしに鳴いていたことをよく覚えています。山沿いにあるN病院は坂の上に建っており、澄んだ青空の下に広がる町並みがよく見渡せました。
 平日とはいえ、駐車にも苦労するほどN病院はとても混んでいました。具合が悪かった私は母に荷物を持ってもらい、正面玄関から中に入りました。大勢の人たちが忙しなく行き交っていたものの、冷房が効いた館内はひんやりとしており、病院独特のにおいが鼻を突きました。
 受付を終えたのち、本館を抜けて整形外科の入院病棟に向かいました。N病院は本館と入院病棟が完全に分かれた形になっており、どういうわけか向こう側の見えない大きくて頑丈な扉によって隔てられています。ふたつの病棟をつなぐ回廊は吹き抜けで、一気に夏の空間に放り出されたような心地がしました。セミがうるさいぐらいに鳴いていました。
 私が名残惜しそうに風景を見ていたせいか、入院病棟に続く扉のノブは母が回しました。ぎぎっと耳障りな音を立てて扉が開かれた瞬間、冷気と共に薬っぽいにおいが流れてきて、私は中に入るのをためらいました。入院病棟は本館よりもずっと空気が淀んでいたのです。

「どうしたの?」

 急に足を止めた私を心配して、母が声をかけてきました。たんに具合が悪いと思ったのでしょう。
 真っ直ぐに続く廊下には患者さんや看護師さんの姿があり、それは至って普通の入院病棟だったのですが、いやな気分に襲われた私はなかなか足を踏み出せずにいました。むっとした空気に、息苦しささえ感じていたからです。

「入院したくないな」

 ついぽつりとこぼした私に、母が苦笑しました。

「二週間なんてすぐよ。手術してちゃんと治さないと」
「……そうだね」

 私は理性で自分を納得させ、なんとか入院病棟に入りました。思っていた以上に古めかしい様子にうんざりしたのですが、それでもこのときはなんとか上げ膳据え膳の生活も悪くないと思うようにしていました。
 中央にあるナースステーションで入院手続きを終えると、担当の看護師さんが病室まで案内してくれました。いくつか病室を通り過ぎましたが、どこも年配の方ばかりという印象でした。また整形外科という性質上、自力では動けない患者さんが多いようにも感じられました。

「このお部屋になりますね。ベッドはこちらです」

 看護師さんがそう言って通したのは、ほかには誰もいない六人部屋でした。誰もいない理由が気がかりでしたが、それよりも窓際ではなく廊下側のベッドを割り当てられたことのほうが私には問題でした。

「ベッドは窓際でも構いませんか?」

 私が尋ねると、看護師さんはなぜか一瞬だけ間を空けました。その顔が強張ったように感じられたのは、私の気のせいだったかもしれません。なぜなら看護師さんはすぐに、にこやかに対応してくれたからです。

「いいですよ」

 私はほっと胸をなで下ろしました。たった二週間とはいえ、大部屋ではプライベートが保てるか不安だったので、せめて落ち着く場所がいいと思っていました。東向き、それも山側の病室の窓際は決して明るいとは言えませんでしたが、それでも外の景色が見られたほうがまだ気が紛れるだろうと考えていました。
 看護師さんがベッドを整え直して去ったあと、私と母はさっそく荷物をほどきました。退屈しないようあれこれ用意してきたことで、サイドボードはすぐに物で溢れ返りました。普通の入院患者さんよりもずっと持ち込んでいたと思います。

「何か必要な物があれば言ってね。すぐに持ってくるから」

 母が帰り支度を始めると、途端に心細さが襲ってきました。慣れない入院生活を送らなければならないという現実を、ここでようやく実感することになったのです。

「……うん、ありがとう」

 しかしながらも私はもういい大人だったので、なんとか感情を抑え込みました。
 吹き抜けの回廊まで母を見送ると、もう夕方になっていたことに気づきました。ミンミンと鳴いていたセミの代わりに、ヒグラシがカナカナと鳴き始めていました。夕闇に染まり始めた町並みを見下ろしてから、私は病棟に戻りました。
 ひとりで病室に入ると、またあのいやな感じがよみがえってきました。人の行き交う廊下は病院ならではのざわめきに満ちているのに、この病室はなぜか対照的に静かなのです。私のほかに誰もいないからでしょうか。けれどこれだけ山に近いのに、セミやヒグラシの声も聞こえません。ぶうんという空調機の音だけがやけに耳につきます。ともあれ、翌日に手術を控えていた私は、この不気味な病院についてあれこれ考えるのをやめました。病気を治すためにきたのだから、まずは手術に集中しよう、そう思ったからです。
 その夜、私はなかなか寝つけませんでした。明日が手術という緊張と興奮からか、慣れない病室のベッドで横になっているせいか、神経が昂ぶっていたのでしょう。ベッドがぎしぎしと音を立てるほど、何度も寝返りを打っていました。目に映るのは無機質な色のカーテンだけ、聞こえるのは空調機の音と秒針を刻む時計の音だけです。
 どのぐらい時間が経ったでしょうか。ようやくとろとろした眠気に身を任せようとしたとき、それは唐突に訪れました。金縛りです。明確な意識はあるのに、身体がまったく動かせなくなったのです。けれど私は焦ることなく、冷静に対処しようとしました。何度も経験しているということと、金縛りは『睡眠障害』の一種であると科学的に解明されており、その原理を知っていたからです。
 夢を見るレム睡眠のときに、金縛りは起こります。夢を見ているので脳は活発に動いていますが、身体は休んでいる状態にあるのです。さらにレム睡眠時には呼吸に影響が出て、浅くなったり速くなったりすることがあるそうです。だからこそ息苦しさを感じたり、圧迫感を覚えたりするわけです。また目を覚ましていると思っていても、実際には目を閉じていることがほとんどで、金縛りに陥る直前の風景などが鮮明な夢となって映し出されます。このときに幻覚や幻聴が起こり、恐怖を感じることが多いと言われています。
 私は小さい頃から金縛りに遭いやすい体質でした。そして金縛りに遭うと、いつも怖い思いをしていたのです。だからこそ金縛りに遭っても冷静でいられるように、金縛りの原理を調べて自分に大丈夫だと言い聞かせるようにしてきました。
 今回もまた例に漏れず、得体の知れない恐怖が背筋をじわりと這い上っていました。目を閉じているはずの私が映し出した空間は、先ほどまで見ていた病室の風景です。ベッドの上で横向きに寝そべっている私、そして無機質な色のカーテン。聞こえるのはぶんぶんうなる空調機の音、カチコチと時を刻む時計の音……そして息づかい。そう遠くない場所から、すうはあと確かに呼吸する誰かの存在を感じていました。

(大丈夫、大丈夫)

 私は心の中で懸命にそう唱え続けていました。金縛りに遭ったときの儀式でもあります。
 すう、はあ。すう、はあ。

(大丈夫、大丈夫。これは夢、これは夢)

 すう、はあ。すう、はあ。
 それはだんだんとこちらに近づいている気がしました。

(大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……!)

 たとえ夢であっても、怖いものなど見たくありません。
 すう、はあ。すう、はあ。
 ゆらりと、目の前のカーテンが揺らぎます。

(大丈夫、大丈夫、これは夢、大丈夫、大丈夫、これは夢、これは夢!!)

 次の瞬間、なんの前触れなくぱっと身体が動かせるようになりました。私の努力が実ったのでしょう。しかしこのまま再び眠りにつくと、つい今しがた見ていた夢と同じ夢を見てしまうと経験的に知っていた私は飛び起きました。正常な眠りに入れるまで数分、どんなに眠くとも起きていなければなりません。
 目覚めた世界の病室にはもうなんの気配も感じられず、空調機の音と秒針を刻む時計の音だけが聞こえるだけです。

「夢だった……夢――いつものこと……」

 いつの間にか額ににじんでいた汗を拭ってから、私は横になりました。そうしてこのあとは何事もないまま、朝を迎えることができたのです。